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専門家主体から住民主体のまちづくりへ

まちづくり領域については全く専門家ではないけれど、行政のデジタル化に携わっている身としては、このテーマにはずっと興味を持っていた。

なぜなら、自分にとってデジタル化は目的ではなく、デジタル化を通じて目指したいのは、多様な市民が主体的にまちに参加できるように支援していくことだからだ。

そんな時に出会って(おそらくここ2年くらいで一番マーカーを引きながら)読んだのがこの本。

タイトルから福祉にしか関係ないんでしょ?と思いきや、住民主体でまちづくりを進めていくということの実践(そして、おそらく多くの試行錯誤)に裏打ちされた話に引き込まれた。

まちづくりではなく、まちを生きている

住民自治という言葉について触れたところで、いきなり以下のような指摘にハッとさせられる。

「私たちは"まちづくり"はしていない。"まちを生きている"のだと思う。」

確かに、まちに暮らす側の自分としては、まちづくりに関わるという意識で町内会活動などに参加しているわけではない。

そのまちで起きる様々な過去から繋がれてきた営みの中で、今を生きる自分がふっと参加できるところに参加していくだけであり、それはあくまで強制的な何かではなく、自然に自発的に生きている中で起きていることなのだと思う。

一方で、「設計」する側としては、「住民参加」、「住民主体」という言葉を安易に考えてしまいがちでもある。

まちづくりではないが、今行政のデジタル化で起きている動きというのは、これまで専門家に委ねてきたことを市民が自分たちの手に取り返すという動きでもあるように思う。
しかし、専門家ではない市民に、どのようなことができるのだろうか?本書では、以下のように指摘している。

様々な問題が深刻化していく中で、問題が深刻になる前に食い止める、予防や早期発見の観点が大切になっている。日常生活の中で、問題が深刻化する前に予防すること、表面化する前に早期発見すること、日常の中の小さな変化への気づきからの声かけなどは専門職では難しい。まさに「まちを生きる人」の力が必要だ。


主体性の芽はどこにあるのか?

では、まちを生きる人の力を集めていく必要があるとして、そこに力を割ける、あるいは割くことに前向きになってくれる人はいったいどこにいるのだろう。

コロナ禍の社会において、特に誰もが自分の生活に必死になり、他の人を助け、助け合うという余裕や余白を失っているようにも思う。しかし、そういう時だからこそ、まちを生きる人の力が必要ということも強く感じる。

本書では、主体性について以下のように指摘している。

目に見えて動いていない人を「主体的な人ではない」と考えるのか、「今、見えていない多様な主体性やその芽がある」と考えるのか。そこに地域づくりの大きな分かれ目がある。多くの人が主体的に助け合いや支え合いに参加する可能性を持っていると、楽観的に信じることから住民主体の地域づくりは始まる。

そして、その芽をどう育むかについては、こうも指摘されている。

多くの住民に主体的な動きの芽はあっても、それを自覚し、自ら動き出すには環境もプロセスも必要になる。「住民主体で」といくら伝えても、ステップアップのプロセス、動き出せる前提が整っていない状況では、住民は動き出せないものだ。

では、まちづくりの専門家や行政と、住民はどう関わっていくべきなのか。


コンコーダンス・モデルという考え方

この関係性についてのヒントとして、本書ではコンコーダンス・モデルに触れている。コンコーダンス・モデルは、2000年ごろに英国王立薬剤協会で「なぜ患者は薬を飲まないのか」ということをテーマにした研究が行われた結果、打ち出された考え方らしい。

医療者の指示に患者を従わせるやり方が良いのか、それとも、患者の気持ちに寄り添って支援するというやり方が良いのか。その二項対立の先にあるのが、コンコーダンス・モデルだ。本書によれば、

患者と医者がパートナーとなって情報を共有し、対等の立場で話し合った上で、決定は患者に任せる。(中略) コンコーダンス・モデルでは、患者の考え方を大切にするのと同等に、専門職の考えも大切にする。

つまり、対話によるプロセスを重視して取り組む共同意思決定ということだ。これをまちづくりに置き換えた時、本書では以下のように指摘している。

「違うからこそ学び合える」と考え、他者の"持っていること"に関心を向けてみる。この街にはどんな人が住んでいるのだろう、どんな思いを持っていて、どのような自分にない経験をしていて、何に気づいているのだろう。住民間でも、住民と専門職の間でも、そのようにお互いの可能性を信じ、「それぞれの杭の出ているところを伸ばしあえる」関係が地域に広がった時には、自然と住民主体になっているだろう。

ある種楽観的な思想のように捉えられるかもしれないが、自分自身もまたその可能性を信じていきたいと強く感じている。


翻って、行政のデジタル化ではどうだろうか。誰も取り残さないデジタル化ということが今盛んに言われるようになりつつある。

少なくともそれは、利用者中心と言いながら、自分たちにとって都合の良い利用者だけを見るということではないのだろう。
そして、利用者である市民の側としても、気付いたら良いものができていた/できていないというような結果を見るだけでは難しいのだろう。

利用する側と作る側が共に創り、対話していくプロセスにこそ今後価値が生まれていくと思う。

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