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氷菓(古典部シリーズ)というキャラクター小説について

【注意】以下の文章にはアニメ『氷菓』のネタバレがあります。また、アニメ化されていない原作の続きの部分については重要なネタバレはありませんが、あらすじに該当する程度の文章はあります。【注意】

今さらながらではあるが、氷菓の小説とアニメを見た。かなり良かった。アニメの千反田えるはとても可愛く、アニメを見て久々に最悪なオタクスマイルになってしまった。2012年の放送当時にこれを見て「えるたそ~」と言ってブヒッていた人間の気持ちが完全に分かる(ブヒるという言葉ももう死語だ)。とにかくこれは脳が溶ける。

というか、メインキャラ4人はみな可愛い。奉太郎も里志も伊原もみな可愛い。伊原摩耶花が奉太郎の推理が当たったことが悔しくて素直に全身をプリプリ(ブリブリ)する様は、普通の人間がやってたらキモいが、アニメキャラがやると本当に可愛い。奉太郎は目が隠れるくらいのボサッとした髪で、猫背ぎみにトボトボ歩く押しに弱い無気力系男子で可愛いし、里志は原作からして元々ユニセックスなキャラとして作られているが、映像になるとそれがさらに協調されて(奉太郎に対して)妙にナヨッとしたBL的な雰囲気が漂っている気がする。(唯一気になったのは、原作読んでからアニメを見た人間として、千反田の声はもっと柔らかいイメージがあったくらいだろうか。佐藤聡美演じる声の透明感は素晴らしいと思うのだが、掠れたような響きが混じっていて、それは個人的に千反田のイメージには合わないように思う。まあ、アニメの話数を重ねるうちにその違和感も解消されてしまったのだが)

原作小説も文章が簡潔で情景描写もかなり切り詰めてあり、機能的に気持ち良くスラスラと読める。地の文の切り詰め方はかなり学びがあるような気がする。情景描写も悪いということはなく、赤茶けたような、いなたい空間の雰囲気が出ていて、アニメでもそれが上手く表現されていると思う。地学準備室や図書室は古びていて、部屋の中にはよく分からない物がゴロゴロしており、静謐で停滞したローカルな楽園だ。

やれやれ系主人公

アニメは今見ると、奉太郎の一人語りがかなりコテコテのやれやれ系主人公で、ちょっとアクがきつい部分もある。まあ10年前のアニメではあるから仕方ないのだが。そもそも原作が始まったのが2001年で、これはハルヒの原作連載開始の2003年より早い。おそらくやれやれ系主人公の系譜というのはもう少し遡れるんじゃないかという気がするが、2001年というのは世に大々的に認知される前ではあり、先見の明はあると思う。(米澤穂信のやり口は割と洗練されていると感じるので、発明者ではないとは思う)

アニメでは少々マイルドにされているが、この作品の読み味を独特なものにしている要素が2つある。「後味の悪さ」と「青春を無為に過ごすことの肯定」だ。2つの要素とも作者の強い意思を感じる。前者については作者特有の思い入れとミステリ的な文脈から来ている気がするので私はあんまり語るつもりはない。「青春を無為に過ごすことの肯定」は、こういう風に言葉にすると在り来たりな感じがあるが、原作1巻・2巻を読むと、そのこだわりの強さにちょっとビビってしまう。

1巻『氷菓』では1960年代に神谷高校の学祭の日程を縮めようとした学校側に対し反抗した生徒たちが校舎でボヤを起こしてしまい、その責任を取って関谷純という生徒が(全校生徒の身代わりとして)退学処分となる。そうした真相を解き明かした奉太郎は、生き生きしたバラ色の高校生活を送ることだけが全てじゃないと考える。みなで熱狂して悲劇を生むより、ただ無為に時間を過ごした方がマシだという結論に達する。奉太郎は省エネな生き方を気取りながらも、本当はバラ色の青春を過ごした方がいいんじゃないかと疑っているが、1巻の最後でその疑念は晴れ、彼の当初のライフポリシーは関谷純によって補強されるわけだ。2巻『愚者のエンドロール』で奉太郎は入須先輩に「お前は特別な存在だ」と言われてやる気になるが、結局それは自分が利用されていたに過ぎない(しかも自分が最初に到達した推理は当たっておらず、全てを知っている入須にそれを褒められてもいた)と気づき、自分の能力を発揮することを拒むようになる。2巻のラストでもまた、入須の存在が奉太郎が無為に過ごすことを肯定する材料となる。彼は元いた安寧へと帰っていく。

奉太郎がやれやれ系の主人公を貫き通し、それをシリーズ化していくには、奉太郎という駒を元いた場所へ戻す必要がある。これは特に長期ミステリシリーズだとある程度は必要な要素なのかもしれない。主人公のパーソナリティーはそれなりに不動である必要がある(と思う)(主人公たちが成人である場合はこのようなパターンがけっこう多いかもしれない)

お料理コンテスト

ただ、3巻『クドリャフカの順番』あたりからそうした作者の態度(奉太郎の態度)は崩れてくるように思う。作者も述べているが、例えば高校一年を延々とループしてシリーズを書くことはおそらく可能だ。だが、作者は時間を進める道を選び、それによってキャラは少しずつ変質していくことになる。

3巻『クドリャフカの順番』はシリーズ中で一番好きな巻かもしれない。なぜなら、長編一本のミステリなので必然的に(短篇集よりも)ミステリとして無駄な部分が多いからだ。3巻では様々なキャラが登場し、話も多視点になり、三日間の文化祭が濃密に描かれる。つまり、ここではキャラクター小説としての魅力が存分に発揮されている。この巻では里志がモノローグで「わたし、気になります」と真似してみせたり、千反田がやはりモノローグで「わたし、気になりません」を多用しだす。そういうキャラ同士の会話の積み重ねが個人のモノローグに反映されてギャグになっているのは好きだ。

この巻での盛り上がりは(終盤の謎解きを除けば)、やはりお料理コンテストのシーンだろう。このシーンでは里志が始めた課題を千反田が綺麗に処理していき(しかし千反田は目の前のことに集中して後先は考えない)、最後に伊原がどうにか帳尻を合わせる。ここは各人のキャラ付けともよく合っているし、描写がきちんとしているし、謎の情熱がある。(アニメで千反田や里志が謎のポーズで背後からどうにか意思伝達を行おうとするところも面白い)

アニメでは削られてしまっているが、伊原が小麦粉を使ってかき揚げを作ったことを知った奉太郎が「すいとんでも作るのかと思っていた」と言うところは良い。これはおそらくミステリというもの全体の比喩にもなっている。あり合わせの材料(事実)から作られる料理(推理・真相)は常に一つとは限らない。それは作る人間の手によって如何様にも変化し、そこに料理人の力量が現れる。ここで面白いのは、奉太郎の推理であるすいとんよりも、伊原が実際に作ったかき揚げの方が物として上だということだろう(汁物はすでに里志が豚汁を作っているし、かき揚げはご飯とシナジーするので)。この作品において、奉太郎は優秀な探偵だが、伊原は優秀な実務家なのである。

世界にボヤキ続ける者たち

上記の『米澤穂信と古典部』には著者のインタビューが載っている。インタビュー箇所は試し読みで読めるし、なかなか面白かったのでよければ読んでみてほしい。インタビューによれば、奉太郎は探偵、千反田は依頼人、伊原は読者(常識人)、里志はワトソン役として作られたという。作られた順番も同じだ。里志が最後に作られたというのはちょっと意外だった。奉太郎の次に作られていそうな感触があったので。

上記はやれやれ系主人公(≒ボヤキ系主人公)とその相手となるヒロインを論じた記事で、なかなか面白い。氷菓の話は出てこないが、上記の記事を少し援用してみよう。(私がたびたび俺ガイルの話をすることは許してほしい。俺ガイルはキャラ小説としての正典であり、私は常にそこから始めることしかできない)

上記の記事では、現代においてボヤキ系主人公に対応するヒロインは母性や許容だけでなく、対話や相互理解(ができるだけの知性)の属性を持つ必要があると論じている。俺ガイルの比企谷八幡はボヤキ系主人公であり、その相手となる正当なヒロインは雪ノ下雪乃という、ボヤキ系ヒロイン(クーデレといってもいいかもしれない)である。雪ノ下は高速で皮肉を吐き、性格に難があり、孤独だが、知性ある女性として描かれる。俺ガイルにはもう一人メインヒロインとして由比ヶ浜結衣がおり、彼女は母性や許容といった側面が強調されていて、胸は大きいし、性格も明るく優しい。俺ガイルという作品の魅力はかなり部分が由比ヶ浜に依るところが大きいが、それでも八幡の相方はやはり雪ノ下ということになる。

ようするに、今の男子というのは、どこかで好き勝手できる都合の良いヒロイン以上に、言っていることをある程度理解してくれるヒロインを求めているのだと思います。そういうニーズを踏まえて、キャラ付けが成された結果、美少女化し小言を言うキャラが生まれたと思っている。現実世界のマウンティング合戦につかれた現代男子は、自身が認めた知性を持つ美少女に理解され、尻に敷かれたいんです。

自分が認めた知性に、自身の知性を理解され、その尻に敷かれたい。まったくもってその通りである。

話を戻そう。奉太郎はボヤキ系主人公である。しかし、それを受け止めるはずのメインヒロインであるところの千反田えるはボヤキ系のヒロインでは全然ない。クーデレとかでもない。どちらかといえば、先ほどの記事で述べられている涼宮ハルヒ型のヒロインに近い気がする。衝動的で何を考えているか分からないヒロイン像だ。もちろん、これを単にゼロ年代前半の時代性と論じてもいいのだが、もう少し踏み込んでみる。

では、奉太郎のボヤキを受け止めているのは誰か? これは氷菓を見たことがある人間なら一目瞭然だ。福部里志である。奉太郎の省エネ理論を聞いてやり、注釈を加えたり、皮肉を言ったりするのは里志の役割である。ボヤキを受け止めるワトソン役。だが、3巻以降は奉太郎の青春拒否症も少しずつ寛解していく。段々読者にも分かってくるのだが、奉太郎は意外と純朴である。千反田の純朴さに当てられている部分もあると思うが、根は純朴だろう。それに反して、里志は序盤から奉太郎に対し喋りっぱなしであり、文化祭終盤では奉太郎に対するコンプレックスを吐露するし、やがて例のバレンタイン回に至ってはあのような行動に出る。バレンタイン回はアニメでは随分と他のキャラの釈明が入ってマイルドにされているが、原作の切れ味と後味の悪さはすごい。

要するに里志は奉太郎なんかよりよっぽど面倒くさいキャラだ。世界に対する変なこだわり≒ボヤキという意味では、奉太郎より里志の方が重症だ。ここで視点の転換が起きる。氷菓において真にボヤキ系キャラは里志だ。では、里志のボヤキを受け止めているのは誰か? となると、それは部分的に奉太郎ではあるが、やはり伊原の要素が大きくなる。

伊原摩耶花の魅力

伊原は知性があり、批判者であり、あまり歪んでいない常識人である。彼女は奉太郎や里志の謎のこだわりを揶揄し、批判する。バレンタイン回で伊原は言葉を飲み込み、みなの前では里志の仕業だと話さないだけの知性があり、その後二人だけの時にはめちゃくちゃ怒っている。

氷菓という作品において奉太郎は主人公だが、第二の主人公は誰かと問われればそれは伊原になるだろう。伊原は読者視点として作られたキャラであるが、それ以上に(静的な奉太郎と異なり)動的な話の多くを負っている。伊原の漫研のエピソードは千反田の実家絡みのエピソードよりも、明らかに面白くなってしまっている。漫研絡みのエピソードには明確に事態を打開しようとする伊原の意思が感じられる。このような現在進行形の課題に対してはっきりとした意思の表れるエピソードは奉太郎にも、里志にも、千反田にもない。

以前、私は俺ガイルの記事の前置きで「すべての主人公は被害妄想である」と書いた。漫研回において伊原は嫌がらせを受ける立場になっており、それに対して彼女は毅然とした対応を取る。この辺りのシーンは読んでいて、頭がカーッと熱くなり、怒りに塗りつぶされる感覚がある。こういうのを上手く描ける人間はいつも偉いなと思うが、同時に読者(人間)に対するハック技であるな~とも思う。(俺ガイルの6巻の文化祭エピソードはそういうものをさらに押し進めて異常な回になっている)

とにかく、被害者となった伊原が事態を打開しようとして動く様は面白い。それは推理云々の理性的な話の面白さを超えてしまう、と私は思う。2016年に出版されたシリーズ最新作『いまさら翼といわれても』所収の「わたしたちの伝説の一冊」では、アニメで描かれた漫研の騒動のその後が描かれている。そこでも伊原はまた漫研の人間関係に巻き込まれ、そうして〈事件〉が発生する。伊原視点で描かれるこのエピソードは、誰かの推理ではなく成り行きで事の真相が判明していく。伊原は探偵ではなく実務家だ。この話のラストの一文はとても良い。そこで伊原が取る選択は、本質的に奉太郎や千反田が行うゲームめいた推理や解決といったものの外側にあるように思う。そして里志の取るあやふやな態度とも異なる。伊原は常にシビアな選択を迫られ、そして選び続けている。『いまさら翼といわれても』には「鏡には映らない」という伊原視点の話がもう一つ収められているが、こちらも伊原の強い意思が感じられる話で良い。

アニメのその後

アニメ以降の話としては『ふたりの距離の概算』がやはり良い。これは一冊まるごとの長編ミステリで、『クドリャフカの順番』などと同様、キャラクター同士のワチャワチャが楽しめる。冒頭から新入生勧誘ブースで2年生になった奉太郎と千反田がちょっとした推理ゲームをしていて、そうした二人の仲は読んでいて楽しい。奉太郎と千反田の会話は推理ゲームやもっと純粋な千反田の興味によって結ばれているような感じで微笑ましい(アニメでも分かるように、話が進むごとに千反田の興味は外の事象から奉太郎本人にも向けられるようになる)。

『ふたりの距離の概算』で特筆すべきはやはり、新入生・大日向友子の存在だろう。大日向によってメイン四人の人間関係が乱されるのが面白い。大日向は奉太郎の誕生日会を提案し、それはサプライズで奉太郎の家で行われることになる。四人の距離感はそれまでは付かず離れずといった感じで、相互に誕生日を祝ったりといったイベントは行っていなかった。(もちろん伊原と里志の二人だけの関係では別だろうが)そこへ来て、大日向は少々厚かましい形で誕生日会を行う。四人は大日向の提案を受け入れているが、しかしどこか不自然な(新鮮な)感覚を覚えている感じだ。基本的に大日向は上級生と早く仲良くなりたい(これには少々語弊がある部分もあるが)という気持ちで、四人と遊ぶ機会を積極的に設けているように見える。ああ~なるほどな~という感じである。「ふたりの距離の概算」という題名は作中のマラソン大会におけるキャラ同士の距離のことを言っているが、これはそのまま大日向を含む五人の人間関係にも当てはまる。新キャラの登場によって凝り固まった人間関係が乱されたり前進したりする展開はけっこう好きで、読んでいると「これよこれよ、俺が見たかったのは」という気持ちになる。

サブキャラの魅力ということであれば、アニメであれば入須先輩がクローズアップされている。原作だと十文字かほや漫研の河内亜也子も準レギュラーといったところだろうか。個人的には文化祭で里志にやたらと絡んで挑戦してくる谷惟之が好きだ。あのキャラの出現によって里志が興味のない人間にはマジで雑な対応をするということが分かるし、何よりもああいう雑に扱っても愛嬌になる小物キャラで、ライバル探偵的なキャラは面白いと思う。原作を読んだ段階だと勝手にむさくるしい熱血タイプだと思っていたのだが、アニメだとサブカル雰囲気イケメンボーイになっていた。残念ながら谷は今のところ準レギュラーとまではいかないようで、今後の作品に出てきてほしいなと思う。

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