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御府内八十八カ所 発願

祖父は、仏壇の前で般若心経を唱えるのが日課でした。

最後の締めは

ありがたや たかののやまのやまかげに たいしはいまもおわしまします
くうかいの こころのうちにさくはなは みだよりほかにしるひとはなし

と、唱えていました。

実家は、祖父の代からの分家です。法要を営んだことはなく、親戚の法事があれば、丁稚気取りで祖父のお供をして小遣いをせしめていた私も他家では聞いたことのない、それは謎の〝呪文〟でした。

祖父が亡くなったのは、私が高校生の時です。毎夜の読経は父へと代替わりし、あの〝呪文〟を聞くこともなくなりました。

ところが、祖父が亡くなって二十年ほど経過したある日。

つけっぱなしのテレビから祖父の〝呪文〟が流れてきたのです。テレビに映っていたのは高野山。

すでに独立していた私は、急いで実家の母に電話しました。
「弘法大師のご詠歌だった!」
よく考えれば、〝空海の心の内に〟とあるのだからわかりそうなものなのですが、実家は禅宗。基本的に弘法大師に触れることはないのです。

思いがけず呪文の秘密は解け、しばらく母との昔話を楽しんたのでした。

さて、いよいよお遍路さん開始です

第1番 高野山東京別院
高輪ゲートウェイ駅下車
桂坂を登る

坂名の由来は
昔、蔦葛(桂は当て字)がはびこっていた
かつらをかぶった僧が品川から帰途急死したともいう

かつらかをかぶった僧がナ二しようとしたのかは想像できるけれど、後世に残るようなマネまでしなくても……と思わないでも。

東京別院は、この坂を登った先の、警察署を曲がった先にある。警察官たちの号令が響いていた。

1番札所 高野山東京別院

高野山真言宗 総本山金剛峯寺の別院 延宝3年(1673年)建立
家康が江戸に転封になったのは天正18年(1590年)のことなので
そのあとの建立になる。
説明書きによると幕府との調整を担っていたようである。
入館料はないが、納経の箱の上に〝千円〟と書いてあり、この路を教えてくれた甘味屋の主人の「面白いけど金がかかる」という言葉がチラッと脳裏をよぎった。
御朱印帳を購入して(3000円)、納経する。
それからは、いったん、駅に戻って今度は目黒駅で下車。

駅近の立地にあるのは、第4番 高福院

本堂はこの奥

高野山金剛峯寺の塔頭(たっちゅう)
寛永の頃に松平讃岐守の下屋敷造営の際に高野山に要請して建立したという。(讃岐の守は徳川光圀の同母兄の家系)

庫裏の呼び鈴を鳴らして御朱印をいただく。

再び駅に戻って山手線内回りで田町駅下車 西口から出る
5分ほど歩くと〝慶応仲通り商店街〟のアーケードがあった。三田会なんか関係ないとキリッと左折したのに、結局、慶応大学の前は避けられず、ラーメン二郎に並ぶ人々を横目に歩く。

第65番 大聖院

都会の寺ならではのコンクリ的な風情。
御朱印が扉の前にあり、代わりの用紙と差し替えて欲しいと書いてあった。

第69番 宝生院

隣にも建物があり、呼び鈴を押して御朱印をお願いする。
お寺の広報紙をいただく。真言宗智山派・総本山智積院のパンフレットもいただいた。

第80番 長延寺

扉の前に用意されていた御朱印をいただく

この通りは、寺町のようで同じ通りに今回御朱印をいただいた3軒の寺だけでなく、他にも天台宗や浄土宗のお寺があった。
これは想像なのだけれど、天災かなにかがあり、復興にあたり区画変更が行われることとなり、この辺りに寺院を集められたのではないのだろうか。

田町駅に戻り、今度は山手線外回りで品川経由、京急鮫洲駅にて下車。
駅前に山内容堂の墓所があった。

気になるものの、立ち寄る気力はすでになく
左折して通り過ぎる

徒歩10分で

品川とは思えない堂々とした門構え
第26番 来福寺

正暦元年(990年)智弁阿闍梨が創建したとされ、文亀元年(1501年)に延命地蔵を本尊として安置した真言宗智山派の寺院。

と、いうことは江戸時代以前からあることになる。大河ドラマで中村獅童が演じていた梶原景時が庇護していたという伝もあるようだ。

納経場所が置かれてないなら読経でいいではないかと今更ながら気が付いたので、般若心経を唱えて門を出る。

御朱印一覧



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