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初めて私に病名がついた話

「うん。かなざわさん、あなた双極性障害ですね。」

初めて私に双極性障害と病名が付いたのは、一時的に通った、駅から少し外れにある小さな心療内科である。
それまで通っていた大きな心療内科の先生が何も言ってくれなかった(後に発達障害とか診断された)ことを、この先生はバッサリと切り捨て、初めて親身になってくださった先生だった。
曰く「カウンセリングだけ受けてたの?そんなんで良くなるわけないよ(笑)」と言われ「そうだよなあ」と不思議と腑に落ちた。

病名がついた時、突然宇宙に放り出されたような気分になった。
そして、今までしてきた私の行動は、その診断を受けた人達も、同じく体験してきた事なのだ。と、謎の安堵感があった。
「私だけじゃない、他にも似たような症状で苦しんでる人がいる」そう思うと少しほっとした。
「話してくれてありがとう、よく今まで頑張りましたね」
先生にそう言われて目から鱗が落ちる代わりに、不思議と涙がポツリと落ちた。

子供の頃からどこか周りに馴染めなくて、気が付いたら孤立してて、2人組を組んだら必ず余るような人間。それが私。
一時的に友達が出来てもすぐに退学して離れていった。結局親の言われるままに行きたくもない県立高校を受けて通っただけなのに子育てに失敗したような口振りをされて。専門学校に通う為にお金を貯めようとしたら家賃まで徴収され始めもう何のために生きてるか次第に分からなくなっていって。
もうこの頃から少しずつ絵への情熱はほぼ無かった。この頃の親からすれば夢なんて追うな、現実を見ろと言いたかったのだろう。多分娘の将来を心配しての事だったのだろうけど、娘の私からすれば夢くらい見せて欲しかった
もう諦めたからどうでもいいけど。

対等だと思って付き合っていた(嘘、一方的に依存していた)当時の彼には「成人式に出ていない」などと言うしょうもない理由で見下されていた事が判明して、ハローワークの人に言われるがままパソコンの学校に通っていたが正直学びたいことは何一つ無かった。
ただでさえ学校が苦手だった陰キャに20歳すぎてまた同じ苦痛を味わされたのは本当に屈辱だった。なんか卒業したら履歴書に経歴として書けるらしいけど、もう大半以上は忘れた。

初めてこの診断を貰って、もうかれこれ3年以上になる。その先生とは訳あって袂を別ったが(漢方万歳!は良いけど一度に飲める量にしてください)、今は転院先の心療内科で自立支援と手帳の存在を取得し(前の大きな病院では自立支援も一言も教えてくれなかった、あのクソメガネ)、ヘルプマークを付け、市から支援をしてもらって、そうして何とか周りに馴染めるように生きている。
私は鬱に縋って生きていたくない。
出来れば来年には眠剤を飲まずに眠りたい。ちゃんと目を覚ましたい。
時々無性にムシャクシャして自暴自棄になる事もあるけど、グッと直前で堪えている。それも治していきたい。
「絶対寛解出来るよ」と言ってくれる人がいるから、寛解したい。

Q.「夏に野球観戦行ってるじゃん」
A.夏だから行けた。(軽躁状態は夏場に出ることが多い)軽躁だと不思議と気が大きくなり普段出来ないことが出来る(電車で遠出など)ので、歯止めが効かないためこの時期がいちばん怖い。(秋口辺りに冷静になるとめちゃくちゃ金使ってたりしてるのが特に)

Q.「寛容て何?完治出来ないの?」
A.そもそも鬱病と違って完治という考え方がない。何故なら精神科全般を通して言えるけど放置して治る病気ではないから。あと仮に完治しても再発率が異様に高い。
だから早期に発見して正しい治療を行えば病状や気分をコントロールできる。これが普通の状態に出来ることが寛容。
逆を言えばなったら一生付き合っていくしかない。

Q.「抑鬱で辛いことは?」
過食と過眠、他人に対して攻撃的になりやすい。寝る直前に嫌なこと出来なかったことなど過ぎたことを思い出して泣きながら寝たりするのがいちばん辛い。

Q.「自殺願望とか出た?」
抑鬱がやばい時希死念慮出ました。自殺したい気はこれっぽちもなくただひたすらに死にたいと思って過ごしていた。

Q.「鬱は甘え!精神が弛んでるから云々」
A.うるせえバカ👆(・_・)👎💢私と同じステージに立ってから言えやタコ。

Q.「うつヌケ読んだ?」
A.オーケン目当てで読んだけど渦中だからかあんまり響かなかった。でも同じ双極性の人の記事はすごく共感出来た。ていうかまだうつヌケ出来てないから。

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