手段の目的化、非常にやっかい

タイトルの通り、何かをやろうと思って取り組んでいる手段そのものが目的になってしまうのは厄介である。

例を挙げてみると、大学受験の勉強の場合。目的は志望する大学への入学だ。目的は大学入学でそのための手段として入学試験合格→合格するための勉強(準備)だ。もっと言えば、大学入学すら手段でしかなく、大学で学ぶことが本当の目的じゃないかというのは置いておく。

入学するためには入試合格が必要で、合格するためには合格点を得るための勉強が必要となり、そのためにあらゆる手段を講じることになる。テストで常に高い点数を取れるように訓練をするのは良いが、100点満点は必要ではない。要は合格点であれば良いのに100点を目指して若者たちは頑張るわけだ。これぞ手段が目的化している好例だ。

100点を目指して勉強することの何が問題なのですか?それは無駄が発生するということである。無駄のどこがいけないのか、必要な無駄もあることは承知しているが、とはいえ効率化を妨げる要素には違いない。

また目の前の「手段」に執着してしまうと、本来の「目的」が見えにくくなり、忘れたりすることでモチベーションを維持できないことも出てくる。入試の例で言えば、大学に入学して勉強することが目的なのに、入試の模試で高い偏差値を得ることに執着するあまり入学前に疲弊しきってしまうのは本末転倒だ。嘘みたいな話だが大学入学時点で「燃え尽き症候群」のような人物は少なくないと聞く、残念だが。

先日も書いたが、「目的」を正しく捉えてそれに向かう最短距離を意識した生き方、行動の指針は大事だと思う。

がむしゃらにやっていても、時々立ち止まって「あれ?これ何のためにやってるんだっけ?」「私は何をしたいんだっけ?」「目的に向かう途中、今どこにいるのか」と自問自答する癖をつけておくべきだ。そのためには少なくとも日々の振り返りは必要かつ重要だと思う。

日記でも、手帳でも、SNSでもなんでも良い。大事なのは振り返り、それを記録して後で見返す時間を作ることだ。その作業自体は非常に簡単だが、継続することは難しい。私もそれに挑戦している、どんなに疲れていても継続していこう。


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