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メアリ・ダグラス「汚穢と禁忌」(1966)An Analysis of Concept of Pollution and Taboo

社会人類学の名著との誉れ高い一冊。読むの大変でした。電車の中でちびちび読んで、結局3か月くらい掛かった。家で読む気は全く起きず。

感想は、、、断片的には分かったけど、この本で著者が特に何を言いたかったのか、学問的にどう貢献したのか、はいまいち分からず。

本人を前にしたら、パワーポイントで20枚くらいにまとめて貰えませんか?ってつい言ってしまいそう。昔の学生はよく読んだものだ。インターネッツの時代に社会人が腰を据えて読むのはしんどい。

しかしながら、キリスト教文化はもちろん、旧約聖書(ユダヤ文化)からアフリカ、インド、ネイティブ・アメリカン、ポリネシア、オーストラリア原住民まで、事例を収集し、整理していく様は、なかなか飽きない。

文化人類学的/社会学的には、フレイザーやマリノフスキー、ラドクリフ・ブラウン、エドワード・タイラー、エヴァンス・プリチャード・リチャーズ、ウィリアム・ジェームス、デュルケム、レヴィ・ブリュール辺りが多く引用されている。解説は中沢新一氏。

タブーや穢れに対するフレイザーやマリノフスキーやデュルケムの理論や医学主義への反論及び整理にも一つの章が割かれている。(第4章呪術と奇蹟)

難しいこと(この著作を読んだだけでは絶対理解不能なことも多分沢山あるはず)はともかく、分かったとこだけとりあえず一部抜粋してみる。

彼(リーンハート)は儀式には経験を変容させるという機能があることを主張して いるのだ。この機能はしばしば遡及的効力を有している。

祭式の司宰者は、実際に犠牲を捧げる原因となった争いや不法行為を厳粛に否定することができるからである。

これは、 祭壇そのものの前で皮肉にも偽証するといったことではない。
この儀式の目的は神を欺くことではなくて、過去の経験を定式化しなおすことだからである。

あるべき過去が現実の過去にうち勝つために、永遠の善き意志が一時の錯誤にうち勝つために、現実に生起したことが祭式と祭文とによっていいなおされるのである。

近親相姦の行為がなされたときには 供犠を捧げることによってその二人の子孫の地位を変更することができ、かくして彼らの罪を消し去ることができる。

このとき犠牲(捧げものの豚)は半ば生きている状態で、生殖器を通して縦に切られる。このようにして、 近親相姦を犯した二人の共通の血統は象徴的に否定されるのだ。

(第4章呪術と奇蹟p169)

他にも引用したいところは沢山あるけど、またの機会に。

頂けるなら音楽ストリーミングサービスの費用に充てたいと思います。