【映画感想】へレディタリー

死ぬのが怖い。

物ごころついた頃から死ぬのが怖くて怖くて、「ぼくがぼくじゃなくなる」ということが何よりも恐ろしかった。

生まれる前にも世界はあったこと、その時ぼくはいなかったこと、死んだ後も (おそらく) 世界は続いていくのだろうということ、その時ぼくはいないこと。

ホラー映画の怖さというのも、基本的には「殺されたら死んじゃう」という、人間が本能として理解しているところを攻めることで成り立っている。だからもし、死後の世界というものが我々に見えていて、死んだ後も霊魂が見えることを担保として安心できるのであれば、肉体がその活動を停止する、という「生物としての死」はそれほど怖くなくなるはずだ。

だがそんなものはない。怪談として、もしくは宗教の一節として「死んだものが霊魂としてもしくはその肉体を再び使って現世に表れた」というヨタ話がどれだけ蔓延しようとも、少なくとも我々の間で死んだ人間と事あるごとに会っている、という人はごくごく少数派のはずだ (もちろんこれは気がふれていたり、そういう話をする事で糊口を凌いでいる人たちのことを指す)。

であるならば、それが成立する本作においては、これはその呼びだす対象が何であろうともウェルカムでありおめでたい話となるべきではないか。たとえそこに家族の命と引き換えの犠牲があろうとも、死してなお存在できるのであるから、それを受け入れることさえ出来れば悲しいことなど何ひとつない。

地獄の蓋が開こうが、現世をすでに地獄として生きているのだ。本作に登場する家族はその定義を「家族だから」という以上の意味を考えずに生きているように見える。一緒に食事をしたり、同じ場所に出かけたりはするものの、笑顔が生まれる出来事など一切ない箱庭のような世界で、同じ時間を、家族だからという理由でただただ過ごしている。

確かに呪いもしくは暴力により生命活動を止められて死ぬのはさぞかし怖いだろうが、では生きていて良かったと思えることなどこの物語の中で起きているのだろうか。

娘が頭を吹っ飛ばして死のうと、夫が人体発火して死のうと、また自分が発狂しようと、「その先にも魂の存在する世界がある」のであれば、とりいそぎ死ぬのが得策な気がする。

振り返ってみれば、本当に守りたいものなんて、なにひとつなかった家族じゃないか。


ってね。


そんなわけで周りの評判が良いので見てきましたよ、「へレディタリー/継承」。すごい怖いという話だったんですが、観進めるうちに前述のような想いになってきて、まあ表現として何を怖さとするか、という点においては、一番地味かつ根源的なところを攻めてきたな、という感じでした。

暗がりに誰かいるような気がする (本作ではうっすらと見えている) 怖さといえば英国のヘヴィ・メタル・バンドであるアイアン・メイデンの"Fear of the Dark"という名曲を思い出さずにはおれず、また本作から醸し出されている恐怖の演出方法もそれに似ている気がしました。♪オーオーオーオーオーオーオーオー (ライブではイントロの部分を観客が勝手に歌う曲)。

で、まあストーリーをストレートに読むと「悪魔を降臨させるのに男の体が必要だったから用意して無事終了」という話です。そこにたどり着くまでのたね明かしは画面に配置されているるものの、たぶん初見では (今進行している事象に気が行っているので) 拾えない、みたいな感じになっています。

2回目を観るとしたら答え合わせになるとして、ぼくが気になったのは「それとは別になんか言いたいことがあるんじゃないか」ということでした。それは「ヘレディタリー」というタイトルの持つ重さのことでもあります。

「血筋じゃないとダメなんでお前」

という話として考えると、これは別の恐怖が出てきます。ググったところ監督は、「自分の家族に起きた出来事をモチーフにした」ということらしいです。ほんとうのところは書いてなかったので、ぼくの考えを書きます。もちろんこれが正しい、ということではなくて、ぼくはこう捉えた、ということです。

「同族経営の血筋に生まれた長男は選択の余地がない」

本作は一見、一番出番の多い母親の話のような気がします。しかしファーストカットとラストカットに写ってるのはどちらも長男です。

同族経営の仕事を継ぐ条件はひとつです。それは血縁関係にあること。その名前を冠するのは同じ血を持つものでなければなりません。何でかは知りません。出来る人にやらせた方が効率的じゃん、という現代的な考えは受け付けません。重要なのは血筋なのです。

そしてその運命を託された人間には、生きる条件として「最終的にそれを継ぐこと」が課せられます。そこにはその個人が持つ資質も人格も関係ありません。それ以上に「本人がどうなりたいか」という選択肢すらないのです。

周りの人の期待も、それを継ぐ人間個人については特に興味を持っていません。「そうなる人間だから」ということだけで「そうなれ」と言います。もしそれを拒否するなら、そうさせるためにあらゆる手段を使うでしょう。

つまり最終的にこの長男は「自分として生きることを諦めた」のであり、「そうなって生きる」ことを選んだのではないかと思うのです。

その血筋でなければ自由に生きられたかもしれない。

その血筋でなければこんな不幸は起きなかったかもしれない。

それは本編の設定として用意された「死してなお魂を持つ存在の描写」よりも、ぼくにははるかに恐ろしいことのように思えたのです。

実はぼくの実家は自営業でして、長男なんですよ。だから生まれた時は、おそらく後継ぎとして期待されたのでしょう。その後ぼくの親はぼくの下に二人の弟を儲け、最終的に実家を継いだのは末っ子の三男でした。しかし店は過疎化の進む田舎にあったため、ほどなく畳むことになりましたが。

多少なりとも「そのために産んだ」という気配は感じて育ったものですから、この映画の裏側に潜む"hereditary"の指すところを、そういうふうに解釈してしまうのでした。

ぼくが、継ぐ気はなくとも家を手伝っている間に母親がすい臓がんで死に、ぼくはやっぱ自分の人生を生きたいと父に告げて弟に店を譲ったけど立ち行かなくなって自己破産し、実家を競売に掛けたけれども買い手がつかなくて結局更地となり、今ではアスファルトが敷かれた駐車場になったうえ、しばらくして父は自分の失火が原因で丸焦げになって死に、ぼくはぼくで結婚して子供を授かったものの結局離婚して、その血が繋がってる息子とも法律上他人となってしまったので、いよいよこれは我が一家は呪われているかもしれないという懸念を抱きつつ、それよりもどうやらぼくは死ぬまで独りなのだろうなという気持ちが強くなり、この映画よりもなによりも、今はとにかく自身が死んでしまう日が近いのではないかと考えてしまうこと自体が、怖くて怖くてたまらないのです。

保証されている死後があるのなら、それを拠り所に現世を生きていたい。そうなれるなら、この身を悪魔に売り渡してもいい。

おわり

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