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カマンベールを齧る

 急に肺の出入り口が狭くなったようだ。胸が痛い。

 数日前、大事な人が高熱を出した。離れて住んでいるから簡単に行くことが出来なくて、唯一の連絡手段が携帯。生きているか確認するにも、寝ている呼吸をきこうにもきけるわけもなく、相手の返信が無いとわからない。
 あまり過去と比較するのはよくないと分かっているけれど、どうしても脳が連想してしまう。私の大事な人はいつも生死をさまよわなければいけないのか?その場面に向き合うこと、その人をひとりにしないことが私の使命なのか?私は相手がどうなろうと逃げたりはしないけれど、そうならないに越したことは無い。
 もう気付けば3年前ぐらいになるけれど、当時一緒にいた人が大きな手術が控えていることを教えてくれた。毎日「いつも通り」に過ごしていたけれど、やっぱり心の中からその日が来ることは消えていなくて、もしかしたら数か月後に数日後にいなくなってしまう人と過ごす一瞬一瞬は大変なぐらい大事にしなきゃと思っていた。
 本当は見えていても見えていなくてもリミットは迫っているかもしれなくて、毎日を毎時間を大事に過ごさなければいけないんだ。頭を開ける手術をしなければいけない瞬間に2回立ち会った私には、一瞬一瞬のかけがえのなさがすごく大きなものとして刻まれた。
 生きる死ぬということについてはそれぞれがいろいろな過去を背負っているから誰がどうとか言えることでもないし、どちらが重いとか軽いとかそんなことではかれないんだけど、でもきっとそれぞれ何か心が経験から何かを覚えているんだと思う。
 …だから、(間に文章をはさみすぎた、1段落目の続きです)この人が目の前からいなくなっちゃうんじゃないかとフラッシュバックしたのだ。最悪のことが起こる前に、お話ができている間に、私ができることはなんでもやる、その気持ちが先行しすぎた。相手にこうしようかああしようか、こうしてくれああしてくれと言いすぎた。言い過ぎたって思っているけど、同時に言わずにはいられなかったとも思う。相手は「大丈夫」しかいってくれなくて、何も話してくれないのも悲しくなった。こうしてほしいってエゴでしかないのに。しかもこの悲しいという感情が過去の心回路に電気を流し、なんだかすごく大変なことが起こってしまったぐらい病んだ心になってしまった。

 やはり心は胸にあるのかなあと思う。病んだとき、傷ついたとき、私は胸が痛い。呼吸が苦しい。

 昨夜はまるごとホールのカマンベールを買ってきた。大きな物体を素手で掴んで食べる、ということへの憧れが最近あって、いちばんやってみたいのはショートケーキ。硬いフォークをさしてしまうけれど、掴んでみると思ったよりやわらかいそうだ。でも今は糖分はいらない。そこで数日前にみたカマンベールを思い出した。真ん中のやわらかさが手で持ったらどう感じるのか興味があった。実際に持ってみたカマンベールは外の壁が厚く、ゾウほどのたくましさを感じた。齧るとゆっくりもたれる。ああ、今の心のようだ、と思った。いっぱい壁を作って固めてるけど中身はこんなにもどろどろでさらさらもせずねっとりと粘りついている。甘くもしょっぱくもない味すらもリアリティがあった。


 昨夜は涙を流しながら寝た。今朝はずっと脳に音楽を流し込み、感覚があるようなないような状態でいつものように電車に乗っている。だいじょうぶ、私。生活できてる。

 

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