『透明なゆりかご』をみた

以前見ていて、なぜか途中で観なくなってしまっていた。たしか4日連続再放送で、一日3話連続で配信みたいな感じだった。夜に用事があってみられなかったのかもしれない。なので、6話からという風になっているが、なんとなく書いてみようと思う。note初投稿。いつか読み返して恥ずかしくないようにしたい。なんとなく。

第6話【人工妊娠中絶】そんなふうに命を無駄にするなら子ども作るなって言う言葉は母親に向けられる。だけど、その背景に何があるかって、相手が避妊に協力してくれないことが一つ大きな理由としてある。誰だって、望まない妊娠は怖い。それでも責任の追及や社会の非難の的は母親に向く。相手は怖くなって逃げる。連絡が取れなくなる。母体のことも考えずに、「おろせ」という。もちろん責任をもって育てようという父親もいる。この話に出て来る、山の上の中絶手術を3万円でしてくれるおじいちゃんの医者。なぜ中絶しに来たのか理由を問い、「こんなこともうしちゃだめだよ」という言葉をかけたあとに(描写はないが、おそらくそう)自殺した女子学生のことを忘れられない。誰も、なんの罪悪感も抱かずに中絶をするわけじゃない。彼女が悪い訳じゃない。女子学生はきっと、罪悪感と不安に追い打ちをかけられて死を選んだ。「あの手術台に載って、こんな楽に中絶できるならいいか、なんて心の底から思う人はいないはずだよ」医者はそうつぶやく。私もそう思いたい。悪いのは彼女じゃない。この思いたい気持ちも誰かを生きづらくさせてるかもしれないけど。

今は、掻把法による中絶は女性の子宮を傷つけるとしてかなり批判されている。精神的苦痛も大きい。海外で使われるような薬が日本でも認められるようだ。「楽に中絶できるという輩が増える」という批判が出ないようにと願いたい。この問題の根底になにがあるのか、女性への批判でことがおさまるのか。考える必要がある。「いつか望んだ時、彼女たちが子どもが産めるように」。


第5話(?)【不妊治療】前首相は、保険適用で費用が高額ではなくなったことを業績としてあげてる。もちろん、いいことだとは思う。でも、「子どもを産まなきゃ」ていういわば圧力みたいなものの後押しをしている側面もあるかもしれない。安くできるんだから、もっと「産まなきゃ」のハードルが下がるというか。自分が子どもを欲しいと思ってなくても、相手の親からの圧力がすごいなんてことザラにあると思う。その親が悪いとは言わない。孫の顔が見たいとか当たり前の感情だと思うし。でもそれを押し付けるのは違うかな、とか。思ったりなんだり。
親の立場に立ったとき、自分の子どもが「うまくできない、周りと違う」ってなったとき、自分ならどう思うだろうかってのを考えた。アオイの母親に「恥ずかしい」と思わせたのは、アオイじゃなくて社会だと思う。というか私も、なんでもかんでも障害ってつけなくていいんじゃないかなって思っていたことがあった。でもその思い自体に、障害への偏見があったんだなってのを最近考えた。「ちょっとうまくできない」っていう認識でいいんじゃないのって思ってたけど、そんな甘くない。「ちょっとうまくできない」のは、「努力が足りないから」とか「だらしない」とか理由をつけたがるから。彼女には、健常とはちがう障害があるんですよ。喘息持ちの子が突発的に発作になってしまうようなものなんです。仕方ないんですよ、という診断があれば、アオイの母親やアオイのように生きやすくなる人がきっとたくさんいる。それを考えられていなかった。

子どもをうむってなに。私はたぶん、自分が親になるとかそういうことに実感を持って考えていない。だからこそいつも子どもの立場になってしまうというか、そういう側面絶対あると思う。親ガチャってのも最近言われるけど、独立したというか全く個体の違う人間なのになんで親の影響がそんなでかいの?ていう疑問、なんか多分物心ついたときというか、中学受験するあたりくらいからきっとその芽はあったんだろうなって思っている。
親ガチャあたり、とかはずれ、とかそういう議論が出てくるのって、今の時代にすごく沿ってるんだねきっと。格差社会。みたいな。ただ、私がその議論に乗っていい立場なのかは疑問。笑。教育を十分すぎるほどに受けてきた身としての「いいのかな」感があって、でもそれは失礼なんだよなあ。でもなんだかなあ。てのを去年くらいから考えるようになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?