宇宙と世界の大きさ比べ
幼い頃、なんとなく宇宙よりも世界のほうが広いと信じていた。
だけどある時、自分よりずっと年齢を重ねた相手に「世界は地球上のことで、宇宙は地球やいろんな惑星、銀河を含めた広がりのことだ。だから世界より宇宙のほうが大きいよ」というようなことを言われた。
ショックだった。
わたしの考えていた「世界」が違うものだった。
しかし、当時は自分が考えている「世界」を言語化するのは困難でどういうものか曖昧だったので、「世界」と「宇宙」を定義付けながらその大きさを比較した彼の話を、わたしは驚きとともに受け入れるしかなかった。
それからわたしも歳を重ねて、「世界」についての考えも変化していった。
そもそも言葉の意味は辞書的な意味とそうでないものとがあることを知ったし、表現においてはどんな意味でその言葉を使おうが自由なのだと考えるようにもなった。
わたしにとって「世界」とは「あの世に対するこの世」であったり、「自分が生きる中で関わるものたち」のことであったりした。
だからその大きさも、宇宙より大きかったり小さかったりした。
触れる情報が多すぎて「世界を小さくしたい」と願うことなんてしょっちゅうだし、しようと思えばできた。
「世界」は収縮可能だった。
そんな扱いやすい「世界」の意味とは別に、わたしが幼い頃に感じていた「世界」を言語化したような文章を、今日見つけた。
たまたま友人から借りて読んでいた本に、次のようなことが書いてあった。
宇宙とは自然科学の対象領域にほかならない。ところが世界は宇宙より明らかに広大である。世界には、国家も、夢も、実現しなかった様々な可能性も、芸術作品も、そして世界についての私達の思考も含まれているからだ。
「世界」には、実現しなかった可能性も、私達の思考も含まれる。
すごい、なるほど。
幼い頃のわたしは「世界」を「認識しうるものすべて」だと考えていたのだと思う。
幼いからこその思考だ。
「なんで?」「これはなに?」「どういうこと?」「どんなきもち?」
そうやって疑問に思う対象すべてが世界だった。世界は場所のことではなかった。小さな身体で見て聞いて感じるすべてだった。
そしてそれはいまのわたしにも開かれている。世界に感じる新鮮さはあの頃に比べて間違いなく薄いけど。いまは世界をそのまま受け取らず、上澄みの情報だけ得てばかりで頭でっかちになりがちだけど。
世界は宇宙よりも広い。
まあ宇宙も限りなく広いのかもしれないし、世界のなかの思考や可能性は広さでは表せないから比べられるものでもないのかもしれないけど。
世界のことを考えて人間をやりたい。
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