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ちゃんとする と熱量

ちゃんとすると熱量が消えるのはなぜか

この問いは、別建てて連載しているSFエッセイを書くきっかけとなっている。私にとっての根幹的な問いである。世の中に蔓延している"ちゃんとする"という同質化・同調化圧力に苦しむ人に一緒に考えてほしい問いである。

※挿絵でみんなのフォトギャラリーからお借りしたルリマツリの写真。花言葉である、"ひそやかな情熱"と"いつも明るい"が熱量が消えていく様を表していると思いお借りしました。

ちゃんとする

この5年間、何かを行動する上で常に頭に張り付いていた言葉を一言で表すと、ちゃんとする。なのだろうと思う。

ちゃんとした父親
ちゃんとした夫
ちゃんとした社会人

そのためにいま目の前にある課題を放置できずに、所謂べき論で色んなものに取り組んできたように思う。
上司からはよく力を抜けと言われた。

"ちゃんとする" を目指したお陰で知識は増えたし、きっとそれなりにそこそこできる人としてやれているのだと思う。
実際に、赤字を解消したり、新規事業を構築したり、昇格したり、それなりに評価してもらっている。プライベートも大きな変化を迎えた。

ただ、最近ふと感じるのは、きっとこのままでは"そこそこを"突き抜けることはできないのだろうという焦りだ。

それは、自分自身の熱量を自分が全く興味を持っていないことに流し続けたことで、酸素が回らなくなっていることを自覚しているからだ。

熱量

ここからは少し私自身の内部観測をしてみたいと思う。

まず、人として熱量を持っている状態とは何か、神経科学的にはドーパミンが出ている時と定義しても問題なさそうだ。行動学的には、瞳孔が開く状態(好意の表現系)だろうか。

しかし、ドーパミンが分泌されることも、瞳孔が反射的に広がることも、主だった身体的に健康な人であれば阻害されることは少ないと考えられるが、なぜ酸素が足りないと言った、熱量そのものがなくなったかのような表現が出てきたのだろうか。

単純に考えれば、ドーパミンがでて、瞳孔が開くような興味深い事柄に出会えていない、もしくは、注意が向いていないということだと予測できる。

ここまでくるとある1つの問いが立てられる。

私自身が興味深い事柄に本当に出会えていないか。

そして、この答えも実はすでに決まっている。

出会えている、である。
なぜなら、これまでに出会った興味深いものたちはなくなったわけではないし、そもそもヒトそのものについての興味はのこっている(はず)である。

しかし、現に私は熱量を持つことが非常に難しいと言わざるを得ない状態にあると感じている。
これはどういうことだろうか。

慣れに閉じる目

熱量が失われた状態を示すために、少し例題を挙げていきたいとおもう。

皆さんは、芝生をじっとみていると、芝生の中をちょこちょこ動く小さな虫たちだけが見えるという体験をしたことがあるだろうか。

私は、なんでそう感じるのかが不思議で延々と二時間芝生を見ていたことがある。

この時、注目していただきたいのは、虫だけが見えることではなく、虫以外が見えていない(認知に上がってこない)背景となってくることである。

つまり、慣れは見えているものを認知できなくする機能があると言うことである。これは、人間としては非常に重要な機能で、無限に物事がランダムに変わっていく世界で、情報量を削減するのに大きな役割を果たしている。

これは、視覚以外の分野でも成り立つことが予想されている。

結局のところ、ベキ論で視野を固定し、変化の少ないものを見続けたせいで、慣れによって新しいものを見つけられず、モチベーションが枯渇してきている。

これが酸欠の原因だったのだ。

なぜなら、ちゃんとするは自分で決めることでなく、その時その場所の環境によってちゃんとしてるべき形が決まるため、ある一定の視点でしか物事が見えなくなってしまうからだ。

環境と熱量

熱量は環境によって影響を受ける。この言葉は当たり前のようでいて非常に難しいことである。

なぜなら、環境とは、閉じた系にすることが難しいからである。

例えば、制限した社会性の評価として実際に空間認知の様式が大きく変わるという事でも知られている(*1)。つまり、私たちは、自分たちの意思で動いているようでいて環境に動かされていることのほうが実は多いのではないかということである。

これは、かの有名な監獄実験でも示されていることである。

一方で、ここでの特徴は、二者間で赤、琥珀型のヒエラルキーが明確な組織での関係であり、もしこれが、緑やティールといった多元的な組織(複数の専門性が尊重され上位関係が一意でない)場合は、どうなるのだろうか。

そもそも、ヒトはそこまで単一的なロールを持っているのだろうか。むしろ、環境に対して自分のロールを明確にすることで行動が変わることはないのだろうか。

環境と自己を分割して考えることはしばしば困難である。なぜなら自己も環境の一部であるとともに、環境は自己の観測の結果しか反映できないからである。

熱量貯めるために、酸素を貯める

観測の話にだいぶそれてしまったが、本論の熱量のため方にもどるとする。

これは、あくまで個人的な予測であり、科学的な知見ではないが、自分自身の新しいロールを決め、その行動模範を自分で定義し、それを実行することなのかもしれない。

「左利きのエレン」の佐久間というキャラクターになぞって言えば、主人公属性なのかもしれない。

「アイアンマン」になぞらえれば、"I am Iron man"なのかもしれない。

しかし、大事なことは、ロールを自分で決めることである。

ロールが決まれば報酬が決まる、そして報酬は、種々の行動を起こすうえでの不可欠な内的状態であるモチベーションに直結している

そして、モチベーションは、自身の予測と報酬が一致したときに、脳のなかの腹側線条体と前部帯状皮質を含むループ回路が反応し制御されていると予測されている。

つまり、自分自身のロールを他人が決めるということは、自分自身のモチベーションを他者に預けることと同義なのかもしれない。


私のロール。それは、夫であり、父親であり、社会人でもある。しかし、それだけじゃないはずだ。

ヒトでもあるし、ほ乳類でもあるし、地球人でもあり、宇宙生命体でもある。

私は、私自身のロールを知らない。それはきっと新しい言葉であるはずだからだ。

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