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#6 母

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書きたいことがありすぎる。
すみません今回は少し長くなるので、あったかいところで紅茶でも用意してから見てください。
まだ20と数年しか生きてないのだけれど、母には感謝しきれないことが50年分くらいある。(どういうこと)
マザコン、、というわけではないと思うけど親孝行はしたい。
これを読んでくれれば、あ~確かにそれは感謝するやろうな。って思うと思う。
今だけ俺の気持ちになって読んでくれよな(^^)/

まず、母がどんな人か。
日々の生活は自由でよく食べてよく寝るどっかの海賊みたい。
性格は小さいことは気にしないゆってぃスタイル。
がんばることが嫌いで自分が楽をするためなら頑張る人。なんか矛盾してるけど、伝わるかな笑
母には妹が一人。僕にとっての叔母。
二人は昔から仲が良く、喧嘩はしたことがないそう。
そういう妹を持っていることもあって、とても平穏な人である。

そんな母は中学時代から付き合っていた僕のぱぱと22歳で籍を入れ、23歳で姉を生みます。
※ちなみにその姉も23歳でまなとを生んだので、母は46歳にしておばあちゃんになりました。サザエんとこのフネとは大違い。

その5年後、のなかこうしんが3900gで爆誕します。でけえ
生まれてすぐ黄疸病(赤ちゃんがなりやすいやつで血液の成分的に肌が黄色くなっちゃうやつです)にかかり保育器にぶち込まれます。
保育器は小さく生まれてきてしまった子が入ることが多く、その保育器は一つの部屋に集められているそう。
母はおっぱいを与えに行かなければなりません。母はのちにこう語ります。

「わたしあんたにおっぱいあげに行くときしんけん恥ずかしかったけんな!みんな小さくてか弱そうなかわいい子がいっぱい寝ちょんのに、わたしだけ黄色いでかい塊におっぱいあげに行きよったけんな!」

黄色いでかい塊、、、
言い方よ。
これは誰も悪くないよね
母は笑ってた

それが理由ではないけど笑、僕が生後半年の頃、母とぱぱは離婚した。
金銭的価値観が変わっていったそう。
母子家庭の方が色んな手当が出て得したりすることもあったため、潔く決断したらしい。ちなみに病院代はタダ。僕は中学上がるまで病院でお金がかかることを知らなかった。

それから女手一つ子供3人を大人3人にした。
育ててもらって言うのはあれやけど、これほんとにすごいと思う。
甥っ子が生まれて少しだけ分かった気でいるけど、子供一人育てるのでも相当大変。言うこと聞かんし、熱は出すしで誰かに見てもらわんといけん時なんかいっぱいある。ましてや、片親やし、ようやった。(偉そうに言うな)

それでも母は、「あんたたちはそんなに手かからんやったよ。反抗期もなかったし、私なんもしてねえもん。」と言う。
確かにうちの親の教育スタイルは放置型教育。
「なんでも自分でしなさい。病院だってお金かからんやろ。パスポートも調べれば自分で取れるやろ。あんたたちが自分でできないことだけは手伝ってあげる。病院にも連れてくし、留学のお金だって出すし、親のサインもするし、迷惑かけたら謝りにもいく。そもそも人の迷惑にはなるな。考えて行動しなさい。その代わり門限はないし、自由にしていい。」
スパルタやけど合理的な母と相性は良かったと思う笑
おかげで小学生の頃は9時とかまでサッカーしてあそんでたし、中学は日付変わるまで話し込んでたし(補導されるから)、高校になったら三日ぐらい帰らんでも怒られんやった。

自分が学生時代そうやったらしい。
あそべるときは遊んでほしい。学校さぼってパルコに遊び行くそういう母だった。

昔のビデオカメラを観てもやたらハーモニーランドとか城島とかの映像が多い
毎月連れて行ってくれてたらしい。
理由は子供が小さい時くらいしかしてあげられないだろうから。と、
母子家庭だからと言って遊びに連れていけなかったという後悔が残りそうだったから。
普段テキトーやけどそういうとこはちゃんとしてくれてたんやなあ

夜遅くまで働いてくれてたから、保育園のお迎えは大体いつも最後の方やった。
保育園は楽しかったし、毎日お迎えの時間になるとDVDを見る保育園で、迎えが来た子から帰っていく。でも俺は遅い組だったから長めにトムとジェリー見れてた。

そして、22年間母と暮らしてきて忘れられない日がある。
たくさんのエピソードはあるけど、時は一旦2021年7月に飛ぶ。

このお話はまた次回
これ以外の母との話は笑い話しかないからご安心を。笑

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