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短篇家集

2年ぶりの公演「短篇家集」が無事に終わり1週間経ちました。健康に気を使っているおかげで普段だったら結構な頻度で起きる揺り戻しのような体調不良には今回はなっておりません。体に気を使うことって大切ですね。

前回は少しナーバスな話をしてしまったのですが、そこも万が一に備える為に仕方なかったことだったかと思います。それほどこの2年間に起きた事が大きかったのです。

さてさて。
僕の中では恒例になりつつある舞台の創作裏話です。
販売してる脚本の後書きに普段書いているようなことなのですが、今回の脚本には公演にたどり着くことへの決意みたいなものが多かったので、ここに書くのはちゃんとした創作背景です笑。

短篇家集はその名の通り短篇集でした。
20分程度の作品を3本。
リスクヘッジの為短篇にしたのはあります。短篇なら、ひとつの作品に出演しているキャストがコロナで倒れたとしても、別な作品は上演出来るなと考えていました。
また、僕自身が主宰公演をする時に費用を沢山掛けてしまうので本数を打てず、作品数が少ないために幾つか作品を作りたかったこと。溜まってきた話のタネを一度形にしておきたかったこと。丁寧に一人一人と関われる少人数芝居が作りたかったことなどがあり、自然と次の公演は短篇集にしようと思っておりました。

家を題材にしたのは、最近の自分の興味が家庭にあったからです。
仲の良い友人や芝居仲間と深い話になると根本に幼少期の環境の影響で今の思考やあり方に至っているなと認識しました。家庭環境だけでなく学校生活、交友関係などでも変化はしますが、特に家庭環境に興味を持ったのは、自分の思考形成が家庭環境の影響が大きかったのもあると思います。親に従うか反発するか、親を愛していたか嫌悪していたか、兄弟姉妹との関係性、叔父叔母祖父祖母など親族からの影響もあります。
なぜ家族なのにこんなにも分かり合えないのかと思った事もありましたし、家族だから仕方ないと思ってしまったこともある。それとは逆に家族で良かったというのも経験しました。ですので家、特に家族というものに興味が湧いたのです。
コロナ禍で家にいる時間が増えたというのもあったかも知れませんが。

《湯を沸かすような》
「湯を沸かすような」を書くにあたり、すれ違いを描こうと思いました。近い存在だからこそ、違ってしまっている部分が良くも悪くもなりうる。違いはお互いの足りない所を埋めることもできるし、逆に違いが2人の溝を痛感させてしまう。理解し合えないのではないか、と。
「湯を沸かすような」の夫婦は生真面目な女性と緩い男性を描いておりまして、最初は男性の緩い部分が女性の緊張の糸を緩めてくれていたのですが、だんだんと男性の緩い部分が気になってしまうようになる。変わらず優しくしてくれているようにも思うけれどちょっとしたことが許せなくなってしまった。そんな描き方をしています。
共に暮らしていくうちに気遣いというものが失われてしまっていく、というのも描いてしまったのでちょっと分かりにくくなってしまいましたが。

《ご挨拶は食事とともに》
「ご挨拶は食事とともに」を書くにあたり、コメディを描きたかったので、わいわいした話を書こうと思いました。自分の実家である浅草の正月のようなわちゃわちゃした感じが好きなので、それを描けないかなと。数年前に兄が結婚した時に送ろうとした親族への挨拶を題材にした落語があり、それを元ネタに、なんか噛み合ってないぞこのやり取りというすれ違いを作っていきました。最後はああなんだ、挨拶の練習だったんだ、と笑い話になるように。そしてさあ送り出すぞというハートウォーミングに持って行こうと。そこでふと、「湯を沸かすような」と繋げられないかと考えました。
あのすれ違ってしまっていた夫婦が楽しい家族を築いた未来を描くのも悪くないなと。
そこで線と点の話、わがままの話などを足していき、2つの話は繋がっていきました。ちなみに販売した脚本では「ご挨拶は夕食とともに」になっています。ミスです。やっちまいました。語呂はこちらの方が好きなのですが、昼公演などもあったので食事とともにに変更したのですが、まんまと忘れておりました。重版する時には直します。

《くつした》
「くつした」という作品は別の方に書いていただきました。
最初は自分が3作品書くつもりだったのですが、ちょうど廣畑さんと脚本の話をしていて、家族をテーマに話を書くと言う時に興味を持っていただけたのでせっかくなら書いてみませんかと。
他人の作品を語るのは無粋なので、演出する際に心がけた点なんかを。
パパ活しているようなミスリードから実は2人は娘と父だったという話なのですが、娘が父を憎んでいる気持ちが大きいか、父を頼りたい気持ちが大きいか。それを読み解く作業を大切にしました。この父への気持ちで物語のラストは大きく変わりました。ありがとうとなるか、なんでこんなこととなるか。
とはいえ今回は実験の場でもあったのでキャスト事にどう思うかを聞き、自分に合う作り方をしてもらいました。そしてその感情が変わって、憎んで作っていたけれど、最終的に変わったとしても良いと思っておりました。
これは短篇なので、その後の物語を描いていないのでどっちに転んでも良いのではないかなと。
自分が脚本をやる時は明確にハッピーエンドで終わる、とかバッドエンドで終わるという締めくくりを意識しているのですが、人の脚本をやるにあたり、特に今回は短篇で、作家も座組にいたのでラストは僕の解釈を入れすぎないようにしようとしていました。とはいえ演じる上で明確な指針が必要そうだった箇所(父が娘の元に訪れた理由や、どちらから連絡したのかなどの共通認識が必要な箇所)は決めていきましたが。父が娘の元を去る際に何を思っているか、などは定めてはいなかったです。役者にお任せしておりましたね。ただ、どういう心境で去る?というのは執拗に聞いたし、変化があったかなどは聞きまくりましたが。
また物語の構造上、大きく感情が動いたり、転換があるわけではなく、じっくりと、そして実はの部分も派手ではなく、あれ、これもしかしたらというさりげない描き方だったので(そういう作品も好きなのですが)少し派手に作る僕の演出では結構苦労しました。
もっと2人の空気感を突き詰める演出を練習しようと思いました。学び。

《総括》
全体としてかなり実験的なことをしていました。
コロナのキャストが出てしまった時対策として、別キャストのセリフも一役分覚えてもらうということをしていたので、稽古日数が少ない中ダブルキャスト式にしてしまいました。僕はダブルキャストは稽古日数は少なくなるし、キャストたちの出番が少なくなるので好きではなかったのですが、今回はどちらも本役という無理を強いてしまいました。本当に役者のみんなには頭が上がりません。全10回の稽古で良くぞあそこまで。
また、キャストごとにキャラクター演出は変えていました。僕は常々、役者の個性に役は寄るものだと思っているので(役に役者が寄るのに限界がある)の物語上、こういう思考であって欲しい、というのは提示しますが、役者のアイデンティティと離れていて、役者の良さを失ってしまうならキャスティングミスだと思っております。作品が全役者が変わらなければならないようなものは別として。
ですので3作品2演出という感じでした。
更に今回、アトリエが日の差し方で見え方が変わって素敵だったので、昼公演と夜公演で舞台の向きを変えるという試みもしていました。おかげで3作品×2キャスト×2面性舞台という、12通りの作品を作ることになってしまいました。10回の稽古では本当に少なすぎて、役の内面に踏み込みきれなかったことが後悔としてあります。
ただ、とても面白い試みになったので、満足しております。

大変長くなってしまいました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

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