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“好き”への罪悪感を超えたら

5月18日に、瀬戸内国際芸術祭の春会期が終わった。好きなものに、真っ向から向き合った1ヶ月間だったと思う。脱力感を纏いつつも、なんというか、隠しきれない高揚感を持っていて、「楽しかったんだなあ私は」なんて、今さらながら余韻に浸っている。

好きなものに向き合ったのは、いつぶりだろうか。書くことを仕事にしたときとはまた違うまっすぐさがあって、楽しくはあったけれど、ずっとそわそわしていた。

正直なところ、春会期が終了するまでは小さな“恐怖”と対峙していたと思う。年を重ねるごとに、好きなものの“真っ向”ではなく“斜め”のあたりをうろうろしていた、そのツケだろうかと考えていた。


好き、と聞いて思い浮かぶのは、踊ること。3歳くらいから習っていたバレエが好きで、ショッピングモールのBGMを聞いては体が勝手に動く子どもだった。大学受験や進学を目前に控えた高校3年生まで習っていたのだから、相当好きだったんだと思う。

ただ、好きという気持ちの隣にはいつも“葛藤”があった。


何はともあれ、好きなことを続けるとお金がかかるのだ。当たり前に出てきた壁に、例外なくぶつかっていた。バレエをはじめとした文化芸術の領域は、一般論で言えばある程度お金をかけて楽しむもの。続けるほどの金銭的余裕はないと、子どもながらにわかっていた。だから、楽しい気持ちは日に日に強くなるのに、“後ろめたい気持ち”も強くなっていた。

実際に何度か「辞めてもらうかもしれない」と切り出されたことがある。相場よりもお金がかからない教室に通ってはいたものの、続けるとなれば話は別。安くないお金をかけてもらっていたのも、理解していた。

それでも当時は本当に好きで、本当に辞めたくて、レッスンに通う頻度を最低限にしたり、発表会で披露する曲数を減らして参加費や衣装代を浮かせたり、少しずつ少しずつ、あれやこれやとごまかしながら、なんとか続けた約15年だった。


厄介だなあと思っていたこともある。私は、踊るのがあまり上手くならなかったのだ。現実的な練習量を差し引いたとして、それでも結果が出るのは仲間よりもずいぶんと遅かった。ずっと家族には申し訳なくて、無理を言ってお金をかけて続けさせてもらっているのに……と思っていた。後ろめたい気持ちは、増幅する一方だった。

好きな気持ちと、罪悪感。
私のなかでは、イコールだったのである。


言うまでもないが、“罪悪感”は私が必要以上に感じていただけであって、誰が悪いという話ではない。家族には好きなものを15年も続けさせてもらって、とても感謝している。

罪悪感が根強く残っていたと気づいたのは、瀬戸内国際芸術祭の春会期が終わったつい最近のこと。好きなものを目の前に、小さな恐怖と対峙していたのも、斜めのところでうろうろしていた過去も、罪悪感を引きずっていたからだった。

罪悪感を抱える理由は、もうない。過去は過去、今は今なのだから、夏も秋もその先も、真っ向から“好き”に向き合おうじゃないか。


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