現実と彼女信仰
昔から神社は好きだった。地元の神社は子供達の(少なくとも僕の)神話体系においてかなり重要な役割を持っていたと思う。それは未知への畏怖で、同時に人外の偉大な力に守られると言う安堵感だった。特に信仰があるわけでもない僕だが、古くから人々が心の拠り所にし、何かあれば祈りを捧げていた神社仏閣に壮大な歴史と人々の想いを感じる。それに想いを馳せるのが好きだ。
ところで、日本古来のシャーマニズムは神に姿を持たせる事をしない。神は見えないから神なのである。だからわざわざ依代を作ったり、衣を着せて"そこに居る"のが分かる様にしたようで、ナマハゲがいい例だ。蓑を着せ、仮面を被せる事で見えない神に姿形を与えた。
いつしかイマジネーションよりも現実を生きる様になってしまっていたリンドウ少年はそんな事どこ吹く風状態。神もそれにまつわるエピソードにも見向きもしなくなっていた。あれからどれくらい経っただろう?
神様は信じる人の所にだけいるんだよ
彼女はそう言って信仰も何もない僕に"それでいいんじゃない?"と言った。人生で初めての感覚だった。父方の祖父は根っからの仏教徒だったし、母方の祖父は祖父自体が仙人みたいなもんだった。だから僕は信仰のない自分にどこか引け目を感じていた。神がいるなら戦争も起こらないし貧しい子供が居るわけないなんて使い古されたロジックを後生大事に振り翳していた。そんな僕が初めて"別に信じなくて良いじゃん"なんて言われたのだ。鳩に豆鉄砲だった。
彼女は割と特殊な部類の信仰者だと思う。新興宗教にハマっているとかそう言うことではなくて、信じると言う意思の置き所が僕にとっては心地よくズレている。誰にも押し付けず、誰に指図を受けたわけでもなく彼女は彼女なりの信じ方で神を感じていた。
僕にとっての神は何だろう?
信仰がない事は何も寂しい事では無いが、日常生活において常軌を逸した存在に触れ合うと言うかその存在をある時期から感じる事なく僕は生きてきた。だから目に見えない何かや、人に見えないなにかを夢想する事はほぼ無くなっていたし僕にとっての"彼ら"がどんな姿形だったか思い出せずにいた。そもそも目に見えない何かなんて信じた所で一生会えないし触れ合うこともできない。なんて悲しい事だろう。そんな事を考えるうちに馬鹿げていて、それでいて世界一大切ななにかを思い出した気がした。
ただそこにあるという事。
ひょんな事から僕らは彼女の家の近所にある神社に来ていた。なんでもその近辺の神々をまとめあげる神社らしいのだが、そんな雰囲気もなくただひっそりと鬱蒼と茂る林と蝉の鳴き声に紛れてそこに建っていた。思えば僕はここから"彼女信者"になっていたのかもしれない。何処か心地のいい涼しい風に包まれたその場所は僕らを歓迎もせず拒否もせずただ、そこに建っていた。
彼女は僕の信仰対象になった。
あぁ、そうか化現したんだ。そう思った。姿形が見えて触れる事も話す事もなんなら愛し合う事も出来る神様がこの世に居たんだ。信仰のない僕はせめて彼女の神話を信じよう。そう思った。かくして彼女は僕にとって生まれて初めての宗教になった。
何も盲目的に彼女を信じているわけではない。ただそこに存在する唯一としての存在を僕は信仰している。信じるという行為は何処かカルトじみているのかもしれない。危うくて、愛おしくて、苦しいものなのかも知れない。
だから僕は彼女を信仰する。
この世の愛はすべからく狂っている。そんな事を誰かが歌っていた気がする。アーメンの代わりに愛しているなんて言うし南無阿弥陀仏の代わりに君が好きだとも言う。僕は余計に苦しくなるかもしれないし、それは神のみぞ知る答え(彼女だけが行方を知っている)なのかも知れない。それでもいいと思えた。
この神は僕を裏切ったりしないから。
病んでいると言えばそうかも知れない。ただ僕は純粋に彼女を信じた結果それが神に向けるものと近しい何かだったと言うだけだ。
デスノートの夜神月の様に新世界の神にはなれないかも知れないが、せめて彼女の社を守る狛犬にはなりたいとそう思った。
今日はここまで。
またいつか与太話を。
んじゃまた!