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Do as I say Not as I do 正しいことを語ること

要約☆彡

☞英語の諺「私のやっているようにではなく、私の言うようにせよ」には、言行不一致や不言実行といった、日本の道徳観念からはかけ離れた部分がある。

しかし論語や聖書を唱える人々をみれば、愚かな者でも正しいことを語ることがあるのが分かる。

正しい言葉はそれ自体が霊の導きであり、自分が実行できているかどうかとは関係がない。


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今日は、英語のことわざを紹介します。

Do as I say Not as I do.
直訳すれば、「私のやっているようにではなく、私の言うようにせよ」

解説によれば

そもそも人間の言行は不一致なもので、言った通りに行動できるわけではありません。その点では「私」も例外ではありません。だから「私」の駄目な行動でなく、「私」の立派な言葉にしたがうのが賢明だ、という意味

だそうです。


小中学校で「言行一致」とか「不言実行」なんて教えられてきた身としては、「うん?」としばらく腑に落ちなかったです。福沢諭吉も「学問のすすめ」で言行齟齬という言葉を使っています。


意味について、ちょっと考えてみました。
仕事はすぐに辞める。借りた金は踏み倒す。女にはだらしない。不義理を平気でする。すぐに逆上して諍いばかり起こす。
そんな見下げ果てたどんなダメ人間(私みたいな)でも、時々良いことを言う時ってありますよね。
あんたの口からそんな立派な言葉が出てくる!?と驚く瞬間って一度くらい誰もが経験しているはずです。。。

冒頭のことわざは、振舞や実績はともかくとして、言ってる内容は傾聴に値するものとして受け取った方が良いよ、と教えているんだと思います。

それを言行不一致だと当人をなじったり、お前にそんな立派なことを言う資格なんてないよと否定したりするもんじゃない、と教えているのでしょう。

確かにそんなこと言ってたら、非の打ちどころのない聖人君子しか人にアドバイスできなくなります。

家族を大事にせよ。礼儀をわきまえろ。いつでも謙虚にしていろ。誰にでも親切にして、皆と仲良く暮らせ。常に思いやりを持て。不平不満を口にするな。何事も辛抱だ。無駄遣いするな。時間を大切にしろ。仕事と勉強に励め。

こういう正論をいう人を見ると「自分だって出来てねぇじゃん」と反発心が沸きますが、まぁ正しいことは正しいのです。

それに、沢山失敗してきた人だからこそ、その正論にリアリティが籠ることもあります。自己破産した人が財テクの落とし穴を教えてくれるなら、どれほどありがたいでしょう。

「正しいことを述べ伝えること」、それ自体が正しい

その人がそのように生きることができていなくても「正しいことを述べ伝える」というその行為自体が、実は善であり正しさの一かけらなんだと思います。

例えば、仏教では念仏専修といって、ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えれば成仏できるといいますよね。
「阿弥陀仏が最高の神様です」って常に言って歩けと命じているのです。
それさえ言っていれば人殺しでも盗人でも救われるというのが、浄土宗です。

なぜなら、ある一定の世界観を持っている人たちにとっては、その真理を述べ伝えることが、非常に大切な役割だからです。だれも内心で「最高の阿弥陀仏に帰依します」と思っているだけでは、真理が広まらず、救われる人がどんどん減っていきます。


キリスト教でも一緒です。信仰告白とは、「主なるイエスが唯一の救いです」と公に認めることです。

どんなに罪深い人でも、イエスの愛によって許され、聖書の教えを述べ伝えることで、義の人となります。そのあとでまた同じ罪を重ねてしまったとしても、真理を述べ伝えたという善行が抹消されることはないのです。

そういう意味では、「正しいことを教える、伝える」ということ、そのこと自体が価値のある事なのです。なぜなら、繰り返しますが誰かの口を借りなければ、それは広まっていかないのです。

聖人君子のみが語れるとすれば、この世に全き聖人君子なんていないのですから、正しいことは埋もれてしまうのです。たとえ俗人だったとしても、真理の拡声器となることは正しい行いなのです。

論語や聖書の教えるような生活を完全に実際に遂行している人などいないのが、この世です。

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空也上人

正しさは、霊の力の発現

さて、ではなぜ愚人さえ正論を吐けるのか。それはインスピレーション、すなわち「霊」の力によるのです。

霊は一人の肉体、個人、個体に帰属しません。義人だと思われてきた人でも、堕落し霊が離れることはあり、また愚かだと思われてきた人間でも、時として霊が宿り、正しいことを述べ伝えることがあるのです。

古今東西の聖典は、欠点のある人間が書いてきました。聖パウロも人に言えないような罪や悩みがありながらも、2000年間人々の支えとなった聖書の聖句を紡ぎました。不完全な人間も、霊に導かれることで、正しく完全なことを生み出すことができるのです。


冒頭のことわざ。"Do as I say Not as I do."「私のやっているようにではなく、私の言うようにせよ」

こういうある種開き直った言葉は、私に少しの自信を与えてくれます。皆さんはいかがでしょうか。

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