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日本の言論空間は相対化されにくい

こんばんわ。今日は社会言語学的なエッセーを書きます。

結論から書きますね。「日本語の言論空間は、相対化が難しい」です。

日本語で語られていることは、外国からみると客観性を欠いたことでも、日本語の言論空間内ではそれを指摘することが難しい、と言いたいのです。

1.言語環境の基本的な事実

その理由です。まず、日本語の特性を考えるにあたって、基本的な事実を確認したいと思います。

A. 日本語を母語とする人は、1億2500万人。(注1文科省統計)
B. 日本の人口は現在1億2610万人。
C. 日本語の話者数は1億2800万人。(注2)

・AとBを比較します。日本国内に住んでいて、日本語を母語としない人々(中国系住民、朝鮮系住民が多くを占める)がいるので、日本語を母語とする人が日本の人口より少ないのでしょう。110万人の差分ですね。100人のうち在日外国人が1人いる感じってのは納得できる数字です。

・Cですが、日本語を外国語として学んでいる人が世界各地にいるので、そういう人々をA+αで考えて、=Cということです。数で言うと300万人。

これらの事実をまとめると、A、B、Cの集合がほぼ重なっている、ということです。

「だから?」と思うかもしれませんが、これは言語によってかなり違います。

英語の場合を見てみましょう。
A. 英語を母語とする人は、4億人。(注1 文科省統計)
B. 英語圏の人口は4億7900万人。(英米豪加ニュージーランドアイルランドの計)
C. 英語の話者数は11億3200万人。(注2)

・7億人が第二言語、第三言語として英語でコミュニケーションしているわけです。

スペイン語も同様です。

A. スペイン語を母語とする人は、3億3200万人。(注1 文科省統計)
B. スペインの人口は現在4670万人。(スペイン語圏の人口4億人くらい?メキシコ、アルゼンチン等中南米諸国)
C. スペイン語の話者数は5億7000万人。(注3)

フランス語もスケールは小さいけれど似たようなもんです。アラビア語もそうです。

2.肯定的な言説に対置される肯定的な言説

英語でもフランス語でもスペイン語でもアラビア語でも、母国での言論が、旧植民地や連邦諸邦、同じ宗教の他国の言論によって、相対化されるのです。

例えば、「アメリカは神の国だ!」とアメリカのメディアや著名人が(もちろん英語で)声高に言うとします。そうすると、オーストラリアやアイルランドのメディアが、「( ゚Д゚)ハァ? 何言ってんのお前ら。俺の国は違うというんか。」と(発された言語と同じ英語で直接)反論され相殺されるわけです。

これは、「日本は神の国」という某政治家の発言に対して、他の日本のメディアが「我々の国は神の国ではない」という否定的な反論をするよりも、強く持続的な反論です。

なぜなら日本人で「自分たちは特別じゃない、ありふれた存在だ」などという話を求めている人達は、あまりいないのです。その上、そういう人たちの多くは日本社会の中心的、指導的な層ではないのです。具体的には、共産党や旧社会党的な「小さい日本」をよしとする万年野党が中心でしょう。

そうではなくて、他の国民という高度に組織化された恒常的集団における「ウチこそが最高だ」「ウチだって最高だ」というポジティブな言説は、その集団の人々から歓迎されます。また、その集団が存在する限り、ずっと口承されこだましていきます。

アラビア語圏でもナショナリズムが、宗教によって相対化されたり、他の国の民族主義や国家主義によって相対化されるのです。変なことを言っても、対抗言論によって揉まれて消えていくのです。

例えば、「福岡県は神の県」とか「滋賀県は神の県」とか「山形県は神の県」なんて話をするのがバカバカしいのと同じように、「アメリカは神の国」「イギリスは神の国」「アイルランドは神の国」という主張も同じように空疎になるのです。

過激な主張は日本よりむしろ外国の方がはるかに多いのに、最終的に穏健な主張に収斂していくのはこういう言語環境にもよるのです。

3.欧州言語における相対化

とはいえ、日本と似ている国も沢山あります。日本と似ているのは、ドイツやイタリア。ドイツの人口は8900万人。ドイツ語話者は1億人。イタリアの人口は6040万人。イタリア語話者数は6100万。

植民地を持つことが出来なかった欧州諸国は同じような感じです。ポーランド語、チェコ語、ルーマニア語などもそうです。

しかしながら、欧州諸国は他国と地続きで交通交渉が多くあり、また言語系統的にも英語やフランス語、スペイン語と繋がっているので、自国の言論空間が容易に相対化されるのでしょう。

4.まとめ

そう考えると、欧州系言語と比べて日本語の場合、外国の人が聞くと明らかに首をかしげるようなフワッとした主張が、強い反論を受けることなくマスメディアにナイーブな形で流通している気がします。

こういった自閉的な言語環境が、集団主義、同質性や連帯感、自己犠牲精神、あうんの呼吸、自動車産業の高い「すりあわせ」技術などを生んできた一方で、大政翼賛会や批判精神の欠如、没個性などを生んできた一因なのではないでしょうか。

ご清聴ありがとうございました。

注1
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/siryo/attach/1379956.htm

注2
https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/161053/#:~:text=%E7%AC%AC1%E4%BD%8D%EF%BC%9A%E8%8B%B1%E8%AA%9E%EF%BC%8811,%E3%81%AB%E6%8C%87%E5%AE%9A%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

注3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%AA%9E

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