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さぬき昔話1:一太郎やあい

(はじめに)

今、2022年3月の日経新聞には、有名な日本語ワープロソフト「一太郎」を開発した、浮川夫妻の「私の履歴書」が連載中です。浮川夫妻は、愛媛大学のご出身で、私より3つほど年上の方々で、旦那さんの和宣さんが愛媛県のご出身で、奥さんの初子さんが徳島県のご出身、奥さんの出身の徳島市で、ジャストシステムという会社を夫婦2人で立ち上げ、大ヒットワープロソフト「一太郎」を世に出した、四国の誇るご夫婦です。私の年齢では、「一太郎」と聞くと、このワープロソフトを真っ先に思い出しますが、私の父母の年代の人達、もう生きてはいませんが、大正時代の人々では、「一太郎」と聞くと、尋常小学校の教科書に載っていた「一太郎やあい」を真っ先の思い出すと言っていました。私は、この「一太郎やあい」の話を、母から聞かされていたので、もう一つの四国の「一太郎」のお話を、皆さんに、ここでお話しします。

一太郎は明治の代、讃岐三豊郡豊田村の出身

明治の中頃、讃岐の三豊郡豊田村(現在の観音寺市豊田)池之尻に岡田かめと梶太郎の母子が住んでいました。すぐ近所の新田というところに私の母親の叔母さん(私の大叔母さん)で豊田チヨが、警察官に嫁いで住んでいました。岡田家は梶太郎(=一太郎)が尋常小学校にあがるかあがらないうちに、新天地を求めて日向の国(宮崎県)へ引越ししました。しかし、どうも日向でも父親の商売もうまくいかず、その父親も確か亡くなったかで、岡田かめさんと梶太郎は、讃岐の豊田村に帰ってきて、また私の大叔母さんの近所に住みました。したがって梶太郎は、讃岐の豊田尋常小学校には行かなかったので、地元では同級生がおらず、同年代の人たちは岡田梶太郎のことをほとんど知りませんでした。当時、義務教育は明治40年までは4年間の尋常小学校だけだったので、なおさら同級生がいなかったのです。非常に貧しい家庭だったようです。そうこうするうち、梶太郎は徴兵になり丸亀歩兵聯隊に入隊しました。そして22歳の時の明治37年8月28日、日露戦争のため、多度津港から、旅順に向けて出征することになりました。

5里の道を歩いて出征の息子を見送りに行く

 当時52歳の母親のかめさんは、息子が出征するというので、最後に一目会いたいと思い、朝暗いうちから起きて、5里(20キロメートル)の道のりを、豊田村から多度津港まで歩いて見送りに行きました。当時鉄道の予讃線は多度津までしか開通していなかったのです。多度津―観音寺間が開通するのは大正2年12月20日ですから、当時は観音寺駅はなかったのです。ですから徒歩で行くしかなかったのです。母親のかめさんが多度津港に着いたときには、見送りの人でごった返し、さらにもう兵隊は全員2艘の船に乗船した後でした。息子の梶太郎がどこにいるのかわかりません。遠くの船にたくさんの兵隊さんが乗っていますが、豆粒みたいにしか見えないし、みな同じ黒い軍服なので息子の梶太郎を見つけられません。船はもう出航しそうで、これが母子の今生の別れとなるかと思うと涙が出てきました。そこで母親のかめさんは、大声で、「梶太郎、そこにいるなら鉄砲挙げろ。」と船に向かって叫びました。果たして、遠くの豆粒みたいに見えた一人の兵隊が、鉄砲を挙げました。かめさんはほっとしましたが、大勢の見送り人が、大声に驚いてかめさんのほうをみんな見ています。恥ずかしくなって、かめさんは付け加えました。「梶太郎、お天子様によくご奉公するんだぞ。」と叫びました。

日露戦争の203高地の激戦から生きて帰った梶太郎(一太郎)の捜索

 その後、梶太郎は、激戦の旅順203高地の戦いに参戦し、生きて帰ってはきましたが、ひどい凍傷にかかっていて、手の指を6本も切り落とさなければならなりませんでした。そのため、家業の農業にも支障があり、岡田母子は、前にもまして貧困にあえぎました。
 その後何年もして、この多度津港の出来事が有名になり、文部省の教科書に「一太郎やあい」と題されて、大正時代に全国的に尋常小学校で教えられるようになりました。しかし、この母子がどこの誰だか不明だったので、県でも学校や警察関係を使って、捜索していました。学校関係者の小学校の校長先生が発見したことになっているらしいですが、実は、梶太郎は讃岐で尋常小学校にほとんど行っておらず、同級生もいないことから学校関係者では見つけられなかったのです。

警察官の妻、豊田チヨによる「一太郎」の発見

 近所の新田地区に住んでいた警察官の妻だった、私の大叔母の豊田チヨ、母や私は「しんでのおばはん」(新田の叔母さん)と呼んでいましたが、そのチヨ叔母さんが、近所の池之尻地区に住んでいた岡田かめさんから、当時の多度津港のことを聞き及んでいたので、かめさんに会い、確かめました。
「鉄砲挙げろと言ったのは、あなたですか。」
「そうです。わたしです。」
「お天子様によくご奉公するんだぞと言ったのは本当ですか?」
「あれは、周りの人がみんな私を見て恥ずかしかったので、ただ付け加えて言ったのです。」このご奉公の下りは、今は文部省の創作だということになっていますが、本当にかめさん本人が照れ隠しにそう言ったと、チヨ叔母さんは聞いたとのことです。真相は今では、全員故人となり、不明です。
こうしてチヨ叔母さんの発見で、尋常小学校の教科書にも載った「一太郎やあい」の主人公の岡田かめ梶太郎母子がわかりました。チヨ叔母さんの兄高嶋笹彦の妻が、ハギノといい、隣村の一ノ谷村に住んでいました。ハギノは、私の母の母親(祖母)ですが、このハギノの実家が大矢といい、豊田村の出身です。このハギノの兄(つまりチヨの義理の兄、母の伯父さん)が大正から昭和の初めにかけてだと思いますが、東京品川区長をしていました。この大矢品川区長から、政府に岡田母子発見の報が告げられ、天聴に達しました。そこで、岡田母子は、昭和6年、皇居に参内し天皇皇后両陛下に拝謁することとなりました。

100年後、一太郎は、産経新聞に取り上げられる

 確か、私がまだ中学生の昭和42年(1967年)か昭和43年(1968年)頃に、私の母(キク、ハギノの長女)が産経新聞を読んでいると、明治100年の記念事業として、特集が組まれ、その記事が1か月にわたって連載されていました。ところが、「一太郎やあい」の母子発見のいきさつについて、産経新聞の記事には、豊田チヨ叔母さんや大矢品川区長の伯父さんのことが全く載っていなかったのです。そこで、母子発見の事情をよく知る母は産経新聞にそのことを投書したところ、連載記事が2日ほど休止され、新事実が見つかったので、取材中につき連載をしばらく休止しますとの断りが出ました。連載が再開されたとき、豊田チヨ叔母さんのことは載りませんでしたが、品川区長の大矢の伯父さんの話は産経新聞に採用されて載ったのを、私はよく覚えています。

100年後、一太郎は、地元でも忘れ去られていた

 戦後生まれの私の年齢では、教科書で「一太郎やあい」のことを習ったことはなく、それで同年代の友達は地元出身者でも一太郎のことは全く知りませんでした。中学2年の時、水島工業地帯への日帰りの遠足がありました。三豊中学校から、貸し切りの琴参バスで丸亀港まで行き、そこからフェリーで水島まで行きました。行きの貸し切りの琴参バスでは、バスガイドさんが、三豊地区を走っているときに、「ここは一太郎やあいで有名な・・・」と一生懸命説明してくれるのですが、三豊中学校区の中の豊田小学校区の出身の生徒さえ、一太郎のことなど全く知らないので、皆まったく関心がなく、バスガイドさんはとてもやりにくそうだったことを覚えています。

明治の「一太郎」も昭和の「一太郎」も四国の出身

私たちの年代だと、一太郎といえば、和文ワープロソフトの「一太郎」しか思い浮かばないです。ワープロソフトの「一太郎」は、愛媛大学卒業生の浮川夫妻が四国徳島市で立ち上げた会社の製品で、全国的に知られています。きっと、全国的に知られていた明治の「一太郎やあい」にちなんで、全国的に売れるように夫妻は願いを込めたのだろうと、私は想像していました。でも、最近日経新聞の「私の履歴書」には、明治の「一太郎」のことにはまったく触れられていませんでした。ご夫妻の年齢は私とそれほど変わらず、きっと大正生まれと思われるご両親は、明治の「一太郎」のことは学校で習っていたはずなので、ご夫妻が全く知らなかったということはなかったと思うのですが、「私の履歴書」では触れられいませんでした。でも、昭和の「一太郎」は日本語ワープロの雄として、1980年代1990年代、日本を席巻しました。今も、公官庁や法曹関係者は一太郎を使っています。
このように、明治の一太郎も現代の一太郎も、四国の出身なのです。

(最後に)

皆さんは、明治の梶太郎が何で一太郎になったのか不思議に思うでしょう。実は、当時の香川県知事が、確か東北の会津の出身で、東北訛りで「かづたろう」を探せと命じたため、讃岐人の県の役人は「かずたろう」と聞こえたらしいです。そこで「かず」を漢数字の「一」とし「たろう」を「太郎」と漢字で書いたのです。それで梶太郎が「一太郎(いちたろう)」になったということです。一太郎という間違った名前で探していたので、ますます見つからなかったのですね。

*なお、冒頭の像の写真は、多度津観光協会のWebページ(1)に記載の「桃陵公園、一太郎やぁい像」を転載させていただきました。
(1)  http://www.tadotsu-kanko.jp/blog/tourist/entry-430.html


平成28年11月23日随筆
令和4年3月21日加筆

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