グループワーク より幸福になるため
大学院の授業で、「幸福」について考えるワークを頂きました。
お題としては、「幸福度」の計測方法を提案し、自分達を被験者に調査、その上で分析して、より「幸福」になるための提言をまとめなさい、というようなもの。
気になったコンセプト
マーティン・セリグマンとポジティブ心理学
1942年生まれの心理学博士です。最初の成果「学習性無力感」の考察、自分に起こる事をコントロールできない事を学習してしまう仕組みですね。逃げられない嫌悪的刺激を繰り返されると、自分自身を助けることが出来る時でも、状況を変えられないと条件づけられてしまう。
その後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に対しての心理的健康を増進する為のプログラムを体系だて、心理状態をマイナスからゼロに戻す治癒・治療を究めていき、楽観主義(オプティミスト)の研究に繋がります
悲観主義や無力感が後天的に学習できるのであれば、楽観主義や希望も学ぶことが出来るという仮説を立て、ポジティブ心理学と呼ばれる分野を広げました。「人生を最も生きる価値あるものにするのは何かに関しての科学的な研究」と説明されています。その結果としての、持続的幸せの要素として、以下のPERMAと呼ばれる5つの柱を構成しました。
Positive Emotion:ポジティブ感情
Engagement:関わり・没頭や突入・楽しいことに関わる
Relationship:豊かな人間関係・協力してくる人を見つけること
Meaning:人生の意味や意義・肯定的な意味を見つける
Accomplishment:達成・マスター・やり遂げること
ソニア・リュボミアスキーと幸せのパイチャート
1966年生まれの心理学者です。「幸せがずっと続く12の行動様式」という一般書で広く知られています。
幸せのパイチャートはざっくり言うと、幸福の50%は遺伝的要素から、40%は日常の活動から、10%は生活環境から決まる、というもの。この数字はざっくりしたものとして捉えるべきかと思いますし、実際には遺伝的要素が活動と結びつくなど相互に影響する事は間違えないと思いますし、リンク先でも様々な見解が述べられています。
幸福への要素は単純ではないけれど、少なくとも「個人の努力」だけではない要素が多分にあるというのが重要なのかと思います。
この10%の生活環境に対しては、世界的な統計調査によって、各国での幸福度に影響を与えているであろう因子の把握と分析が行われていて、レポートとしてまとまっています。
レポートを見て頂くと、公衆衛生的な視点で幸せにどのようにアプローチしているかが見て取れます。でも、概ねここでアプローチできるのは上記の10%の領域であると。
前野隆司教授と幸せの4つの因子
前野さんは、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科の教授です。イノベーション教育と幸福学が専門とのこと。経営学との関連性で幸福について分析的に研究されています。
この中で、様々な主観的幸せを測定する為の指標を分析した結果として、4つの因子として相関をグルーピングできそう、という見立てがされています。
「やってみよう因子」 仕事でいうとやる気をもってやっている、やらされ感ではなく。自己実現のためにやる意思を持っていること。
「ありがとう因子」 人に承認されて、できれば尊敬されたり愛されたりすること。人との関係性が良好であること。
「なんとかなる因子」 前向きで楽観的な人は幸せで、自己実現するための行動に対して積極性を持っていること。
「ありのままに因子」 金銭、所有物、地位などを目指しすぎず、自分らしさをありのままに認めて、それを前提に生活を送れていること。
この延長として、イノベーションを生み出す諸条件は、幸せになろうとすることと共通点が非常に大きいことも指摘されています。イノベーティブな社員は幸せであることと相関があるという研究もあり、それが経営の為に社員が幸せである必要性に繋がっていきます。
例に挙げられているのは、伊那食品ですが、社員を家族として信じられている事、それ自身が幸福であろうと感じます。会長が幸福であり、社員に幸福であって欲しいと真に願っている。上記の4つの因子をそのまま経営に当てはめているようにも見えます。
自分なりの分析
知ってしまう事による不幸
満ち足りてしまう事による不幸、みたいな命題は小説や映画でも良く取り上げられるテーマです。一方で、未開の地で暮らす人達はみんな澄んだ目をしていて幸せそうに暮らしている、みたいな洞察も良く見かけます。
ここで重要なテーマは「構造的貧困」なのではないかと思います。貧困はいろいろな定義がありますが、国連開発計画(UNDP)による多次元貧困層では以下のように定義されています。
幸福に必要な生活環境のレベルが全く満たされない状態は、貧困の主要な要素になる事は間違え無さそう。一方で、だからといって幸せではないとは限らないとも思えます。どのような環境におかれていても(程度問題はあるとしても)幸せのパイチャート理論的には遺伝の50%と行動の40%の部分で十分幸せを感じる事ができそうです、ただし「比べなければ」。
開発経済学の研究者、スーザン・ジョージによる「なぜ世界の半分が飢えるのか」に挙げられている構造的貧困は、主観的な幸せに対して、豊かさをもたらしうる外的情報がもたらすインパクトを示しているのかと考えます。もっと豊かになる事、それが幸福に結びつきうる事を知る事で、今まで感じていた幸せが失われてしまう。
私たちだって、つみたてNISAをしておけば良かった、マンションを買っておけばよかった、サプリメントを食べればもっと健康になったはず、知らなければ幸せなのに、知ったことで不幸になる事はありそうです。しかし、だからといって「知らない事が幸せなのか?」はちょっと分かりません。
幸せへのアドバイスに対する拒否感
日本人が「プロフェッショナルに頼らない」傾向が強く、それが幸せを遠ざけている可能性について考察してみます。例えば、ファイナンシャルプランナーとかカウンセラーなど、もうパターンとして学問的に分かっている「幸せ」への方程式を知っている人に、聞けばいいのに聞かない。自分を振り返っても、プロにお願いして部屋を片付けるとか、確定拠出年金をファイナンシャルプランナーにアドバイス頂くとか、いくらでも幸せに近づく方法はありそうだけれど、頼るのに心理的障壁を感じます。もっといい方法がありそうだけれど聞きたくない感じはなんなのだろう。
ファイナンシャルプランナーのいう事を聞いて、合理的なインデックス投資によってインフレに備え、計画的に住居に対して賃貸にしても持ち家にしても適正な支出を行い、養育に必要なコストは社会や両親や子ども自身と適切に分け合い、パーソナルトレーラーをもって適度に運動をしてガン検診を毎年ちゃんと受けてリスクに備える。
合理的に幸せにつながる行動を取る事は幸せに繋がるはず。なのに、素直に従えない自分に気が付きます。無意識のうちに、共通の「幸福」という事を目指す事に拒否感を持っているのかもしれません。そもそも、幸福の追求って、ちょっと宗教的ですよね。
幸せを次々に提案してきて、幸福を消費する現代文明に背を向けて、不要な幸せへのヒントを遮断して自分だけの幸福を追求する、みたいなストイックな生き方にもあこがれちゃう部分も自分の中に感じます。俺の幸福は俺が決める、みたいなへそ曲がり。
主観的な幸福への干渉
客観的にはとても幸せな選択だと思えないことでも、本人は幸せを感じているようだ、という事は良く見受けられます。一方で、上記の前野さんは、幸せの因子として「俯瞰」出来る事を挙げています。
例えば、脱法ドラッグを日常的に使っている人が、日々幸せである、としても客観的には評価できないし、恐らく中長期的には不幸な事になるでしょうし、近い人であったら何等かの干渉をしたくなるに違いありません。
でも、これがアルコールだったら?たしなむ程度なら良い?肝臓はどんどん壊れていきますよ?
問題は、主観的に幸せであるといっても、客観的に幸せではない、そのようなケースを個人の意思や価値観などの結果として尊重するべきなのか。日本は、客観的には幸せであって良さそうなのに、主観的幸せのレーティングは低めと指摘されていますが、逆のパターンで、社会的に認められる仕事に没頭して主観的には幸せ、だが、住環境も食環境も関心を持たず、健康を損なうような客観的には幸せではない、というような事例にどのように接するべきなのか。
私たちは、なんとなく、「幸せと感じるのは心持ち次第」と思っているかと思います。でも、これが過度に強化されると、客観的に幸せでない状態でも「幸せと感じている」ケースも起こりそうです。
公衆衛生の優先度として「幸福」をピックアップし、客観的に幸福でない人に対して、たとえ主観的に幸福であるとしても、より客観的幸福につながるナッジ(行動変容への誘導)を与えるというアプローチが初めて価値を持ってくるのかもしれません。
主観的な幸福につながる気づきをどのように提供し、いかにして受け取ってもらえるか。これは、気づきを受け入れられる気持ちを持っているのか、みたいな部分にも大きく影響しそうです。人から何かアドバイスされると、何か攻撃されたような気持ちになって反発してしまうような気持ち、幸せを遠ざけそうです。
全体として思う事
幸福につながる考え方
幸福の「感じ方」には生まれつきの個人差(遺伝的要素)がある。自分自身が「幸福でなければ」と頑張る必要はない(それは幸せでない)。
日常の活動は、幸福につながる大きな要素を持っていて、それは生活環境よりも重要。個人的な活動を変えていこう、環境を憂いるよりも(それは幸せでない)。
ポジティブに捉えられるならいいけれど、そうでないなら誰かを頼ることも考えよう。幸せを連れて来てくれるかもしれない(俯瞰的を失うことは幸せでない)。
あなたの幸福を誰も否定しないけれど、人生はどんどん変化していく。今の自分を認めながら、アドバイスも参考に、新たな自分を発見していこう(やってみないのは幸せでない)。
あなたの感じる幸せはあなたのものだけれど、あなたにはそれを変える力がある。でも、それを一人でしょい込む必要はない。なぜなら、世の中は全体として、幸せであることを求めているのだから。
みたいな所なのかな。
幸福度の計測方法について
盛大に遠回りしてしまいました。なんとなく、幸福につながる要素それぞれに対して、それにどれぐらい期待していて、どれぐらいそれが満たされているのか、そういう計測をすればいいように思えます。
例えば、設問として、幸せの客観的定義と、幸せという言葉を使わない自身の状態を独立して聞いてみたらどうだろう? これによって、価値観ギャップの大きさを測れて、比較する事で、主観的幸福感と客観的幸福感の大小を推定できるのではないか。
回答項目は、エド・ディナーによる人生満足尺度(SWLS)で用いられた7件法を用いましょう。キャントリルスケール(0から10)は、統計処理には向いているものの、被験者が少ない場合のバラつきが大きすぎるように思えます。
評価としては、もちろん、絶対の数字の平均からみた大きい小さいも気になりますが、それよりも、
客観的評価より主観的評価が大きい、もしくは両方が高いのであれば、主体的に幸福に向けて動いている可能性がある
客観的評価より主観的評価が小さいのであれば、自分でも認識している「幸福になれない理由」がありそう、肩を押せる場所があるかもしれない
客観的評価と主観的評価の差が少ないのであれば、自分は気が付いていない「幸福との思い込み」がある可能性もある
適当な仮説ですが、幸福を妨げているファクターを類別化出来ないかな、と思ったりします。
自分でやってみた
適当な分析とまとめ
私の場合は、
楽観性とアドバイスを受ける部分で、実際のほうが小さい数字になっている。人のいう事を聞いて、もっと楽観的に生活したほうが良い、という潜在的思いがあるのかもしれない。それを除くと、概ね幸福な状況なのではないかと推察される。
幸せのコーチングを受けるのはちょっと難しいかもしれないが、「もっとこうしたら楽しいよ」というお誘いに対して感度を高めて、これまでやったことないこととか、知らない人と会う、みたいな事が更なる幸福度の向上に貢献すると思われる。
なんか、統計的分析感はまるで無いですが、何か考えるヒントにはなるかな、って位ですね。これを数日で行うと、散らばり位は見えると思うのですが、、。
ここまでの取り組みにより、幸福はとっても難しいテーマで、でも、国連も行政も心理学も経済学も、みんなが着目する理由も少し分かった気がします。要するに、幸福度みたいな事をアウトカムに出来れば、主観的満足から健康への貢献から環境へのインパクトまで、あらゆる文明的活動を一軸で評価できる事なり、非常に都合が良い。一方で、幸福が個人の意思によるものとすれば、あれこれ言われたくない気持ちもありそう、その心理的ガードをうまく回避するには、認知心理的アプローチが有効に思えます。
最後に、ディスカッションを通して様々な気づきをチームメンバーの方に頂きました。謹んで感謝いたします。