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アマガミ感想 -愛とシステムと柳田國男-

『アマガミ』をプレイしている。アマガミとは2009年発売の恋愛SLGである。私は隠しヒロイン以外のスキENDを一通り見たところだ。あといくつかのナカヨシENDも。
当記事は、んぱんて氏のアマガミ考察に触発されて書いたものだ。氏のアマガミを象徴から読み取っていく考察は面白い。

そんなわけで、当記事は全体で4万字ほどある。とても長い。先にトイレを済ませ、食事や風呂を済ませ、就寝まで済ませておくべきかもしれない。あるいは人生における重要なイベントがまだ終わっていないなら、そちらを先に済ませておくべきかもしれない。例えば青春とか恋愛とか結婚とか子作りとか。何にせよこれは恋愛シミュレーションに関するお話だ。あなたの現実の人生経験がこの記事を読み解く上で邪魔になることはない。あなたが現実の人生に飽いたなら、その時にこの記事の必要な部分だけ読んでもらって結構だ。


恋愛と自己実現  -Kanon問題について-

アマガミはよく出来たゲームだと思う。というか、想像以上に骨太のゲームだ。ここでは全体のストーリーの構成や設定について触れたいと思う。
アマガミは恋愛シミュレーションゲームである。つまり、ゲーム内のヒロインと恋愛を行うことを主目的としたゲームである。主人公は橘純一といって、2年前(中学3年時)に告白した女の子からクリスマスデートの約束をすっぽかされて失恋したという苦い経験があり、それ以来恋愛やクリスマスに対して苦手意識を持っている青年である。この話はプロローグで語られ、傷心も少しずつ癒えてきた高校2年生の冬に今度こそ女の子とクリスマスデートを取り付けようと頑張る話だ。これについて、んぱんて氏の下記のnoteで述べられている主人公の性質はその通りであると思う。

ゲームジャンルの特質上、恋愛SLGの主人公というのは必然的に「頑張るぶさいく」を演じる羽目になります。

「ぶさいく」というのはいわゆる「奥手」や「鈍感」であったり、容姿や性的な魅力についての(自己)評価が低いことであったり、とにかく恋愛成就に不利な性質を有している(ようにえる)ことを指すことにします。(一般に言う不細工の意味合いとは違うので注意! チクチク言葉をつかってごめんね!)
そもそも「ぶさいく」でない(たとえば恋愛について自信があり積極的な)主人公の恋愛が何の滞りなく成就しても達成感がありませんし、あっという間にロマンスにアクセスできる人物に感情移入できる余地は無いかもしれません。

んぱんて - 【前半】アマガミは「マナザシ」

世に溢れるフィクションの形態でよくある典型パターンである。例えば「ハリー・ポッター」シリーズにおいて主人公ハリーの両親がヴォルデモートによって殺され、ハリーも親戚の家で不遇な生活を強いられているというような。友人の同人作家はこの典型パターンを「最初にまずDVをする」(作者が主人公を虐める)と評したことがある。とにかく、物語の開始時点において主人公には埋めるべき穴があり、その穴を埋めるために物語が駆動していく。読者はそうした欠乏に共感し、主人公に入り込めるようになる。
アマガミにおいて主人公の埋めるべき穴はクリスマスデートであり、恋愛関係であり、より抽象的に言えば「約束に来てくれること」である。だから主人公がヒロインたちに求めることは、クリスマスデートであり恋愛関係を結ぶことにある。当たり前といえばそうなのだが、これはかなり重要な要素で、逆に言えば主人公がヒロインたちの世界に持ち込むものは恋愛だけなのである。こうして主人公はクリスマス前の40日間を通して各ヒロインとの恋愛を成就させようとする。
アマガミの素晴らしい点の一つはルートとして「ソエン」が存在することだ。各ヒロインとの関係性は40日間を通して最終的に「スキ」「ナカヨシ」「ソエン」の3種類に振り分けられる。「ソエン」とは「疎遠」、つまりヒロインとの好感度を上げずに放置し続けると到達する状態である。ソエンで何が起きるかといえば、ヒロインたちは進路を決めたり、部活の大会で優勝したり、文化祭を成功させたり、アイドルになったり、同人活動を始めたり、他の男と付き合ったり(そして別れたり)という感じである。では主人公と結ばれる「スキ」の状態になるとどうなるかといえば、ヒロインたちは自分の隠れた才覚を見い出さず、部活の大会出場メンバーからは外され、文化祭実行委員からは外され、アイドルのスカウトは来ず、同人活動は始めず、他の男とは付き合わない。彼女たちは主人公と巡り会わない方が明らかに社会的に成功を収めて経験を積んでいくし、場合によっては自分の身に抱えた問題を自分だけで上手く解決していく。ちなみにアマガミでディレクター的な立場であった高山箕犀氏のTwitter/Xではこう書かれている。

ヒロインたちは自己実現を成し遂げて社会的に承認される。まさにそのことが恋愛、つまり橘純一という主人公と天秤にかけられている。この要素がアマガミというゲームを骨太なコンテンツにしている要因である。
俗に「Kanon問題」と呼ばれるものがある。各ヒロインの個別ルートが存在するゲームにおいて「誰かが救われれば誰かが救われない問題」のことである。

 初出が曖昧なら定義も曖昧のようで、明確にこれだ!という記載が実はどこにもない。多数の方が提示している案を御借りすると、『Kanon問題』とは、「誰かが救われると誰かが救われない問題」らしい。

 Kanonでは複数の女性キャラが各々悩みを抱えて存在している。それらは主人公の祐一と月宮あゆの「奇跡」によって基本的に解決する。だがその「奇跡」は一度しか起きない。プレイヤーが選んだキャラだけに幸せが訪れ(幸福)、選ばれなかったキャラの悩みは解決せず幸せは訪れない(不幸)。

頭んなかで、楽しんだ。 - 【考察】『Kanon問題』とは何だったのか?その問いと答え方

この問題は多くのノベルゲームで意識されてきたものではあるだろうが、アマガミにおいては前述したような形で解決(あるいはすり替えと呼んでもいいだろう)している。
ちなみにアマガミのアニメである『アマガミSS』およびその2期である『アマガミSS+』ではゲームでのこのような天秤の掛け方は一掃され、基本的にヒロインたちは橘純一と恋仲になった上に社会的な成功も収めるという描かれ方をしている。アニメはスキ・ナカヨシ・ソエンの良いところ取りである。アニメのある意味で凄まじいところは、別のヒロインが中心の回であるのにもかかわらず、中多紗江が美也に後押しされてクラス委員になったり生徒会長に立候補したり、七咲逢が塚原先輩からおでんノートを託されていたり、先輩が抜けて廃部になるはずだった茶道部に梨穂子と香苗の二人がいたりというシーンがあることだろう。各ヒロインに同性のバディや同性の先輩が付けられているのはゲームでもそうだが、特にアニメでは主人公がヒロインと親しくならなくてもバディが存在することで楽しいスクールライフが送れていますよ!という安全弁的な構造になっている。これもまた視聴者がKanon問題に苦しまなくて済む解決策であろう。(ちなみに絢辻詞のバディは存在しない。近い立ち位置にあるのは高橋先生だが、精神的なバディとして成立していないことは明らかだ)
アマガミのゲームファンがそうした甘ったるい構造のアニメ版を見て「あまりにも保守的すぎる」「こうじゃないだろ」と叫ぶのはかなり理解できる。ただ前作である『キミキス』のアニメ版が酷評だったことを思えば、アマガミのアニメがあのような形になったことは理解できる。(キミキスのアニメでは各ヒロインのルート分けをやらずに、主人公の男を二人に設定してアニメ全体を通して各主人公に対して一人ずつしかヒロインを選ばせなかったなかった)アマガミはアニメで興味を持った人たちがゲームを始める、という良い動線になったと思う。
高山箕犀氏がアマガミを作る際に設定した恋愛と自己実現を天秤にかけるコンセプト(価値観)は、個人的に現実において問題設定の仕方が本質的には間違っているとさえ感じるが、しかしたしかに現実にそのような事はありふれて起きていると感じる。フィクションにおいてもこのような建て付けは多いだろう。近年の有名な映画でいえば『ラ・ラ・ランド』あたりはそんな感じの作品だろう。
ともあれ、アマガミのゲームにおいて主人公と親しくなったヒロインは恋に"堕ちて"いく。橘純一はヒロインたちの世界に恋愛という火を持ち込んで、彼女らの価値観を破壊し再構築する。ヒロインたちは社会的な承認や束縛から解放され、愛を第一優先事項として生きるようになる。んぱんて氏の七咲逢ルートに関するnoteも引用しておこう。これはまさにその通りだと感じる。

水泳に身が入らなくなるスキ√は「バッドエンド」でしょうか。
確かに ソエンのように、小さい頃からの目標に直向きで、憧れの塚原先輩からも認められる……という、絵に描いたようなサクセスストーリーが可能性として用意されていますから、プレイヤーの操作する橘純一の手によって七咲が堕ちていくように映っても仕方のないことです。

しかしその成功は花の盛りに満開になった桜の美しさなのです。七咲にとって水泳選手として大成することは手帳をひた隠し、仮面優等生として生き続ける絢辻さんと同義なのです。
これがソエンの憎いところでして、如何に偉業を成し遂げようと、それは「他者に流されて生きている」彼女たちの像と言えるのです。

あなたが「他者」だからこそソエンになったヒロインたちの現状を高く評価しなければならないのですよ。言い換えるならばそんなふうに高く評価しているあなたたち大勢の「他者」によって生き方を決められた姿なのですから。

けれどもあなたが操作する「橘純一」はもはや他者ではないんです。
実際、〔他者から見れば〕堕ちていたとしてもスキ√の方がよりヒロインたちの本来性に近い像を結んでいると言い切れましょう。
橘純一と関わることで彼女らは「……一方その頃」というイベントを経て自問自答し、葛藤の末に彼と生きる生き方を選び取ったのですよ。
だからスキ「BEST」が存在するのです。

んぱんて - 七咲逢は「ママ」なのか

また、ソエンやスキBADがあることの良さは、そこにヒロインのキャラクター性が強く反映されていると感じるからでもある。スキBESTやスキGOOD、ナカヨシGOODではヒロインたちはある意味で(恋愛SLGにおいては当然存在するエンディングという意味で)順当に予定調和的に幸福になるが、ソエンやスキBADでは(順当なハッピーエンドが既にあるおかげで)そうした予定調和から解放されている。そこでは彼女たちは自由だ。前述のようにソエンで達成する自己実現はヒロインによって様々であり、スキBADで主人公を許すかどうかもヒロインによってかなり違う。特に後者はかなり強くヒロインの性格が出る。プレイヤーがヒロインのことをもっと知りたいと願う時、その回答がなされるのは順当なハッピーエンドではなく、スキBADである。

ビュッフェ形式の会話たち -まなざしを積み重ねて-

私はゲーマーではないし、他の恋愛シミュレーションといえばアマガミと同シリーズ『キミキス』をプレイしたことがあるくらいである。この章ではいくつかの記事を参照しながら、アマガミの意義についてまとめておくに留める。
まずは、例の「柳田國男らによるアマガミSS全レビュー」を書いたclavis氏の文章を見てみよう。氏はゲームシステムについて言及しており(というか、むしろ氏はこうしたゲーマー的な側面がメインなのだろう)、これが文体と相まってかなりの名文になっている。

clavis氏はここで、アマガミはHOWモデルではなくWHICHモデルでゲームシステムを作り上げたことが偉大だと言っている。比較対象として『私におまかフェ』を例に取った箇所はなかなかに痛烈だ。

アマガミは徹頭徹尾"WHICH"のゲームである。一部の例外を除き、アマガミは決してプレイヤーに"HOW"の選択を求めてこない。アマガミが要求してくる選択は極めてシンプルである。「女子Aと仲良くなるか、女子Bと仲良くなるか」だけだ。プレイヤーにとって重要なのは「誰と」仲良くなるかであって、「どうやって」仲良くなるかはゲームの側で考えてくれる。
ゲームを始めると、プレイ画面の大半をヘックスタイルのマップが占めている事がわかるだろう。これは行動マップと呼ばれるが、マップというよりは神経衰弱のように裏向きに並んだカード群を想像したほうがわかりやすい。各ラウンドの始めに、いくつかのカードが表向きにされる。オレンジ色のカードは梨穂子のカードだ。緑色のカードは薫のカードだ。梨穂子のカードを取れば梨穂子と仲良くなる。薫のカードを取れば薫と仲良くなる。えっ、これだけ?

これだけだ。他に何が必要だったというんだ?

(中略)

私におまカフェ
のパッケージでは、かわいらしい五人のヒロインがこちらへ笑いかけている。「何てかわいい女の子たちなんだ、ぜひとも仲良くなりたいものだ」と私は思う。その時、「コーヒー豆をうまくブレンドすれば仲良くなれますよ。どうです?」と聞いてくるのは端的に間違っている。コーヒー豆をどのようにブレンドするかは、プレイヤーがそのゲームに究極的に求めている快感と何の関係もないからだ。「何てかわいい女の子たちなんだ、そして奥深いバリスタへの道なんだ」と思うようなプレイヤーが世の中にいるだろうか?
ギャルゲーのHOWモデルが間違っているのは、プレイヤーがゲームに期待する快感とゲームがプレイヤーに要求する問題が、一見お互い関係するようで実のところは無関係だからだ。我々が好きな女の子ができた時、「どうやって」仲良くなるかと考えるのは、あくまで仲良くなりたいからであって、考える事自体が楽しいからではない。同じように、プレイヤーは、ヒロインとどうやって仲良くなるか、試行錯誤がしたいわけではない。プレイヤーは、単に仲良くなりたいのだ。

The Great Underground Home Page - アマガミ: インプレッション

もちろん、これにはある程度反論が存在し(上記の記事内の最下部においていくつかの脚注が存在する)、岩崎啓眞氏がいかにしてギャルゲーにおいてHowモデルが採用されてきたかという話を述べている。

要するに歴史的に元々ギャルというものは何らかのゲームをクリアしたご褒美として機能しており、『ときめきメモリアル』も当初は主人公の育成シミュレーションという文脈であったと語られている。
また、clavis氏はヘクスタイル(カード)で表示される各イベントから立ち上がるアマガミのゲーム体験をこう述べている。

ここではじめて、カードだと思っていた一つ一つのドラマが、カードではなくレゴブロックであった事が明らかにされるだろう。プレイヤーはようやくここで、アマガミにおける"HOW"の問題に取り組むことになる。高校生の恋愛における、一通りのバリエーションが用意されている中、プレイヤーキャラクターが辿れる最高の道筋というのはどんなものだろうか? もしくは、最低の道筋というのはどんなものか?

あらゆる偉大なゲームと同じく、アマガミはミクロな"WHICH"を積み重ねながら、マクロな"HOW"に答えていくゲームだ。そして、"HOW"に答えていく事に、終わりはない。(このような遊び方が可能になるのは、アマガミのゲームメカニクスが極めてシンプルだからだという事を覚えておこう。レゴブロックのパーツを一つ取ることに、パラメータチェックや乱数判定が行なわれていたら、我々は完成まで正気を保てるだろうか?)

The Great Underground Home Page - アマガミ: インプレッション

これについても反論があり、アマガミは「どのようにヒロインとの恋愛を組み立てるか」よりも、もう少し機械的な意味で「類推する埋めゲー」なのではないかという話が市川望氏によって語られている。

これについては私は後者のプレイスタイルで、埋めゲー的な遊び方をしている気はする。(もちろんその背景には空白のヘクスタイルにヒロインたちの私の知らない側面があるのではないか、という関心と不安があるのは確かだ。ちなみに高山箕犀氏もアマガミについて「プチプチを潰していくような」という表現をしている)ともあれどちらにせよ、この2つのプレイスタイルは全てのイベントがヘクスタイルという形で明示されていることが可能にしたものだ。
『アマガミ オフィシャルコンプリートガイド』に収録されているインタビュー記事によれば、前作キミキスから校舎をうろつくようなランダム要素を排除するよう提案したのはやはり高山箕犀氏であるようだ。

また、ゲームの日英翻訳家として活動しているTom James氏もアマガミ(正確にはTLSシリーズの系譜)がときメモ式のステータス上げを排除し、前作からランダム要素も排除し、ただひたすら会話にフォーカスしたシステムを評価している。

2009年というのは、『アマガミ』『ラブプラス』『ときめきメモリアル4』が相次いで発売された年である。上記のTom James氏の記事の「2009: A Dating Sim Exodus」というタイトル(「2001: A Space Odyssey」をもじったものだろう)は、それら恋愛シミュレーション(Dating Sim)の頂点の年であり、同時に終焉の年であったということを意味しているのだろう。(記事を最後まで読めば分かるが、要するに純粋に恋愛シミュレーションの形を保てた最後の年だった、くらいの意味だと思う)
私自身はときメモ4もラブプラスもプレイしていないが、この記事における3つのゲームの比較は面白い。ときメモ4では情報ブローカー(他のヒロインの現在との好感度を教えてくれるキャラ)とのルートがあることで他ヒロインの情報を教えてくれなくなり、そのルートを攻略する中でそれが逆に恋愛の真実味を感じさせる(現実にはヒロインの好感度を教えてくれる存在などいないので)というような話があったり、ラブプラスは『どうぶつの森』みたいなもので、ときメモやアマガミが本来有限のゲーム体験しか提供できないものを半ば無限にしたと指摘している。
また、Tom James氏は別でアマガミだけの記事を書いており、こちらも氏のアマガミに対する情熱が伝わってくる。

これについては有志の方が翻訳した記事を書いている。下記のものだ。

引用はしないが(ぜひ元記事か翻訳記事で読んでほしい)、Tom James氏が自身のティーンエイジャー時代の思い出を森島はるかのエピソードと重ねて語っている部分はとても良い。氏が言うように、アマガミのイベントや会話はさほどドラマチックなわけではない。だがそれゆえに実際にプレイヤーの人生で起こった恋愛(あるいは恋愛未満の様々なこと)と重なってしまう部分が多いのだろう。これはプレイヤーが恥ずかしがって(SNSなどで他者の目を気にして)多くを語ることのないものだが、実際今この記事を読んでいるプレイヤー(青春を終えた全てのおっさん達)にも心当たりがあるのではないだろうか?

 アマガミの中で、特定のルートに沿ってあなたが最終的に取った道のりの、その結末は、あらかじめ定められていたものではあるのだろう。しかしそこに至るまでにあなたが出会い、行い、語った沢山のものごとは、プレイヤーであるあなたの選択の結果であり、あなたに積極的な参加を求め、また幸せな、満たされたエンディングに到るための種まきである。それぞれの少女について、語るべきこと見るべきことは実にたくさんあり、あなたはそのうちのいくつかを必ず見逃してしまう。しかしそれゆえに、あなたと彼女が辿った道のりの一歩一歩は、あなたと彼女だけのものであり、ふたりがうまく交流を育み、そしてふたりだけのやり方で、幸せな結末に至ったかのように感じられるのだ。

それいがいのはなし - アマガミという古い、しかし古びないゲームについて/トム・ジェームズ

Tom James氏のこの文章は、先ほどのclavis氏の箇所で引用した「ミクロなWhichを積み上げてマクロなHowを作っていく」話と同じだ。アマガミは一回だけのプレイでは個々のヒロインの全てのイベントを見ることはできない。どのようにイベントを積み上げていく(取りこぼす)かはある程度プレイヤー次第であり、アマガミというゲームに真摯に向き合うと結局その点に帰着していくのかもしれない。
さて、Tom James氏の指摘する点で私自身気になったことがある。それは「目」だ。

キャラクターの立ち絵とダイアログ・ボックス、動きのない背景といったものを経て発展してきた多くの恋愛シミュレーションやビジュアル・ノベルと同様、アマガミも省エネ・アニメとでも呼ぶべきものを備えている。このアニメーションは極めて控えめな量ではあるが、既にして精妙なキャラクターに、秘やかな、しかし強力な新しいレイヤーを加えてくれる。
 とりわけ、その目だ。僕たちを惹きつける目。彼女たちが思いをうまく言葉にできないでいるとき、代わって雄弁に語る目。あなたと喋っているあいだにもあちこちを向き、時には確信をたたえてまっすぐにあなたの目を見つめ、また時には考えをまとめているように神経質にそっぽを向き、あるいは一度に何百もの考えが頭を巡っているかのごとくぱちぱちと激しく瞬く。

 目はほとんど話題に上ることがないが、このパズルにおける極めて重要なピースであり、性格描写という点について言えば、グラフィック、文章、声の演技とおなじ位置で評価されるべきものだ。ほかの3つの要素が、多くのこういったゲームにおいてキャラクターに最低限の命を吹き込むのに十分だとすれば、アマガミがその方程式に加えた、変化し、生き生きと動き、活発な目こそ、彼女たちに魂を与え、彼女たちをかくもチャーミングに、美しく、痛々しいほど人間的で、また親しみやすいものにしている。

それいがいのはなし - アマガミという古い、しかし古びないゲームについて/トム・ジェームズ

この「目」については、Twitter/X上で鳴宮なるみ氏が指摘した点が面白かった。

アマガミでは、キャラの表情をモーフィング的に変化させることはせず、1フレームですべてのパーツを瞬時に動かしている。瞬きのスピードも、アニメーションとしては驚異的な速さ(実測で0.2秒程度!)で、これも現実の人間と同じ。▼
しかも瞬きだけで速/中/遅の3種類もある。瞼の開き具合(全開/七分開/半開き/閉)4種類×瞳の向き(正面/横目)2種類で、目の表現には相当凝っているらしい。これに眉と口の自由度を掛け合わせると、ひとつの立ち絵につき 150種類くらいの表情バリエーションを作れる。▼
そもそもアマガミのモーション設計自体がかなり独特で、眉・瞳・瞼・口の4箇所のみを極めて俊敏に動かす一方で、頭・胴・四肢は原則固定(動かす時は立ち絵のバリエーションで対応) というやり方でキャラクターを動かしている。▼
これは他のアニメやゲームやVTuberとは全く違ったやり方で、同時期発表の『ラブプラス』や『ときメモ4』(3D人形をセルルックでゆ~っくり動かす)・最近のVTuber(表情固定で体はモーションキャプチャ)等と比べても極めてユニークである。どちらかというと、ディズニーの3Dアニメーションに近い。▼
(中略)
人間はじっとしているように見えても絶えず連続的に動いているので、リアルな動きを追究する上では3Dモデルが適しているように一見思われるが、人間の知覚心理(プレグナンツ傾向:物体の複雑な動きを単純モデルとして認識する)を考慮すると、アマガミの方法がリアルな表現として適切なのだと思う。▼

鳴宮なるみ - Twitter/X
https://twitter.com/null_19991214/status/1685501861896589312 よりツリー形式のポストを引用

これらの表現がアマガミを感情面で繊細なゲームにしていることは間違いない。(だが「眉・瞳・瞼・口の4箇所のみを極めて俊敏に動かす一方で、頭・胴・四肢は原則固定である」というのたしかにそうで、同時にどこか奇妙な印象にもする設計だ。会話の時は慣れてくるのだが、イベントの一枚絵の時に高速で口だけ動くのはやっぱりちょっと変な印象を与えていると思う)アマガミ発売前広告で各ヒロインに添えられたキャッチフレーズが「見る」という文字を強調しているのは、おそらくこの気合の入った目の表現を意味しているのだと思う。ゲーム制作がどのように行われているかはよく知らないが、この表情表現を会話イベントごとに一つ一つ組み合わせて作っているとすれば(おる程度は話す時の感情とセットにしているにしても)、かなり気の遠くなるような作業だ。所謂スクリプターと呼ばれる人たちの仕事だろう。感想記事ではどうしてもストーリーにばかり言及がいってしまいがちだが、それを支える土台部分は膨大な作業の上に成り立っている。
また、これは恋愛シミュレーション全般に言えることなのだろうが、声優の声質と話し方のスピードはかなりクリティカルな要素だと感じる。これは個人的な経験だが(だが恋愛をシミュレーションしているのであれば、個人の経験が全てである)、中多紗江と七咲逢を同時並行でプレイしている最中に森島はるかが登場するイベントがあると、その喋り方の滑らかさにちょっと感動したということがあった。(これは別に声優が悪いという話ではなく、単にヒロインたちはそのような演技としてキャラ付けされており、それが私の好みに合わなかったという点は付け加えておく)
これはノベルゲームであることの制約というか結局テキストの方が早く読めてしまうことにいくらか起因する部分があり、端的にトロい喋り方はタルくなってしまうという問題点があると感じる。特にアマガミでは中多紗江が極端だろう。(まあこれはキャラや話の面白さとも連動するポイントで、私自身、七咲逢は一番好きなヒロインではある。ただ、中多紗江と桜井梨穂子の台詞をやや飛ばしがちだったことは事実だ。単純に私は高めの声が苦手なのかもしれない)

棚町薫  -ギャルの攻略可能性-

実はアマガミは発売当初に軽くプレイしていて、その時に一番気になったキャラは棚町薫だった。今でもアマガミのヒロインの中でキャラデザと設定は一番好きである。発売当時、棚町薫がどう斬新だったかといえば、やはり絶妙な形でリアルなギャル(っぽい人)を表現したことだろうと思う。そう、棚町薫はギャルである。杓子定規な道徳に反発し、同調圧力に屈さず、自分を貫く不良娘。(金髪もピアスもないが)パーマがかったボリュームのあるモジャモジャした髪と着崩した制服。そして何より、一人称が「あたし」である(そしてこの事は絢辻詞の二人目の人格の一人称が「あたし」であることとも関連付いているはずだろう)。
現在のオタクフィクションで描かれるギャルは金髪ストレートであることが多いが、アマガミ発売当時流行していたギャルのスタイルといえば「age嬢」である。Wikipediaによれば、age嬢はファッション雑誌『小悪魔ageha』が創刊した2006年から2011年頃まで継続したギャルファッションのひとつで、そのヘアスタイルの特徴は盛り髪・巻き髪である。もうお分かりであると思うが、アマガミにおいて盛り髪は棚町薫、巻き髪は森島はるかに割り当てられている。アマガミは保守的でありながらリアリティを追求した恋愛SLGであり、『キミキス』『セイレン』などのシリーズを通してヒロインの髪色は黒~茶色に限定されている。そうした制限の中で、当時のオタクに受け入れられる程度の緩和されたギャルの形として棚町薫と森島はるかはデザインされたのだろう。もちろん性格などを含めた場合、よりギャル性が高いのは棚町薫である。森島はるかはギャルというよりお嬢様的なキャラ付けがされているし、それは六連ドリル髪が象徴するものとも合致する。むしろそうした髪の記号付けが現在でもきちんと機能しているのは棚町薫より森島はるか(のお嬢様性)であるかもしれない。
さて、アマガミが発売されたのは2009年である。今でこそ「オタクに優しいギャル」という概念が広まって男性オタク向けフィクションでギャルをそのように成形し扱うことはある意味では容易だし、場合によっては安直の領域にすら入っているが、そのような現象が成立したのは2010年代後半からだろう。(具体的には2014年連載開始の『おしえて! ギャル子ちゃん』辺りからの流れだろう)2009年はまだオタクに優しいギャル前史の時代である。
オタクに優しいギャルの歴史については下記の記事で3人のキャラが紹介されている。『げんしけん』の春日部咲、『アイドルマスター シンデレラガールズ』の城ヶ崎美嘉、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の由比ヶ浜結衣だ。この年代の過程でギャルはツンデレ的でトゲのある性格(例えば高坂桐乃のようなキャラ)から優しい複雑な面を持つキャラに変化していったという主張である。まあ軽い読みモノ的な記事としては一応理屈は通っていそうだ。

デレマスと俺ガイルは2011年開始のコンテンツなのでアマガミより後になるが、『げんしけん』は2002~2006年の作品だ。『げんしけん』の春日部咲は男ばかりのむさ苦しいオタクサークルに(一人だけいるイケメンに惚れて)入ってくる美人な金髪ギャルである。(『げんしけん』の時代はオタク文化でいえばニコニコ動画が出てくる前であり、深夜アニメやPCゲームといったコンテンツが一般化する前のまだ本当にオタクだけのものだった、少なくともそういう実感があった時代である。ガラケーはみんな持ってるけど動画サイトの閲覧は一般化していないという時代。そういう時代においてアニメやゲームを異物として見るギャルがオタク部室に入ってくるわけだ)
私が「ギャル」という言葉を使う時、それはより抽象的な意味合いで学校のクラスにおける所謂「一軍女子」「スクールカースト上位」と呼ばれるような女性のことを広義に含めている。陰キャ男とは住む世界の異なる、性格が外交的・社交的で華やかな見た目の女性くらいの意味だ。ギャルは本来陰キャ男性にとって向こう側にいる存在であるが、それが何らかの事情があってこちら側に越境して来る。その衝撃と意外性が男オタクフィクションにおけるギャルの面白味である。(こういった描写について他者から話しかけられるのを待つ男オタクの怠惰な受動性を批判する向きもあるが、男性オタク向けコンテンツにおける「オタクに優しいギャル」は、女性オタク向けコンテンツに主人公にだけ優しい非現実的な不良やヤクザが登場したり、NL作品にスパダリが登場したりすることと何ら変わらないし、フィクションとはそのような本質的な(ある意味では安易な)欲望の産物だと個人的には思う。もちろん「オタクに優しいギャル」を否定するのは一つの考え方であり、悪い意味でないダンディズムなりマッチョイズムである場合も多いだろう)
話が横道にそれた。要するに、本来ギャルとは向こう側から越境して来なければ男オタクには触れ得ない高位の存在である。それが時代が下るにつれてオタクが如何に彼女たちを調伏していったか、というのが「オタクに優しいギャル」の歴史であると個人的には考える。
そういう意味で、アマガミの棚町薫はすでに越境してこちら側にいるギャルである。棚町薫は「悪友」と表現され、梅原と同じく中学時代からの腐れ縁ということになっている。これがアマガミにおけるギャルの調伏の形である。もちろん、棚町薫が悪友という設定であるためには主人公にも相当の下駄が履かされている。ゲームをプレイした人には分かると思うが、橘純一は運動が得意でチームプレイが必要な体育の球技も梅原と協力して難なくこなすし、「弱い方のチームに入れられて嫌だなあ」みたいな台詞もあったはずだ。頭はあまり良くないが、たまにCGで見れる顔はカッコいいし、梅原や棚町との会話を見ても分かるようにノリの良いコミュニケーションもできる。おそらくクラスの一軍男子とは言わずとも二軍男子くらいのポジションにはいるだろう。一人称は「僕」で陰キャっぽく偽装されているし前述の通り精神的にはブサイクな面もあるが、見た目や能力はモテ要素が強い。アニメではやや面長のモサッとした姿に変えられているが、ゲームの橘純一は『セイレン』の主人公と同じくくらいにはシュッとしている。これなら棚町薫というギャルと悪友であっても問題ないわけだ。
個人的な感覚であるが、絢辻詞以外のヒロインは皆まずは主人公の外見的な部分を好きになった(あるいは一定の基準をクリアした)んじゃないかと思う。恋愛SLGにこのような事を言うのは野暮といえばそうなのだが、恋愛に発展していく過程が滑らかすぎるし、桜井梨穂子や棚町薫のような長い付き合いにしても惚れる根拠が結局よく分からないからだ。
棚町薫のキャラクターの話に入ろう。彼女は自分の意思を貫く不良娘であるが、その性格は育った家庭環境とかなり関連があるように思われる。両親が離婚したことは受け入れているが、自分の家庭の在り方がどういう風に社会一般から見られているか、ということを棚町薫は敏感に察しているように見える。詳述はされないが、そうした家庭の問題について中学時代に橘が口出しした際には喧嘩になっているようだし、橘の説教的なものが始まりそうになると彼女が逃げていくイベントがある。橘純一の家庭は両親も健在だし妹とも良好な関係を築けており、経済事情や家事労働にも問題を抱えているようには見えない。幸福で"一般的"な家庭である。棚町薫が杓子定規な道徳に反発するのはこうした社会全般への威嚇であるように思う。彼女はそうでなければ自分や自分の家庭を肯定できないのだろう。そして彼女にはそうしたことを橘純一と共有しようとすると最終的に二人の関係が決裂してしまうのではないか、という恐れがある。こうした自分の家庭への一線の引き方は七咲逢にもあり、自分の家庭が一般社会から見た場合にどこか歪んでいるのではないか?と疑っている。あるいはほとんど察していると言っていいかもしれない。七咲の場合は選択肢によってより激烈な応答があり対話不能に陥ってしまう。彼女たちは学生でありながら義務的な家事/労働からは解放されていないし、橘純一と比較してシビアな世界に生きている。他人からどう思われようと、棚町薫には母親と二人でやって来た自負があり実際にそれを証明し続けてきたが、再婚話によってそれが裏切れたように感じているのは作中の通りである。だからスキBESTで家の内側に橘を入れたことは大きな進歩であるし、その際に制服を着崩さずリボンもきちんと付けているのは(フォーマルな場であることを差し引いても)彼女の成長の意味合いなのだろう。彼女は自分のことを自然体だと言っているが、やはり彼女のギャル性(不良性)は社会を威嚇し自己を保つための誇張された仮面の一種ではあるんだろうと思う。つまり絢辻詞と並べて、彼女の一人称もまた「あたし」であるということだ。もちろん棚町の場合、絢辻詞のように奇妙に人格を切り離して使い分けるほどには到底及んでいないし、ほとんど自分自身と切り離せない"自分自身"なのだと思うが。棚町は部活をするなら演劇をしてみたいと言うが、それは彼女が自我を上手くコントロール出来ない自覚からきているのかもしれない。(カッとなってしまう性分は作中の通りだ)
面白いのが棚町の絵が入賞した時に彼女が戸惑う点で、彼女は「こういうのは努力した人がもらうべきだと思う」と言う。これは今まで彼女が学校のコンクール等で入賞したことがないことを反映しているのだろうし、もっと言えば彼女は権威から褒められ認められることに慣れていない。そういうのは優等生的にきちんと努力した人が取るべきだ、ということなのだろう。校則を無視し権威に対して反骨心があるようなタイプの彼女にとって入賞は素直に喜べないし、受け入れるのは自分の性分にも合わないからいつもの調子が出ない。彼女が素直に喜ぶのは、橘が「喜んでいいだろ」と言ってからだ。棚町薫は"一般的な社会"と良好な接続をする上で、橘純一という根拠を必要としている。絵が入賞し美大に進学するソエンですら彼女は橘から一言応援してもらうことを欲しているのだ。
ここで我々はなぜ田中恵子の恋愛に関するアドバイスを棚町から求められたのか、という点に立ち返るべきなのかもしれない。棚町の性格からすれば恵子の相手の男に詰め寄って回答を求めればいいだけだ。そして最終的にはそうなってしまうわけだが、それでも橘という男になぜアドバイスを求めるステップを踏んだのか? 棚町は中学時代の「輝日東の核弾頭」というあだ名を恥じている。元々嫌なあだ名だったのかもしれないが、高校生の彼女は強行突破的なやり方だけでは限界があることを自覚しているのかもしれない。
(ちょっと雑な、そして嫌な言い方ではあるが)仮に母性を愛、父性を規範といった形に捉えた時、棚町に欠けているのは父性なのだろうと思う。棚町はそうした規範的なものを橘に求めているのだろう。あるいはもっと直接的には父親の代替物として。
棚町のこうしたある種の"しょうもなさ"をどう捉えるかはプレイヤー次第ではある。ギャルという本来自分の道を貫けるポテンシャルを持つ人間が主人公に寄りかかってくれるのは嬉しく愛おしいことである反面、彼女から超越性を奪い地に落とす。こうした側面は七咲逢にもあり、そちらの方がよりダイレクトにプレイヤーに伝わっているように思う。
スキBADで主人公が川に突き落とすエンドはかなり痛快で好きだ。棚町は遊園地デートで水難トラブルに遭っている着ぐるみマスコットキャラをゲラゲラ笑うような人間で、橘がドン引きしているように、それはやはり少しズレている。棚町は一歩間違えれば死ぬような冬の川に橘を突き落とし、愛の告白をする。これは「輝日東の核弾頭」流のやり方だろう。橘の規範の否定であり、愛の肯定でもある。スキBESTのお行儀の良さとは正反対だろう。
棚町は他のヒロインと異なり、本質的には家を出たいわけでも絶対的な愛を欲しているわけでもない、と個人的には思う。たしかにルート開始当初の棚町には"恋愛以前"の未熟さがあるのは確かだが、それはスキに至る過程の試行錯誤で乗り越えられているように思う。最初は恋愛関係に憧れていきなりキスしてみたりするのだが、後半になるにつれてキスよりも手を繋ぐことが重要視される作りになっている。ファラオの呪いイベントで男性化した棚町が言うのは「手握ろうぜ~」「性別が変わったからって態度変えるなよ~」であり、これは棚町の根幹に関わってくる台詞だ。おそらく棚町にとって一般的な異性愛的なやり方はしっくりこないのだろう。スキBESTで同じ布団に入って寝ても性行為の描写が一切ないのは必ずしもレーティングの問題ではないし、彼女の未熟さゆえというわけでもないだろう。もちろんいずれそういう事もするかもしれない、という台詞はあるのだが。彼女が母親と相棒的な関係を築いていたり、橘純一をはじめ人間関係全般に競争心や面白さを見出して繋がっていたりするのは、所謂一般的な情愛という概念から少し距離を置いているがゆえだろうし、この感覚は現実に生きる我々とも共有できるもののはずだ。思うに、家を憎んでおらず社会に対して反骨心を持つ彼女こそが逆に全ヒロイン中最も素で社会でやっていける(権威の階段を上ったり社会的成功を収めたりできる)精神の持ち主であるという気もする。
棚町との会話は笑いに溢れていて生っぽい。本当に対面で会話してたらめちゃくちゃ面白くかつ呼吸も合って充足感すら感じれるヒロインだろう。「お前とおったらおもろいわ」状態である。ただ絢辻詞と会話している時のようなキャラクターに由来するフィクション的な笑いの要素が薄く、その分パンチも弱くなっている気はする。加えて女言葉という問題がある。(あと「梅原君」呼びもちょっと変だ。「純一」呼びとの差異を付けてるのは分かるが、そこは「梅原」だろうと思う。ナヨナヨしたオタクプレーヤーに手加減は無用だ)棚町薫には「~かしら」「~わよ」などの女言葉が付与されている。はっきり言ってボイス付きのゲームにおいて女言葉は基本的に不要であると私は考える。ボイスが付けば誰が喋っているかは明確だからだ。おまけに大抵のノベルゲームでは戯曲形式のようにカギカッコの前に喋っている人物名が付く。逆に言えば誰が話しているか一見分かりにくい小説では女言葉は機能として重要になるわけだ。アマガミが基本的にリアリティーのある女子高生との恋愛を志向するのであれば、女言葉はなくすべきだったのではないだろうか?(これはたしかに一人称が「あたし」という時点で、すでにそれが女言葉の一種ではあるのだが)反面、絢辻詞の女言葉は堂に入っているようにも見える。それは彼女はアマガミ中で最もフィクション性の高いキャラだからだ。
ギャルの話ついでに余談だが、高山箕犀氏が今新たに恋愛SLGを企画することがあれば、いくら保守的なものを作るにしても流石に一人くらいは派手髪のヒロインを入れるという気がするし、ピアスやメイクによるキャラ分けもするのではないだろうかと思う。それが2020年代の女子高生のリアリティであろうし、実際『セイレン』の三条るいせのメイクなのか目の隈なのかよく分からない感じのアレは地雷系・量産型ファッションに通じるものを感じる。あれは"病み"の風紀委員なのだろう。逆に『セイレン』の正当派ギャル枠は常木耀で「イマどきのいじり姫」というキャッチコピーがあるように、こちら側に越境してイジってくるギャルというキャラ付けである。(メスガキ性ともいう)ただアニメの回が進むにつれてちょっとポンコツな王道ツンデレキャラっぽくはなるのだが……。リアルめな等身大10代女性のキャラクターで恋愛っぽいやりとりのコンテンツといえば、現在はシャニマスあたりがその地位を占めているような気はする。私はシャニマスをプレイしていないのだが、例えば七咲逢とノクチルの類似性を述べることは可能だろう。

森島はるか  -エデンと死と南方熊楠-

森島はるかとは何なのかと問われれば、私は「楽園の女」だと答える。森島はるかが何故絢辻詞と並んでメインヒロインと呼ばれるのか? 絢辻詞と較べてストーリーが明らかに弱いのに?(これは絢辻詞以外の全てのヒロインに当てはまる)
棚町薫の項目で述べたように、森島はるかはギャル性・お嬢様性が付与されている高位の女である。先輩であり全生徒が羨望する高嶺の花。ゲームとしても主人公がまず目指すべきヒロインとして提示される。だがそれだけでは説明が足りないように思う。アマガミは聖夜をめぐる物語であり、森島はるかは宗教的な象徴を一手に担うのだ。
はじめに違和感があったのは、やはり切火(きりび)だろう。スキBESTのエピローグで森島はるかは出勤する橘純一に向けてカンッカンッと音を立てて切火をする。エピローグ中の突然の事なので面食らったプレイヤーも多いはずだ。かくいう私もそうである。切火とは旅立ちや外出などの際、火打ち石で身に打ちかける清めの火である。現在でも伝統を重んじる歌舞伎や落語、危険な作業をする大工やとび職の世界では縁起かつぎとして残っている風習らしい。世間的にはドラマ『銭形平次』で主人公の平次が出かける際に妻にカチカチと切火をされるシーンが有名だという。銭形平次は岡っ引きであり、現在でいえば警察官だ。要するに死と隣り合わせの仕事である刑事となった橘純一を森島はるかが切火で送り出しているというシーンである。切火は時代劇を見ていなければすぐには分からない慣習だし、比較的若い世代に向けた恋愛SLGに出すにはそれなりの理由が必要だろう。そこには制作側の意図がはっきり表れているはずだ。森島はるかは橘純一に縁起かつぎをする。より直接的に言うならば死を遠ざけようとする。
森島はるかは物語の始めから死と結びついている。ジョンという犬のペットの死である。彼女はジョンの死に傷つき、立ち直りの過程にある。そして橘純一はといえばジョンの代替物として森島はるかの懐に入っていく。フランスの作家ミシェル・ウエルベックが言うように、犬は人間に対して無条件に絶対的な愛をくれる。たとえ飼い主がどれだけ醜かろうとそれは変わらない。犬は裏切らない。森島はるかが(そして絢辻詞も)犬に惹かれるのはそのためだ。
森島はるかは"恋愛以前"の世界にいる。男性女性問わず分け隔てなく接するし妙に距離感が近くて男子生徒たちと無邪気に馬飛びをする。もちろんこれは彼女が男兄弟に揉まれて生きてきた所為もある。ただ森島はるかの言う「男女の関係って付き合うとかだけじゃないと思うんだ」は一見正論ではあるが、その台詞は棚町薫とは異なり異性愛の感情の発達の未熟さゆえに発されている言葉である。梅原曰く「森島先輩も子供っぽいよなあ」だ。これに反してスキBESTおよびスキBADにおける彼女の言動は凄まじい。スキBESTでホテルの浴室から出た彼女は「あなたの気持ちが分からなくて不安で……」云々と言って泣き出してしまうし、スキBADでは「私って面倒くさい女だと思う」「お互い楽しかったからいいよね? もう卒業まで会わないでいよう」云々と言う。上手く伝わらないかもしれないが、これは彼女のそれまでのどこか浮世離れした言動と較べて驚くほど現実の女性みたいな物言いだ。森島はるかの人格はスキBESTでは浴室を出た瞬間から、スキBADでは丘の上公園で会った時(あるいは約束を反故にされた時)から劇的に変化する。森島はるかは本来世界から愛された人間である。森島はるかは橘純一にクリスマスの約束を反故にされた時に独り言で「これって今まで男の人をたくさん振ってきたことへの罰なのかな……そんなわけないよね」と言う。ここで注目すべきは「そんなわけないよね」である。森島はるかの生きる世界には本来許すも許さないもない。罰という概念が存在しない。だが、スキBADでは橘純一に裏切られてしまう(森島はるかは裏切りとして認識する)し、スキBESTでは橘純一の気持ちが分からず不安になってしまう(森島はるかは橘純一を疑う)わけだ。スキBESTの森島は「どうして覗きに来ないの? 好きなら覗きに来るものじゃないの?」と問う。ただし彼女は恥ずかしいからと部屋の明かりを消すしバスタオルで体を隠している。言ってる論理は分かるが、何だかチグハグだ。そろそろ私が何を言っているか理解してもらえると思う。彼女は裸体を晒すのが恥ずかしく感じるようになり、他者を疑い始める。旧約聖書の創世記における失楽園のエピソードだ。森島はるかはエデンの園から追い出されてしまったわけだ。彼女は死と猜疑の世界に放り出される。そう考えればスキBADエピローグは理解しやすいだろう。彼女は知恵の実を食べて堕ち、蛇となったわけだ。
森島はるかは異様に死を怖れている。最もギョッとするエピソードは彼女との会話に出てくる「マフラーを付けて走ってたら電柱に引っかかって首が締まって走馬灯を見る怖い思いをした。だからマフラーは苦手」というものだろう。これと関連してネックレスが苦手という会話もある。これらのエピソードを首輪や犬と関連付けることもできるし、彼女に首輪を付けられるのは死だけという風に考えることもできる。とにかく彼女が死と関連付けられていることは間違いない。トリマーになりたかったけど病気や傷で苦しそうなペットの姿を見るのは辛くて断念した、という会話もある。思えば、彼女が動物好きであることや森島家が子沢山であること、祖父母が存命であることは全て生命と関連付いているように思える。共に行動する塚原響が医者志望であることも、考えようによっては森島が死から守られていると捉えることができる。何より彼女の大好きな祖父母が存命であり、彼女の夫婦観の模範となっていることは重要な点だろう。そしてその祖父母はクリスマスに"やって来ない"。ここからはやや暗い話だが、祖父母が日本に来ないという点には明確に死の予感がある。もちろん作中では飛行機の都合ということになっているが、彼女がそう遠くない未来に祖父母の死と向き合わなければならないことは必然であろう。これは想像の域ではあるが、スキBESTにおける数年後の森島はるかは祖父母の死を乗り越えている。そして祖父母の代わりにクリスマスにやって来たアダムであり蛇である橘純一を伴侶としている。彼女は永遠の愛を信じることで死という概念を乗り越えたのだろうと思う。「帰ってきたら逮捕してね」というのは、最初はジョンの代替物であった橘純一との関係が変化した(首輪と手錠の意味を重ねているのだと思う)ことを意味するのだろうし、先の電柱エピソードや橘純一自身が死(刑事であり蛇であること。これはまさに知恵の実で示唆される善悪だろう)という概念と重ね合わされていることも含めていいかもしれない。また、森島と橘と梅原で刑事ドラマを再現するイベントも考慮する必要がある。この時のロールプレイでは森島は裏切り者の刑事役(梅原)を殺す真犯人であり、橘は真犯人を捕まえる刑事役である。つまり森島も橘も死を部分的に担っていて両者が互いに捕らえ合っている(そしてそこからは裏切りが排除されている)あたりが穏当な解釈だろう。これは永遠の愛の言い換えかもしれない。
冒頭の切火の話に戻ろう。森島はるかはイギリスの出自を持ちキリスト教圏である祖父母を模範としていた。そんな彼女が最後に日本の伝統慣習である切火(古事記には倭健命が叔母の倭比売命から授かった火打石で難を逃れるという話があるらしい)を行うというのは、何らかの価値観の変化を意味するのだろうと思う。これはもちろん西洋文化より日本文化が優れているとかそういう話ではない。アマガミのヒロインたちには家族の束縛というテーマがある。森島はるかは幸福な人間であり同じく幸福な人間である祖父母を模範としているが、それを一つの束縛として捉えることは可能だろう。彼女は祖父母とは別の形で永遠の愛を獲得したのである。
思うに、アマガミの企画の初期段階で楽園の女(6枠の森島はるか)と楽園から堕ちた女(1枠の絢辻詞)という対照的なヒロイン構想があったのでないだろうか? そしてそれは初期段階で姉妹だったのではないか? これは絢辻詞の姉である縁と森島はるかが非常によく似たキャラ造形をしていること、スキBADの森島はるかが絢辻詞のキャラと重なることから類推される。
さて、ここで先生方に登場して頂こう。柳田國男と折口信夫と南方熊楠である。みなさんご存知アマガミSS全話レビューだ。

アマガミSSの森島はるか編の第4話「レンアイ」では冒頭で謎めいた山(島)が登場する。これについては先生方によって下記のような言及がある。

The Great Underground Home Page - アマガミSS 第四話 レビュー (前)
アマガミSS 第四話「レンアイ」にて森島はるかが指し示す山

南方熊楠がこの山について「番所山から見える神島ですね」と発言する。これは重要な指摘である。神島とは和歌山県田辺市にある無人島のことである。

神島は田辺湾の内側にある無人島で、行政区分としては田辺市新庄町3972番地である。古来より島全体を海上鎮護の神として崇め、樹林は神林として、また魚付き林として地元の保護を受け、明治まで人手のほとんど入らない森林を維持し続けた。
(中略)
神社合祀によってこの島の森林が伐採される計画が出たとき、南方はこれに猛烈な反対運動を行い、地元の協力を得ると共に、中央の研究者や役人に働きかけ、法律的な保護がつくこととなった。1929年には昭和天皇がこの地を訪れたことも知られている。

Wikipedia - 神島 (和歌山県)

神島とは名前が示す通り神域であり、丘の上公園から森島はるかが指差す海の上に浮かぶ山(島)もまた聖なる島だと南方熊楠は捉えたわけだ。ここで森島はるかがイギリスに出自を持つことを思い出そう。イギリスは島国である。そして彼女が模範とする祖父母が暮らす、キリスト教の国である。つまり4話冒頭で見る島は森島はるかが属している(属していた)楽園を意味している。よりイギリス流に言うなら、これはアヴァロン(場合によってはエデンとも同一視される、ブリテン島にある伝説の島)だろう。そしてその島は4話以降"出現しない"。何を言いたいかはもうお分かりであろう。
今更であるが「森島はるか」という名前にしたところで、"森"であり"島"である。これは生命あふれる楽園を意味しているのではないか? 「はるか」は何故漢字ではないのか? これは楽園を"はるか"遠くに望むことを意味するのではないか?(「はるか」については柳田國男が高嶺の花の象徴であるとも指摘しているし、そちらの方が妥当な解釈ではあるが……)
ちなみにGoogleで「橘純一」と検索すると一番上にサジェストされるのは国文学者の橘純一のWikipedia記事である。柳田國男らと同時代人であるし国文学者であるから、もしかしたら交流があったかもしれない。

橘純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月25日 - 1954年(昭和29年)1月19日)は、国文学者。

Wikipedia - 橘純一

柳田國男らによるアマガミSS全話レビューは一般的に何かとネタとして捉えられがちだが、ここまで読んだ読者諸賢はおそらくその価値を再検討し始めているだろう。アマガミは象徴を通して読み取れるように作られている。
アマガミのイベントマップが無数のヘクスタイルで出来ていることは周知の事実だが、このイベントマップにおいて6人のヒロインのイベントを進めていくとヘクスタイルが中心から六方へと放射状に延びていくことを知っているだろうか?(「その他イベント」「上崎裡沙」「橘美也」を総合した七本目の枝が存在することは一旦無視しよう。これは些細なことだからだ)

これがアマガミの宇宙だ
(アマガミ行動マップ全体図・アマガミオフィシャルコンプリートガイド付属品)
「アマガミ」ロゴの右下には雪の結晶がある
(アマガミ ゲーム開始画面)

そしてこのイベントマップ全体の図柄はアマガミを象徴するアイコンである雪の結晶(六方対称)と一致している。そもそもヘクスタイルというのが六角形である。雪の結晶はフラクタル(部分が全体と相似な形を有する)構造をとっている。つまり一つのイベントマスには全てのイベントが、一人のヒロインには全てのヒロインが包括されている。
博物学者・南方熊楠は宇宙のあらゆる事象が立体的に絡み合った状態を示すために「南方マンダラ」を描いた。

南方マンダラ

熊楠はこの図について、「この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりでも、それを敷衍追及するときは、いかなることをもなしうるようになっておる」と解説している。

南方熊楠顕彰館 - 土宜法龍宛書簡(南方マンダラほか) https://www.minakata.org/facility/collections/minakatamandala/

シミュレーションとは一つの宇宙を生成することである。つまり恋愛シミュレーションとは恋愛宇宙の生成に他ならない。アマガミのイベントマップもまた平面にしか描き得ないが、我々はそこに奥行きを、恋愛が動的に変化する空間と時間を見い出す。そうした秘儀を通して黄金を汲み出すこと、それがアマガミをプレイすることの本質である。

絢辻詞  -システムの表現型- 

絢辻詞。アマガミにおいてヒロイン間のバランスを破壊している、文句なしのメインヒロイン。絢辻詞ルートはあまりにも面白い。エキサイティングだ。スキBADエピローグに行き着いたプレイヤーは息を飲むだろう。あの一枚絵は作中で最も美しい。柳田國男アマガミSS全話レビューの作者clavis氏の言葉を借りれば「どのような選択もプラスの結果をもたらす」だ。(もちろんこれは皮肉だ)
ご存知のように、絢辻詞には三つの一人称が存在する。「私」と「あたし」と「わたし」である。絢辻詞は三つの側面(人格)を持っている。さて、アマガミというゲームはヒロインとの親密度を上げてシリアイ→アコガレ→スキという三段階の梯子を上っていくゲームである。絢辻詞ルートはこのシステムに呼応する形で「私」→「あたし」→「わたし」の階段を上っていく。これはプレイヤーにとって自明のことであるが、見過ごされがちなポイントだろう。はじめに渡されたポケモンがなぜ二回進化するのか? 答えは「そう設計されたから」だ。これはあまりに無粋な回答であるが、アマガミにおいては重要な意味を持つ。絢辻詞とゲームシステムは完全に共犯関係にある。より正確に言うならば絢辻詞というヒロインはゲームシステムが受肉した表現型である。
恋愛シミュレーションに限らず恋愛コンテンツにおいてプレイヤーはヒロインと仲良くなって彼女の別の側面を知りたいと願う。あるいはこう言い換えてもいい。「彼女には俺しか知らない側面がある」絢辻詞はこの欲望を極めてシステマチックに叶えてくれる。最高だ。これは皮肉ではない。なぜなら絢辻詞ルートはきちんと面白いからだ。逆に言えば他のヒロインは親しくなっても最初のイメージからの更新があまり起きない。(実はここで他に一人だけ例外がいることに気づいた人もいるだろう)その所為もあって他のヒロインルートは絢辻詞より面白くない。
(ちなみに絢辻詞はナカヨシの終盤で「実はあたしにはまだあなたの知らない側面があるの」と打ち明けるが、これはまるで某バトル漫画的な「俺はまだ変身をあと1回残している」みたいな言い草であり、同時にシステマチックでもあって笑ってしまった)
アマガミは恋愛SLGであり、リアリティーのある女子高生との恋愛を志向したものであると仮定するならば、ストーリーの劇的さは盛り込まない方が正しい在り方なのかもしれない。そんなものはエロゲー泣きゲーに食わせておけばいい、という意見もあるだろう。俺は可愛いヒロインとの些細なやりとりを甘菓子のように楽しみたいのだ(実際に楽しんだのだ)、という意見は正しい。一方で私の友人はアマガミよりさらに物語性の低いキミキスを「薄味」と評しており、それも理解できるところだ。キミキスでは二見瑛理子が一番人気ヒロインだが、同時に彼女が最もトリッキーなヒロインであることは衆目の一致するところだろう。個々のレベルではともかく総体として我々は刺激を求めているのではないだろうか? ともあれ絢辻詞はアマガミ中で最も面白いルートであり、他のヒロインと比較して非常にフィクション性の高い存在になっている。
絢辻詞ルートは本当に楽しかった。所謂「黒辻さん」はプレイヤーが会話でトピックを外してしまうと目を閉じて手を前に組み「そう……」と言うだけである。(この瞬間の黒辻さんは制服デザインと相まって厳粛な神父のようにも見える)これが痛快でたまらない。かなり「こやつめ……」という気分になり、漫然としていたプレイに火が入る。(そして上手く会話が当たっても、橘が「さっきトイレの水道が壊れてて……」と言うと無言で笑顔のままスッと距離を取ったりするのだ)基本的に他のヒロインはトピックが外れたことをオブラートに包んだり茶化したりして伝えてくるが、黒辻さんだけは全くフォローのない伝え方をしてくる。
取り繕わない女、より正確に言うならば主人公に対して取り繕う必要のない段階に入った女はプレイヤーに真実を感じさせる。おまけに彼女は極めて聡明で自己分析的で、その言及はメタな領域にまで及ぶ。彼女は己の性格を隅々まで理解し、途中からは橘純一もその範疇に含まれる。橘純一を「手当たり次第」と評したり、休日デートの約束を破った言い訳をする橘に「『急用』が本当に『急用』なら私はこんなに怒らない」と発言する。これは橘純一というよりはプレイヤーに向けられたメタな言葉だ。彼女の真実を見通す目は橘純一を通してプレイヤーに届いている。この手のメタな要素は濫用すると安っぽくなってしまうが、彼女が非常に全知的な存在であることを考えればある程度は納得がいく。何より彼女が極めて屈強な存在でありながら、儚く不安定な存在であることが単にギャグや安っぽさに落ちない文脈を保持している。スキBADエピローグからナカヨシ黒沢典子ENDまでを網羅したプレイヤーは絢辻詞がシャレにならないヒロインであり、同時に非常に幅の広いヒロインであることも理解するだろう。
スキに至る過程で絢辻詞の手帳は橘に拾われてしまい、状況に迫られる形で彼女は橘純一という男を自分の内側に入れてしまう。個人的に気になった点は、アニメだと手帳拾い→橘と関係が深まる→クラスに黒辻バレ→手帳燃やしの順で進むが、ゲームだと手帳拾い→橘と関係が深まる→手帳燃やし→クラスに黒辻バレの順で進むことだ。これは意味合いが全然変わってくる。前者は隠す必要がなくなって手帳を燃やすが、後者は主人公が現れたから手帳を燃やしてる。
前者において手帳は物質的に単なる絢辻詞の秘密ノートでしかないが、後者は手帳と橘純一の間に交換関係が成立している。私は後者の立場を支持する。絢辻詞にとって手帳は単なる秘密ノートではなく「王様の耳はロバの耳」において床屋が秘密を叫んだ穴に近いものとして機能している。人には言えないことを吐き出せる居場所、それが手帳の正体だろう。(だから手帳に何が書かれていたかという問いは本来的にほとんど意味のない問いである。手帳がどのように機能しているかの方がはるかに重要なことだからだ)橘純一は森島はるかルートでは犬の代替物として入り込んだように、ここでは手帳の代替物として絢辻詞に入り込む。おそらく手帳は「あたし」や「わたし」の人格が存在することを保証するものだったのだと思う。そして聡い彼女はそれが同時に不健全な在り方であることも理解している。だから彼女は橘純一という健全な居場所を見つけると、手帳を燃やしてしまう。これは彼女なりの橘純一への誠実な向き合い方だ。彼女は橘の前では後ろ暗い噓や隠し事をやめる。吐き出せる相手は目の前にいるのだから。しかしながらスキBADまで見た後であればこれはあまりに軽率な行動だったのではないかとも思う。スキに至る過程の絢辻詞は冷静さを欠いている。それは彼女の周りで状況が目まぐるしく変化していくからであり、彼女の頭脳がそれに上手く付いていけていない。
絢辻詞が手帳を燃やしている一枚絵は、スキBAD絵の次に美しい。彼女は茫然としていて手帳を見ているようで見ていない。彼女はもっと別の場所を見ていて、明らかに理性的な状態ではない。下記は私が絢辻詞のスキBADを終えた直後の感想である。

手帳を燃やすことは彼女のアイデンティティーを他者(橘純一)に預けることを意味する。身の回りの事を全てコントロール下に置きたがる彼女にしてみれば例外中の例外だ。そして燃やすという行為は不可逆的なものだ。橘との関係に失敗した場合に彼女にはもう戻るべき居場所はない。これはまさに"賭け"である。スキBESTもスキGOODもその賭けに勝ったエピローグであるが、この賭けに失敗した時に起こった事は皆さんもご存知の通りである。
では絢辻詞のナカヨシルートはどうだろうか? これは絢辻詞が手帳を燃やさずに橘純一とゴールインするお話である。絢辻詞は他者との恋愛を完全に乗りこなしている。シリアイ→ナカヨシに上がる時に彼女は手帳をひた隠しにした状態で主人公に告白してくる。ここの彼女はとても健気だ。本当に緊張しているのも分かる。彼女なりの賭けであったことも伝わってくる。ただ彼女は自分自身の手綱を離さないし、何よりその後で彼女は橘純一自身の秘密を探ろうとする。ナカヨシにおいて彼女は他者を無条件に信じることはできず、自分が猫をかぶっていることを橘が他の人にバラさないという根拠が欲しい。だから同等の秘密を握り合うことで対等な関係に立とうとするわけだ。だが彼女は橘の秘密を探り当てることができず、代わりに彼のトラウマを知る。そして「そのトラウマ、解消しましょう」と持ち掛ける。秘密を握るのが無理なら恩を着せたいというわけだ。人間関係を打算的にとらえ、論理的で向上心を持つ彼女らしいなと思う。
ナカヨシで彼女は橘との恋愛を楽しんでいる。会話では「恋愛って自分が組み替えられていくみたいで嫌だったのよね」云々という発言があるが、この時の会話から読み取れるのは「でも案外大したことなかった。あたしでもやれるわね」という感じだろうか。だから黒沢典子エンドに達した時に絢辻詞は冷静に対処し、逆に橘純一を破壊する。これはスキBADとは正反対というかカウンターというか。これも彼女が手帳の代替物として橘を受け入れ、手帳を消去しなかったが故の展開だろう。彼女の伴侶はいまだに手帳である。ここからは私の勝手な推測ではあるが、ナカヨシエピローグで結婚し子供を持った彼女は橘に黙ってひっそりと手帳を燃やしたのではないだろうか。「この幸せが少しでも長く続くことを祈っている」という台詞は一見幸せそうな言葉であるが(現に彼女は幸せではあるとは思う。口調からカドが取れているのも橘との長い年月を感じさせる)、他者(橘)を信じ切れていないことの証左だろう。人間関係を打算的にとらえる彼女は、この関係もいつか終わってしまうのではないかと心の片隅で不安に感じている。そのように見れば、なぜ二人の間に子供がいるのかも理解できる。子供は彼女にとって二人の関係を繋ぐ根拠なのだろう。おそらくだが、ナカヨシの絢辻詞は娘を産んだ段階で手帳をひっそり燃やしたのではないか? 手帳と娘が交換関係にあるのではないか?(より正確には橘純一と積み上げた時間と娘という存在が合わさって手帳と交換関係にあるのではないか?) これが私の見解である。
ちなみにナカヨシで彼女が探ろうとした橘の秘密は実際には存在する。「開かずの教室」だ。橘にとってバレれば学校にいられなくなるかもしれない秘密であり、絢辻詞が考える他者の弱点に完全に合致する。だが彼女はそこに到達しない。これは絢辻の手帳が橘にバレないことと対称的で等価な関係であるような気もする。ということは、これも勝手な推測だが、スキの絢辻は橘の開かずの教室を知っているのではないだろうか? 絢辻と棚町を同時進行させると、橘が開かずの教室から二人の対峙を盗み聞きするイベントが発生するが、これは本当は絢辻は分かって話しているのではないだろうか? だがもちろん彼女はその事を橘に直接伝えたりはしない。そんなことをしなくてもスキの彼女は橘を信じているからだ。
実際に永遠の愛であることと、永遠の愛を信じることは別物である。絢辻詞ルートで重要視されているのはもちろん後者だ。ナカヨシエピローグの二人は共に人生を添い遂げるだろうが(実際に永遠の愛であるが)、彼女自身は永遠の愛を信じ切れていないし、スキGOODでは社会的な承認を諦めておらず、愛さえあればそれ以外はいらないという態度ではない。スキBESTはピーキーな幸福の瞬間というか、朝の噴水の前で座り込んでいる時の絢辻詞は橘純一を通して人間の永遠の愛を信じることができた瞬間なのだろう。それは美しく、同時に我々には儚く危うく映る瞬間でもある。私は『秒速5センチメートル』(2007年)の第一章の雪降る納屋の中で一晩を明かした二人のことを思い出す。絢辻と橘もクリスマスの校舎で完璧な夜を過ごしてしまったのだろう。
さて、絢辻詞の側面(人格)は三つあるという話だったが、んぱんて氏のnote記事では4人(A'を含めると5人)いるという考察が述べられている。

んぱんて - 「絢辻詞」は4人いるのよ  noteより

最初にABCDという4つのバージョンにつきましては絢辻詞役の名塚佳織さんご本人がお話されていますので、アマガミSS+plusブルーレイ第1巻の特典ブックレットや、「良子と佳奈のアマガミ カミングスウィート! 第146回(ラジオCD vol.17収録)」等でぜひご確認ください。

んぱんて - 「絢辻詞」は4人いるのよ  noteより

前提として、私は上記で述べられている一次情報(名塚佳織氏本人による言及)に当たっていない。なのでここからは完全に私の勝手な考えだ。
私は基本的にBとCは切り離して考えるべき存在ではないと考える。(非常に安直な表現で申し訳ないが)BとCは所謂ツンとデレの関係として機能していて、プレイヤーが黒辻さんとの対話を楽しむための仕掛けとして必然的に生じた(制作側が作り上げた)ものだと考える。こうした機能的な面から考えるのはあまりよろしくないように思われるだろう(たしかにキャラクターと真に向き合っているとは言い難い)が、私の記事をここまで読んでいる読者には私が機能的な側面を、あるいは(キャラクターそのものをある程度無視して)所謂"作者の気持ちを考える"傾向があることを理解してもらえると思う。(私はどちらかといえばキャラクターを通した創作論的な方向に興味がある)
たしかに絢辻詞というのは奇妙なヒロインで、Aという側面をトランプのようにひっくり返すとBが現れ、さらにBをひっくり返すとCとDが入り混じったような存在が出現する、ように見える。しかしCとDは明らかに別物で、んぱんて氏が言うように橘純一がDと対話できるのはほんのわずかなイベントだけである。Cはキスをして鼻血を流す絢辻詞の動物的・情念的な不完全さ・綻びを表していて、それは全然本来Bに含まれていたものではないだろうか?
個人的にはむしろAとA'に興味があるというか、特にアニメにおいて顕著だが、クラスに黒辻バレした後に彼女がまたAとして振る舞おうとするシーンがあるが、ここの名塚佳織氏の演技は奇妙(絶妙)で、明らかにAとは異なる声色として演じられている。そして橘もこの変化を敏感に感じ取る。これはA'と取っていいのか、あるいはA→A'の遷移過程の一つとして見るべきなのか分からないが、印象に残ることはたしかだ。
蛇足になるが、手帳の内容については大方の予想と同じく、学校の人たちの弱点や秘密などが書き込まれていたのだろうと思う。そしてなぜ殴り書きなのかと言えば、それは彼女が聡いことを考慮すると単に他者に見られた際に可読性を下げるために意図的に殴り書いていた、と考えるのが妥当だと思う。私も過去に他人に見られたくないノートを実際そのような手法で書いたことがあり、感覚は理解できる。そうまでして他人に見られたくないなら家に置いておけばいいだろう(そもそも書かなければいいだろうという意見は排除する。それは書かなくてはいけないものだからだ)と思うが、絢辻詞は家族を信用していないし、手帳自体が彼女の半身的な物であることを考えれば常に持ち歩くのも納得がいく。問題は私の自説において手帳が「あたし」と「わたし」の側面を保証していたという点で、他者の弱点を書いていることは「あたし」の側面を保証する(性悪であることを自分に認識させる)だろうが、では「わたし」は何をもって保証されていたのか、ということだろう。例えばそれは「自分の居場所が欲しい」「クリスマスに皆を幸せにしたい」などの目標であった可能性もあるが、いまいち決定打に欠ける気もする。あるいは殴り書きという点は、衝動的に書いた心の闇・叫び的な印象として素直に受け取ってしまってもいいのかもしれない。やはり手帳は中身を明かさず謎のXのままとしておくのが一番魅力的(機能的)なのだろう。
手帳関連でもっと謎めいていると思うのは、スキで発生する高橋先生や梅原が絢辻と同じデザインの手帳を持っているというイベントだろう。これはどういう意図なのか本当に不明だ。一番分かりやすいのは誰にでも心の闇はあるとか、手帳を呪物的な扱いにすることでホラーな文脈を付与しているとかいう解釈だが(イベント名も「恐怖の手帳」なので)、流石になんだそりゃと思わずにはいられない。もちろん、アマガミは本当にくだらないイベント(主に橘純一の性欲に由来する)と意図が分かりにくいが核心に迫るイベントが一見同じヘクスタイルとして平等に配置されており、そういうものだと言われればそうなのだが……。手帳を高橋先生や梅原が持つことは、絢辻詞の様々な側面が橘純一だけでなく他の人々にも徐々に受け入れ始めたことを意味するという解釈もネットで見たが、いまいちピンと来ない。それを表現したいならこんな迂遠な表現をしない方が良い気がする。また、スキには橘が絢辻を昼飯に誘おうとして結局誘えない三連続のイベントがあるが、これも意図がよく分からない。(これはクラスに黒辻バレした後に絢辻が不安定化し、彼女と橘が和解するまでに出現するイベントでその意図自体は読み取れるが、和解した後も残り続けるイベントであり少々不可解だ)これらのイベントがある所為か、絢辻詞のスキは不安定である以上に不穏な感じになっている。
オフィシャルコンプリートガイドのインタビュー記事によれば制作段階の絢辻詞はもっと腹黒でありスキBADエピローグも意図が伝わりにくい不穏なものだったらしいし、スキ全体が本来かなり意味不明に作られていた可能性はある。高山箕犀氏がスキBADエピローグについて、絢辻が橘を後悔させるための虚言である解釈も含めたコメントをしているあたり(私がプレイした限りではそのような解釈はまず成り立たないという感触がある)、製品版にする際にかなりクリティカルな修正があったのだろうと思う。

七咲逢  -ひと振りの奇跡-

アマガミの一番人気ヒロイン、七咲逢。私もアニメを見てかなり好きになり、今回ゲームにまで手を伸ばすきっかけとなったヒロインである。七咲逢の魅力はたしかに他のヒロインから抜きんでていると思う。いくつか理由を述べたいが、正直なところ上手く的を得ているかは微妙なところだ。というのも、結局のところ私が七咲逢に惹かれる理由は思弁的な部分にはあまりない気がするからだ。全ては後付けである。
絢辻詞の項でプレイヤーの中でヒロインのイメージが大幅に更新されていくことが魅力的なヒロインの条件であり、アマガミにおいて絢辻詞以外のヒロインではそれが基本的に起きないと述べたが、実は七咲逢は例外だと考える。絢辻詞ほどシステマチックでもないし分かりにくいが、ただおそらく多くのプレイヤーが自然と発見できるくらいの塩梅で、七咲逢のイメージは大きく更新される。
七咲逢の第一印象は不愛想で透明感と超越性を持つヒロインというところだろうか。超越性というのは、最初の出会いで彼女が一人でブランコを漕ぎジャンプするところにその予感がある。透明感については後述する。不愛想については最初の出会いの3パターンがどれも橘純一に対する印象が良くないことを思えば納得がいくだろう。彼女は橘純一を他の男性同様に不信の目で見ており警戒している。ただ会話を重ねるうちに彼女は少しずつ橘に対して警戒を解いていく。これは橘純一がマヌケな男だからだ。七咲逢に限らず、全てのヒロインは橘純一のマヌケな部分を愛している。彼の顔が良いことはすでに述べたが、ヒロインたちが見た目の次に惹かれるのは彼が嘘をつかない(噓をついてもすぐバレる)人間で、純朴で善良な性格であるという点だろう。
七咲逢もまた橘のそういう面に触れて、こいつなら自分でも御せると思ったのだろう。どんどん調子に乗ってくる。こうして始めのぶっきらぼうなイメージから「センパイ」と言いながら橘をイジってくる小悪魔的な七咲逢に変貌していく。と、同時にプレイヤーは七咲逢と会話するにつれて彼女が意外にもかなり家庭的で道徳的なヒロインであることを発見するだろう。これは最初の彼女の超越性というイメージとの落差がある。彼女は弟の面倒をみるし家事を担っているし海岸のゴミ拾いをする。水泳部では期待の一年生であり、練習も真面目にこなす。こうしてプレイヤーはブランコからジャンプする軽々しいイメージとは裏腹に、彼女もまた現実と紐づいた女であると理解する。こうした小悪魔的でありながら極めて道徳的な七咲逢というイメージが第二の印象だろうか。
第三の印象は好感度が上がってくると徐々に解放されていく、橘純一を許してくれる存在というイメージである。所謂バブみとかダメ男製造機とか呼ばれるものだ。これは彼女が家庭的かつ道徳的であることとセットになった側面である。(そういう意味ではツンデレ等と似たような性質ではあり、この二つの側面は本来切り離すべきではないだろう)
これを単なるバブみで済ませても構わないのだが、だんだん歯車がおかしくなってくると感じるのはスキのイベントで起きる「センパイはどんな女性が好きなんですか?」という問いに対して「束縛してくる女性が好きなんだ/自由にさせてくれる女性が好きなんだ」という選択肢だろう。これはどちらの選択肢で答えても、七咲は無理やり橘の答えに合わせてくる。特に後者の選択肢に対して「女友達の家に泊まるくらいは許しちゃうと思います」と答える七咲はかなり無理をしている。そしてこれがスキBADのアレに繋がることは皆さんもご存知のことだろう。絢辻詞のスキBAD絵が最も美しいように、七咲逢のスキBAD絵は七咲逢ルート中で最も良い顔をしている。七咲逢編のアニメのラストで文脈は異なるながらスキBADシーンが採用されているのは非常に理解できる。(スタッフもきちんと理解しているのだろう)あれこそが七咲逢というヒロインの真骨頂だからだ。これはもちろん恋愛の負の側面である共依存と呼ばれるものだろうし、海岸膝枕エピローグは極めて内に閉じた危ういエンドである。(同じアニメの海岸エンドでも棚町薫の海岸爆走エンドは外交的で爽やかだ。実に彼女らしい)
以上のように、七咲逢のイメージは不愛想・超越的→小悪魔的・家庭的・道徳的→バブみ・共依存という風に進む。これは絢辻詞ほど劇的ではないが、明らかにそれ以外のヒロインより抜きん出ている。そして素晴らしいことに、これは絢辻詞ほどにシステマチックではない。自然であるということだ。プレイヤーはこうした変化をゲームシステムにこれ見よがしに提示されることなく、滑らかに理解する。つまり「俺だけが知っている七咲逢の本当の姿」状態に近づく。
「男性が描く女性像は娼婦・聖女・太母の3パターンしかない」という言説がある。私はこの言説が好きではないし間違っているとすら思うが、七咲逢についてはかなりこの3パターン性を強く感じてしまう。七咲逢は娼婦であり太母であり聖女だ。彼女は小悪魔的に「センパイ」と囁きながらスカートをめくり上げて誘惑する(娼婦性)。家庭的で膝枕をしてくれる(太母性)。では聖女性とは何か? これにはもちろん先ほど述べた超越的なヒロインという予感も含まれる。だが聖女性をより引き立てるのはその透明感だろう。
七咲逢のイメージは水と結びついている。水泳部はもちろんだが、海岸のゴミ拾いや水族館好きであること、天然温泉エンド、液体という意味でならラーメン好きであることも広義には含めていいかもしれない。これは彼女に透明感を与える。(もちろん水は太母性とも関連付く)加えて彼女には何を考えているか分からないところがある。彼女は(絢辻詞もそうだが)どこか虚無的な目をしていて儚いイメージがある。これはアニメのOPやEDが顕著だ。これが彼女の聖女性である。

プールで水面を見つめる七咲逢
(アマガミSS 七咲逢編 ED映像)

んぱんて氏が七咲逢とエヴァの綾波レイを関連づけた記事を書いているが、これは(少なくとも視聴者側の)連想としてはたしかにそうだ。綾波レイのイメージは水(というかL.C.Lという母性)と結びついている。それに七咲逢が橘純一に対して無意識的に望んでいるであろう一体化のイメージ(天然温泉での混浴やラーメンに変化した七咲が飲まれるイベント)はたしかにL.C.Lに近い。

こんなのほとんど綾波レイだろ
(アマガミSS 七咲逢編 ED映像)

上記の画像に見られる水やそこに反射する光は、青春物語における「逆光系
」を想起させる。要するに"エモい"だ。

逆光系が明確に意識されるようになったのは2010年代後半であり、ビジュアル的には新海誠の作品が影響しているのだろう。中身の物語としては難病モノの恋愛小説等が合流していったんじゃないかと勝手に推測している。アマガミは2009年のゲームでありアニメ一期は2010年だが、七咲逢には逆光系を生む流れの一つが見られると思う。
橘純一がプールに入って七咲逢を抱きかかえるシーンは七咲逢ルートにおけるハイライトの一つだ。状況的にも極めてドラマチックなシーンであり、水と光のマジックで彩られる。エモい。(これは皮肉ではなく私もアニメ初見時はけっこう感動した)
七咲逢が妙に他のヒロインより現代性を持っていると感じるのはこうした逆光系に一因があると感じる。私はプレイしていないが『アイドルマスター シャイニーカラーズ』等の現代的な10代女性のフィクション像はそうした文脈にあると感じる。(そしてもちろん七咲逢の性格もそこに通じているだろう)
七咲逢に独特な質感を与える要素としては他にも周縁性が挙げられると思う。プレイヤーが彼女と会話する場所はもっぱら校舎裏である。これは水泳部の部室がそこにあるからと説明されているが、プレイヤーは暗に日陰の少女や疎外された少女、あるいは秘密の逢瀬的なものを感じるだろう。これは黒辻さんと会話するのが屋上であることと同じだ。七咲は校舎裏の少女であり、絢辻は屋上の少女である。七咲逢の場合、最初の一人ブランコもある。オタクはこういうのが好きだ。疎外感に共感し、同時に彼女を見つけられるのが自分だけであると感じられるのだろう。「俺だけが知っているヒロインの本当の姿」である。
ここで改めて七咲逢のプロフィールを見てみよう。「好きな事:海・部活・夜(静かだから)」だ。完璧である。七咲逢の周縁性は一人で海岸のゴミ拾いするという形でも表れる。また水泳部に所属しているものの水泳自体は個人競技である。(絢辻詞が部活をするなら陸上をやりたいと言うのも同じだ。「思いっきり走れたら気持ち良いでしょうね」と言うが、これはもちろん一人で思いっきり、という意味だろう)(余談だが七咲逢と夜の小学校に忍び込むイベントも妙にシチュエーションがエモい)
七咲逢は一人になりたい。そして周縁に向かいたい。これは彼女の自由になりたいという逸脱志向なのだと思う。んぱんて氏は七咲逢には抑圧された性欲・食欲があると指摘しているが、これは概ね同意できる。彼女はラーメンやジャンクフードが好きだが自分でそれを抑制しているし、エピローグで(妊娠や子供の存在は別として)性行為の事後が明示されるのは七咲逢だけである。これは七咲逢にとって単純に性行為が子づくり以前に強い意味を持っていると受け取るべきだろう。
ただ、七咲逢は性欲や食欲だけでなくもっと漠然と逸脱全体を求めているような感覚が個人的にはある。これは彼女が家庭的・道徳的であることの反動で、自分が家庭内で少々理不尽な立場にあることを薄っすら理解していることとも関連している。思うに、一人で海岸でゴミ拾いをするというのは暗に家に帰りたくないことを意味しているのではないだろうか? もちろん彼女が海が好きなのは事実だし、水泳部のボランティア活動という側面があることも事実だ。だが、水泳部の集団活動ではなく一人でゴミ拾いに行くのはやはりちょっと"一般的な高校生"から外れていると思う。これは塚原先輩も会話の中で指摘している。要するにこれはゴミ拾いボランティアという道徳的な行為を言い訳にして、自分の逸脱行為を肯定しているということだろう。こうした事を七咲逢が自分で理解しているかはよく分からない。自覚的であるかもしれないし、無意識であるかもしれない。ただ彼女は棚町薫のように開き直ってもいないし、絢辻詞のように自己分析的で聡明でもない。七咲逢は自分が家に帰りたくないということを認めようとしないだろうし、口にも出さないだろう。少なくとも作中で文章として明示されることは無い。(彼女が一人でブランコからジャンプするのはむしろ彼女の超越性への無意識的な願望の表れと取るべきなのかもしれない。ちなみに公園でのブランコ遊びもまた水泳部顧問が鍵を忘れてその間ヒマだったからという理由が付いている)
おそらくプレイヤーはこうした文章として明示されない彼女の逸脱志向を肌感覚として理解するのだと思う。これはかなり奇跡に近い。(まあ流石に奇跡は言いすぎだろという話はあるだろうが、ともかく計画的に制作するには難度が高いものになっていくだろう)ここまで来ると一切皮肉でなく「俺だけが知っているヒロインの本当の姿」である。全然別の例で申し訳ないが、月村了衛氏が自らの『機龍警察』シリーズについて百合的な側面を描くコツは「そっちを向かずに切ること」(狙って描かないという意味だろう)だという趣旨の発言をしていたはずで、七咲逢の逸脱志向の側面はこれに近いと思う。一振りの奇跡だ。(私はロマンチストなので奇跡も信じている)
そしてこの逸脱志向の言い訳に使われるのは、ゴミ拾いボランティアだけではない。まさしくそれは橘純一そのものだ。七咲逢は橘純一という男を言い訳にして逸脱行為を行う。「もう、センパイは仕方ないですね」(こんな台詞が正確に作中にあったかどうかは覚えていないが、あったものとして想定しても問題ないだろう)である。彼女は橘という男を言い訳にして遊園地やゲーセンに行くし、全年齢的ペッティング行為に及ぶ。そういう意味では究極的に橘を言い訳に使うのがスキBADだとも言えるのかもしれない。彼女は許しというか、逸脱に酔っているとも言える。
ここまで考えていくと、彼女の弟もまたそうした言い訳的な存在ではなかったか?という点に行き着く。基本的に七咲の弟・郁夫は七咲逢にとって面倒を見ないといけない存在であり家族の束縛という印象で語られるが、どこかそこにはアンビバレントな感覚が漂っているようにも思う。それが弟と一緒に入るゲーセンや弟と一緒に見るテレビ番組だろう。彼女は姉であり保護者である立場から、そうした娯楽を自分が主体的に楽しんでいるとは言わないが、実際のところけっこう楽しんでいるように見える。おそらくだが、彼女にとって両親は明確に束縛だが、弟はそうではないのかもしれない。だが、彼女の逸脱志向は弟ではもう満たせなくなっている。橘純一と彼女は半ば弟を言い訳にして遊園地に行く約束を結ぶが、弟は風邪をこじらせて来れなくなる。ここまで読んだ方にはお分かりだろう。つまり弟と橘は交換される。
(弟が来れない理由は極めて神の手的な事象だが、私は例えば前夜に郁夫が蹴っぽった布団を逢が"無意識"的に掛け直さなかった、というような事象を想像する)
森島はるかでは犬(あるいは七咲との比較では森島の祖父母との交換の方が状況的には適切なのかもしれない)の代替物として、絢辻詞では手帳の代替物として、そして七咲逢では弟(正確には弟の言い訳的側面の)代替物として橘純一は彼女の懐に入り込む。ナカヨシでは橘純一はどこか弟と同列に並べられるが、スキでは弟や家族と過ごすクリスマスをやめてまで橘純一と一緒に過ごそうとする。
男オタクは超越的なヒロインが好きだ。これは棚町薫の項で示した「オタクに優しいギャル」の話と似た話だ。これらのトピックについて素晴らしい記事があるのでご紹介したい。私はフィクショナルな女性について考える時、だいたいこの記事を読み返す。

保守的な恋愛SLGであるアマガミにおいては、七咲逢の第一印象は最もこの「髪の青いパンク女」性を感じる女かもしれない。もちろん棚町薫でも良いのだが、やはりブランコを一人で漕ぎジャンプする彼女の姿には鮮烈なものを感じる。だがすでに述べたように、七咲逢もまた現実に縛られた"しょうもない"女であることをプレイヤーは理解する。このしょうもなさを愛せるか、愛せないかはプレイヤー次第だが、ともあれ彼女もまた現実の超越を望み、そして橘純一と共に実際に叶える。それが彼女のルートであろう。
さて、ここまでが七咲逢に対する思弁的な解説だ。正直なところを告白しよう。彼女の最大の魅力はその表情にあると思う。アニメの方で説明しよう。私が七咲逢と初めて出会ったのはゲームではなくアニメであり、その方がより正しく個人的経験を伝えられると思うからだ。

七咲逢は微笑まない
(アマガミSS OP1映像)

アマガミSSのOP冒頭はパンニングしながら各ヒロインを映していくが、七咲逢だけは唯一微笑んでいない。こちらに敵意を向けているようにさえ見える。それがこうなる。

右上の七咲逢だけ段違いに表情が違う
(アマガミSS OP2映像)

もう終わりだ。七咲逢だけ完全に恋する女の顔になっている。目尻と眉毛が下がりダメになった顔。これはどう考えても他のヒロインと差が付いている。現実の人間は恋をするとこのような顔になることがあり、これは頬を赤く染めるといった漫符的表現よりもリアリティーがある。アマガミSS+(アニメ二期)ではさらに大きな絵で見ることが可能だ。

もう終わりだ2(ツー)
(アマガミSS+ OP映像)

二期OPの該当箇所は実際に映像で見た方が良い。ダメになっていく動的瞬間を見ることができる。七咲逢と話す水泳部員との会話までもがクリアに想像できる。素晴らしい映像だ。

これを見ている時の私の感情は『チェンソーマン』レゼ編のデンジになる(より正確に言うと5巻131-132ページ「確定で俺のコト好きじゃん」「俺は俺の事を好きな人が好きだ」「助けてマキマさん 俺この娘好きになっちまう」の箇所である)
ちなみにゲームだと私は会話トピックを外した時などに「んん~~……」と軽く喉を鳴らしたように唸る七咲逢の声が好きでリピートしている。
こうして一通り書いてみると、七咲逢は総合的に本当に優れたヒロインだ。これだけ属性や要素を盛っても散漫にならないし、むしろそれが現実感と魅力を増す力になっている。
最後にラッパーのVaVa氏のインタビュー記事を紹介しておこう。氏は中高を男子校で過ごし、ハーレムアニメを見て満足してしまったら生身の恋愛に進めなくなるんじゃないかと思って怖かった、と言いながらも、アマガミSSにはハマったようで下記のようなコメントをしている。(もちろん氏の一番好きなヒロインは七咲逢である)

VaVa もちろん、『アマガミSS』も男の子の願望が過ぎるというか、付き合ってもいない男女で山奥にある温泉に行く時点でファンタジーだと思うんですけど(笑)、僕は別にそこで醒めることもなく、非常に興奮するというか、盛り上がることができたんですよね……。

――楽しみ方としてはいちばんいいかもしれません。
VaVa 「こういうアニメみたいな女の子はいない」って人は言うかもしれませんが、僕は絶対にいると信じていますね。

Febri - VaVa ③キャラソンの良さを初めて理解した『アマガミSS』

VaVa氏の曲「Sekai feat. Koedawg」のMVは背景でアマガミのゲームやアニメ画面がかなり映り込んでいるし、七咲逢のポスター(?)もある。なにより曲終盤にある「アマガミみたいな人生過ごしたいよ~」というリリックだろう。それはそうや。


大余談

桜井梨穂子と中多紗江の項目がないではないか、上崎裡沙と美也の項目も。申し訳ないが、力尽きた。すでにこの時点で37,000字を超えている。あとは少しダラダラ書いていこう。
梨穂子について。アニメ版は微妙だろとか、ダイエットネタをひたすら擦ることに何の意味があるのか?とか。梨穂子の良さはいきなり「I gotcha」とか言ったりラジオやテクノ歌謡を聞いていたりするところで、要するに一番サブカル臭い人間な部分だ。おまけに加害的でない(他者をイジらない)ユーモアの持ち主で、ドジっ子というか現実にいそうな不思議ちゃん的な感じもある。これらはソエンでアイドルになることで、極めて焦点を結んでくるというか。バラエティ番組で司会にはなれないだろうが、ひな壇タレントとして大袈裟に手を動かしながら変な話をするアイドルとして受け入れられるのが想像できる。(どちらかといえばVtuberや配信者向きの人格かもしれない)こうした点がアニメでは全然出てこない。個人的にはスキGOODのラブレターを書き直す話がグッときて好きだが、これもアニメに採用されていない。
下記の記事の桜井梨穂子(と中多紗江)に関する内容は良かった。

 しかし彼女も、不意にそのレールを外れるのだ。その契機となるのが、橘君が痴漢冤罪(的なこと)で女子に囲まれ糾弾されているのを救う場面である。これまでのノホホンとしたキャラからは想像もできないのだが、梨穂子は果敢にも女子グループに割って入り、辛抱強く誤解を紐解き、なんと誰も悪者にせず場を納めて、橘君を救ってしまう。

 おいおい、梨穂子、おまえはそんなに頭が良かったのか? そんなに機転が利き、社会性があったのか? 早道しようとして金網の穴にひっかかり、「あなたが助けてくれなかったらあそこで一生を終えるところだったよ~~」なんて言っていたおまえが? 梨穂子の新たな一面に、プレイヤーはなんだか落ち着かない気分になってくる。僕が梨穂子を守るのであって、その逆じゃないはずだぞと。さらに追い打ちを掛けるように、橘君が「昔もこんなことがあったな」と梯子を外してくる。この出来事にかくも当惑しているのは、プレイヤーだけなのだ。

 これまで橘君は、梨穂子からどんなに好意を向けられても「でも梨穂子は幼なじみだから」とまともに取り合おうとしなかった。プレイヤーにはそれがもどかしかったし、なんなら理解不能だとすら思っていた。けれどプレイヤーもまた、梨穂子を単なる『幼なじみキャラ』の枠で見ていたし、彼女がその枠から外れそうになったときに拒否反応を憶えてしまうことが、このイベントで突きつけられる。梨穂子をまともに取り合っていないのはプレイヤーも同じだったのだ。

梨穂子編は橘君が『幼なじみ』をひとりの女性として捉え直す話であり、同時にプレイヤーが『キャラ』をひとりの女性として捉え直す話でもあるのだ。

それいがいのはなし - 桜井梨穂子について考えていること

この文章は良い。本当にそうだなと思う。
また、梨穂子ルートは橘との思い出が物体と関連付けられており、橋や公園、ワニのシュナイダー、ラブレター、果ては指輪が出てくる。この点は他のヒロインと異なる点だと感じるし、橋の改修工事について「物は変わっても思い出はなくならない」というような言葉もある。何よりスキBADは本当にアッパレだ。あれはある意味ではヒロイン中で最も大人な、橘純一を遥かに凌駕したエンドだろう。彼女にとってあのクリスマスは思い出のほんの1ページでしかないのである。
中多紗江についても上記と同じ記事を参照しよう。

 中多紗江は下級生で、引っ込み思案で、異性慣れしておらず、箱入り娘で、夢見がちで、とソレっぽい要素をこれでもかと詰め込んだキャラである。いや、少なくとも最初はそうなのだが、ゲームでの彼女はすぐに恐ろしいまでの積極性を発揮して、主人公にぐいぐいと迫ってくる。しかもタチの悪いことに、プレイヤーにはそれが彼女の勘違いに過ぎないことがはっきりとわかるのだ。頬を上気させ、目を潤ませてじっと見つめてくる彼女が、実際には理想の王子様を妄想し、それを橘君に投影しているだけということが手に取るようにわかる。だから彼女からの熱烈なアプローチをただ楽しむことはできなくて、いや冷静になれ、君はのぼせ上がっているだけだ、橘くんはそんないい男ではないぞという気持ちがどうしても湧いてくる。

 このパートの橘君はとりわけ優柔不断で、及び腰で、酷い男のように描写される。だからプレイヤーの中多さんに対する心配はいや増すのだが、これはよくできた脚本だ。橘君は恋愛にトラウマがあり、「今年こそは」と一念発起したとは言え、他者から迫られることには全く慣れていない。だから中多さんからの過分な好意に大いに当惑している。しかし彼のコンプレックスや当惑をプレイヤーがそのまま共有するのは難しい。そこであえて橘君の駄目な側面を強調し、中多さんの恋心に対するプレイヤーの不安を煽る。方向性は違えど、ここで橘君の当惑と、プレイヤーの当惑とがシンクロするのだ。こんなにも迫られるのは不安だ、この恋は危うい、なんなら間違っているという思いがシンクロする。彼女の好意につけ込んでいるような罪悪感、このまま付き合ってもすぐに幻滅されるだろうという不安が共有される。見事な仕掛けである。

それいがいのはなし - 桜井梨穂子について考えていること

この文章はその通りだ。ただゲームのそういう意図は十全に伝わってくるのだが上手く自分にハマらなかった。中多紗江は難しいヒロインだなと思う。彼女には多大なラブロマンスへの憧れがあり、抑圧された性愛とも繋がっている。ただしそうした抑圧の源である父親との関係はそう悪くはなさそうで、彼女は家に対して悪い感情は持っていないようだ。(もちろん映画館エンドはどこか父親を騙したような背徳さがある)
中多紗江のアニメ回は中田譲治のツッコミによってテコ入れされているが、これにもなかなか難しい面があるなあとは思う(悪くはないと思っているが……)まあ、アニメEDは中多紗江が一番良くて、彼女の可愛らしさが良く出ていたと思う。(SDキャラがEDに出てくるのは彼女だけだ)
個人的に中多紗江の教官プレイは『行け!稲中卓球部』の神谷ちよこと井沢ひろみのやり取りを思い起こすし、ソエンにおけるナマモノBLの扱いはなんとなく『げんしけん』の荻上千佳のアレを思い起こす。(そういう形で言及したかったので棚町薫の項で『げんしけん』を出したのもある)(あと荻上千佳の感情的に厳しい場面になるとすぐに窓から飛び降りたり逃げ出したりするところってけっこう七咲逢に通じるところもあるよなとか考えたりしていた)
七咲も中多もそうだが、年下ヒロインということもあるのだろうか、露悪的な男性の欲望がかなり出ている感じが個人的にはある。ソエンの中多もそうだし、七咲の水着盗難エピソードやポケット手突っ込み+他の男子が覗きに来るところとか。オフィシャルコンプリートガイドのインタビュー記事によれば七咲のエピソードはデバッガーから「水着が盗まれるなんて嫌です!こんなのはバグです!」と言われたり、他のスタッフから「男子が覗きに来るなんて嫌です!」と言われたりしたらしく、ある程度修正されている。(当初七咲のポケット手つっこみのイベント絵には覗きに来る他の男子も描かれていたらしい。マジかよ……)このインタビュー記事では、プロデューサーである坂本俊博氏とメインプランナーの高山箕犀氏がどこかそういうのを楽しむ様子が語られているが、これはけっこう難しい塩梅の話だなと感じる。二人はヒロインの生みの親であり、当然「このヒロインを見てくれ!」という男性プレイヤーに向けた気持ちを持っているわけだが、それがゲーム中のリアルにまで半ば反映されているように思う。当然ながらプレイヤーの男性とゲーム中のモブ男性キャラは別物だ。自分の彼女を他の男に見せつけたいという欲望はたしかに存在し、それは正解の一つなのかもしれないが、やはりどこかアマガミにはそぐわない点もある気がする。それは公衆の面前でのキスイベントや、あるいは七咲の目隠し歩行イベントくらいのラインで留まるべきであるような気がする。もちろんこれは私の好みであり、倫理だ。だが、先のデバッガーが言ったような「これはバグです!」はかなり的を得ているように感じる。それは受け手のプレイヤーの感覚であり、私の感覚でもある。ソエンの中多紗江はすでに主人公の手を離れた状態であるから、何をしても自由なのだがしかし感触はちょっと良くないのはたしかだ。どうにも生々しすぎる。だがBL作家になって同人イベントで爆売れ!くらいだったら大人しすぎて印象に残らなかった可能性もあるし、そもそも中多紗江には性愛というテーマがけっこう大きく横たわっているのでああならざるを得なかったのかもしれない。それとヘテロ男性に向けた恋愛SLGであり、10年前のゲームという点もあってか全体的にBLの扱いが少々雑な軽い印象もある。おそらく今アマガミを作ればこういう描き方にならないだろうなという感じもある。(もちろん今も昔もナマモノBLは際どいものであることは事実であると思うが)(BL的なやりとりをする橘と梅原が七咲逢に「気持ち悪い」と断じられる箇所はけっこう激烈な感じがするが、まあ七咲のキャラクターなので一周回って良い感じもある)
アマガミにおいて高山箕犀氏のことをただのイラスト担当だと思っている人はもうあまりいないだろうが、私自身、下記の2冊を読むまで高山氏がいかなる立ち位置だったのかよく分かっていなかった。この2冊のインタビューや対談記事はかなり面白く、高山氏への理解を深めるのに役立つと思う。
もちろんアマガミそのものへの言及もたくさんあり、一番面白かったのは上崎裡沙ルートでは橘と上崎が他のヒロインのイベントマスを取り合う(潰し合う)システムを実装する予定だった、という話だろう。これは単にイベントマスを選択していくゲームから再び脱衣麻雀的なゲームに回帰するというか、ヘクスタイルにイメージされる通りの戦略SLGになるというか、ちょっと不思議な感じだ。ここまでくると明確に上崎はメタ的な存在で、それは絢辻を凌駕する。

もっといろいろ書きたかったのが、一旦ここで終わることにする。いずれ機会があれば補遺的な形で何か書くかもしれないし、書かないかもしれない。それではまた。

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