書評:福間良明『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書、2020年)
私が通っていた高校には、定時制の夜間部があり、そのため教科書を机に置いていくことが禁じられていた。グラウンドには照明があったが、部活動は夕方には終了して帰らなければならなかった(私自身は部活動には参加していなかったが)。入れ違いでやってくるはずの夜間部の学生と話したことはない。高校生の私にとって、彼らは影のような存在だった。
本書は、戦後日本の中卒労働者が、青年団の講座や定時制高校で勉強を継続しようとした際に行き当たった諸問題を解説する。彼らには進学組への憧れと嫉妬があり、その裏返しとして実利的ではない「教養」を身につけることを求めた。「人生雑誌」の隆盛も、勉学意欲と能力があるにもかかわらず、家庭の経済的事情で就職せざるを得なかった若年労働者(勤労青年)の存在を映し出す。
しかし、高度経済成長期に入ると、高校進学率が上昇し、社会全体が功利的になっていく。七〇年安保反対運動の衰退は、人間はいかに生きるべきかという問題を支えるはずの教養までを衰退させた。人生雑誌は廃刊になり、定時制高校は閉鎖されていく。私が通っていた高校でも、当時すでに、勤労青年よりも高齢者の学び直しが多かったらしい。その高校では二〇〇五年に募集を停止し、その数年度に定時制は廃止された。
いまや教養を身につけたくて進学するという動機は、社会的に認知されなくなった。大事なのは技術(スキル)である。だが、技術とは、その本質から、誰が習得しても一定のレベルに達するものである。つまり、それぞれの人生とは結びついていない。そのようなものこそ「客観的」で意味がある、という現代において、教養とはすでに死語であることを、あらためて思い知らされる。