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期待しないという選択

統計学の基本に"期待値"というものがあります。

確率的に得られる数値の平均値という意味です。

これは日常会話にも当てはまるもので
「あいつにはこの話ウケるやろな」とか
「こうやってボケたら突っ込んでくれるやろな」とかです。

別にフリ&ツッコミの話じゃなくても

「この話は共感してもらえるやろな」とか
「これは言ったら傷つくやろな」ってものも期待値がなすところ。

もちろん平均値なので、相手のコンディションやその場の空気感なんかで外すことも多々ありますが、コミュニケーションも数学的にみれば期待値で成り立っていると考えられるわけです。

他者との会話か噛み合わなくなるのって、この期待値が下がってしまうからだと思うわけです。

嫁との関係も一緒で、家族が増えて環境も変われば、金銭面での変化もある。各々の仕事で環境も変わることで、価値観も変化してくる。

だから家族はこういった変化を共有し合って、期待値が下がらないように努力していた部分があった。けれど、うつで休職した時の嫁とのコミュニケーションが散々だった事で、これはもうあかんと。

期待値を全く満たしてもらえない。

自分視点ではあるけれど、こっちは相互の期待値を調整する余裕がないくらいだから休職に至っているわけで、その状況を鑑みてもう少し寄り添って欲しかったっていう思いが今でも引っかかってる。

表面上は一つ屋根の下で生活してるし、べつにギスギスしているわけではない。

でも、私的にしんどい時に寄り添ってもらえなかった溝は深くて、これはもう修正できないなと。

復職して2ヶ月が経って、社会生活には一応の適応をしたけれど、嫁への深い溝は修正できないでいる。

今の思いとしては"期待しないで過ごそう"という境地である。

こうなるともう、ちょっと美味しいものを食べに行こうとか,仕事帰りにちょっと美味しそうなケーキ売ってたから買って帰ろうとそういった寄り添いもする気はなくなり、家事も事務的にこなすだけ。

子はかすがいとはよく言ったもので、感情的には離婚している。

メンタル不調の人間が家庭内にいるっていうのは、家族にとってもストレスになっているんだろうけど、それを救うのも家族なんだと思う。というか、家族に救われたかった。

「あの時はしんどかったね」って言い合える夫婦だったらよかったな。


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