「なんでもいい」をやめる
「とんかつはちょっと違うかな」
外食することになり、とんかつを提案してきたかつての恋人にそう返すと彼はとっても驚いた。
いや、喜んだ。
「とんかつ嫌なの!?」
「うん。とんかつはやだ」
「えー!えー!えー!そうなんだ!うわ~!」
彼はニコニコしている。
なんで嬉しそうなんだろ?って思い尋ねると、
彼の提案にわたしは必ず『いいね!』って返していて、それが気を使って自分の意見を飲み込んでのことなんじゃないかと思っていたとか。
わたしの本当に食べたいものややりたいことができているのかいつも心配だった、と。
「初めて『嫌』って聞いたからちょっと感動しちゃった。そっかーとんかつは違ったか~!」
ハッとした。
わたしはアレルギーも嫌いなものもないし、基本的に殆どの食べ物がすき。
だから決して遠慮しているわけではなく、彼と食べられれば本当に何でもよくて、それなら彼の好きなものを選んでもらうのが最善策だと思っていただけだった。
よかれと思って「なんでもいい」のスタンスを取っていたけれど、きっと彼はさみしかっただろうと思う。だって「やだ」って言われてこんなに喜んでいるんだから。
「なんでもいい」って言葉は相手の意思を尊重しているように見えて突き放すような冷たさがあると思う。
まるで「あなたとの時間に関心がありません」って言うような。
学生の頃の友人でたまにお誘いをくれる子がいたのだけど、集合場所も食べるものも旅行で何するかも全部「なんでもいい」と言うタイプだった。
なので結局わたしが決めていたのだけれど、それに対しては全て「いいね!」と返ってきた。
肯定されているはずなのに、わたしはどこか不安だった。彼女がわたしとの時間に無関心なように見えて仕方なく、本当にいいねと思っているかどうかも疑問だったからだ。
それでも定期的に向こうから声をかけてくるので無関心なわけではないとわかったけれど、結局わたしから彼女に声をかけることはなくなり彼女からの連絡もなくなり疎遠になってしまった。
こういう経験もあったというのに『なんでもいい女』に成り果てたわたし、本当にデコピンしてやりたい。たぶん彼に甘えていたんだと思う。
だから今は誰かとご飯を食べるとき、
なるべく目に留まったお店の中で食べたいと思ったものには、あれもいいなこれもいいな!とリアクションするとか、それでも相手の反応が薄ければ「わたしは〇〇か△△がいいと思うんだけどどうかな?」と言うようにしている。
本当は『なんでもいい』が本音だけど。
自分のすきなものを選択して声にだすのは今まで他人軸で生きてきた自分を変えるトレーニングにもなっている気がする。
わたしはこれが『すき』なんだ、って認知が広がることは自分のご機嫌を取る材料が増えるということだと思うし。
だからこの習慣はこれからも持っていきたい。
押し付けがましくならない程度に。
とんかつ屋さんを見るとわたしはいつも彼のはしゃいでいる姿を思い出し、自分の色々な変化にしみじみする。
とんかつ、今は嫌じゃないよ。