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滑稽画と天保の改革

町田で滑稽画とまとめられる江戸時代の浮世絵展を見てきました。

滑稽画4

舐めた版画ですが、その背景には興味深いものがありました。

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滑稽画が流行したのは、天保の改革期(1841~1843)

老中水野忠邦は幕府の権威の強化と、財政の立て直し、物価の抑制のために天保の改革を行いました。 度重なる飢饉(天保の大飢饉)によって人心は幕府から離れ一揆や打ち壊しが多発し、元役人による反乱(大塩平八郎の乱)まで発生したので、幕府の権威を高める必要があったのです。
また寛政の改革で一時的に回復していた財政も凶作等で悪化し、さらに大御所時代に大量に鋳造された質の低い貨幣の流通(貨幣改鋳)によって物価の上昇に歯止めがききませんでした。 これらの状況を改善するためにも、享保の改革や寛政の改革のような優れた施策が必要であると、水野忠邦は考えたのです。

天保の改革の主な内容は、財政の引き締めと物価の抑制、農村の復興(農本主義)のための人返しの法です。

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水野忠邦がまず取り組んだのは、倹約令でした。身分の上下を問わず華美な服装や贅沢な食事を禁止。江戸の人々に人気があった寄席の数も減らし、歌舞伎3座を浅草に移動させました。

寄席に対する規制は同年2月に実施され、町方や寺社境内、新吉原などに200ヶ所を超える寄席が存在していたが、一部の古くから存在する寄席を除いて大半が規制を受け、廃業した。
特に歌舞伎に対し、市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制(平人との交際の禁止、居住地の限定、湯治・参詣などの名目での旅行の禁止、外出時の編笠着用の強制)、興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった苛烈な弾圧が加えられた。
それまで江戸の繁華街にあった江戸三座(中村座・市村座・守田座)を、1841年(天保12年)の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の猿若町に移転が実施された。歌舞伎の廃絶まで考慮された。また人情本作家の為永春水や柳亭種彦などが処罰された。

これと同じくして、検閲も始まります。役者絵や遊女・芸者の錦絵も禁止されたのです。版画家は人気のあった題材を描くことが出来なくなりました。

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もうお分かりでしょう。そこで代わりに描いたのが、滑稽画でした。

滑稽画1


滑稽画2

当時は、政治的なことをテーマに描くことも禁じられており、動物や物に仮託して、風刺画を描いていたようです。これは当時の合戦(内乱)の様子を描いた物。当時は写真もないので、版画が報道的な役割も果たしていたのでしょう。

滑稽画3

魚類と青物(野菜)の戦争を描いた絵もありました。

冒頭の下手な人の絵は、判じ絵で描いた役者の絵です。役者の名前を書かずに、紋などでファンからは誰か分かるようになっているのです。

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考えてみればフランスの印象派は、産業革命で勃興したブルジョワジーがそのパトロンとなっていました。当時の絵画には裸体の女性や愛人と思われる女性が多く描かれています。

洋の東西を問わず、社会の生産性が高まる時には美しい女性を描いたものが流布し、飢饉など生産性が落ちる時には、バブリーな芸者や娼婦が排斥されるのかもしれません。

滑稽画展、思っていたより得る所の多い展示でした。

頂けるなら音楽ストリーミングサービスの費用に充てたいと思います。