★ヤンチョー・ミクローシュ『ハンガリア狂詩曲』と『アレグロ・バルバロ』を語る
以下に掲載する文章は、1979年2月14日にブダペストでなされ、フランスの映画雑誌『ポジティフ』の同年5月号に掲載されたインタビューから、奥村昭夫氏が抄訳し1982年のハンガリー映画祭パンフレットに掲載されたものである。
ーーーあなたはこの2本の映画で、歴史の再構成とも言うべきことをされているわけですが、でも一方ではまた、この2本の映画が、歴史上のある人物といくつかの出来事をもとにしてつくられていることも事実です。その人物と出来事について語ってください。
ヤンチョー:その人物はバイチ=ジリンスキ・エンドレという名で、ある小貴族の息子です。彼は第一次世界大戦の前の1911年にーーー彼が二十一歳か二十二歳のころですーーー弟と一緒に農民党の指導者を殺しました。そして大戦中は、騎兵隊長として大いに人気を博し、一種の英雄になります。ついで評議会共和国の崩壊(1919年)のあとは、ホルティの側につき、反革命派の首謀者になります。でも20年代以降、ブルジョワ党の指導者の一人や、ゲンベシュという名の極右の若い軍人をはじめ、かつての友人たちから少しずつ遠ざかるようになります。といっても、それはほんの少しずつのことです。この人物には大いに感動的なものがあるのです。彼はそのあと、ドイツの敵になります。ナチスやヒトラーの敵であるだけでなく、まさに反ドイツになるのです。そして対外独立と貧農擁護をめざす政策を説きはじめ、急進的な大衆政党を創設します。生涯の終わりの彼は、真の意味での共産主義の友とは言えませんが、共産主義者たちを支持したとは言えます。1944年にドイツ軍がハンガリーを占領すると、彼はレジスタンスの指導者の一人になります。そしてその彼を、ハンガリーのナチスが44年のクリスマスにしばり首にするのです。一方、彼の弟はどうだったかと言うと、そのハンガリーのナチスの本物の党員だったのです。要するに、彼はきわめて感銘深い人物なのです。彼は1911年に農民運動のリーダーの一人を殺したわけですが、三十年後の生涯の終わりには、その同じ農民運動の議長になっているのです。これが実在のバイチ=ジリンスキ・エンドレの歴史です。
それに対し、われわれの映画のなかの歴史は、想像された歴史です。歴史家によって書かれた歴史じゃありません。たとえば、(『アレグロ・バルバロ』のなかの)首相のヘーデルヴァーリ・カーロイという人物は、歴史上の人物に忠実にこしらえられたわけじゃありません。名前は歴史上の人物のものであっても、2、3人のモデルをもとにしてこしらえられているのです。
ーーー最初から三部作としてつくるつもりだったのですか?
ヤンチョー:そうじゃありません。はじめはごく普通の一本の映画として考えていました。でもこの物語は、一本の映画で語るのには長すぎます。それに私は、フラッシュバックが入ったりする、月並な編集による映画をつくりたくはありません。そこで、脚本のヘルナーディ・ジュラと一緒に三本の映画としてつくることに決めました。私がこれほど長い時間経過をもった物語をとりあつかうのははじめてのことです。われわれはその後、主人公を戦争から生き残らせることにしました。これから撮ることになっている第三部は、スターリニズムの時代を背景としてつくられるのです……
ーーーひとりの人物を追いつづける映画をつくるのは、あなたとしてはこれがはじめてじゃないでしょうか?しかもここでは、ひとつの人生全体が描き出されています。
ヤンチョー:『カンタータ』で、一人の人物を心理の側面も加えてつくりあげたことがありますが・・・われわれはバイチ=ジリンスキの生涯のなかには、変化の契機なり鍵なりを見つけることができなかったのですが、でも映画では、その契機をはっきりと示す必要があります。彼の実際の進化は、おそらくは十年間かけてなされたのでしょうが、でもそれでは、スペクタクル的なものにはなりません。そこでわれわれは、ウード・キーアのモノローグを通して、主人公の進化をコメントすることにしました。一種の精神医学的分析を加えたわけです。あれはたぶん、いくらかわざとらしいものにうつるでしょうが、でもわれわれには、主人公のなかではいったいなにがおこっているのか、なぜあれほどまでに、自分が暗殺した男の息子に会いたがるのかということについての説明が必要だと思えたのです。でもほかには、どんな説明もありません。
ーーーこの二本の映画には幻想の次元とも言うべきものがあって、しかもその度合は次第に濃くなってゆきます。『赤い聖歌』にもすでに、いったん死んだ人々がまた立ち上がるという非現実的なシーンがありましたが、あなたはなぜ、こうした幻想の次元を求めるのでしょう?
ヤンチョー:それはたぶん、大きな誤りなのでしょう。今ではだれも、こうした想像的なものを好きになろうとしません。われわれは今、小さなリアリズムの勝利の時代にいるのです。より《リアル》なものである、テレビの勝利の時代にいるのです。われわれは『赤い聖歌』を。純粋に幻想の映画としてつくりました。それに対し、『アレグロ・バルバロ』では、これは想像の世界だということを明らかにする必要がありました。この映画は、トリックというものが含まれていない『赤い聖歌』と比べると、より優雅さに欠けるわけです。この映画のラストで(冒頭で登場させた)赤い自動車をまた登場させたのは、観客を手助けするためのトリックなのです。それにまた、想像の映画というのは金がかかります。私は自分の映画を心底からは好きじゃありません。あまりに貧相だからです。自分がつくりたいと思っていたものと一致したためしがないのです。かりに私の映画の予算とフェリーニの映画の予算を比べるとすると……
ーーーあなたの最近の映画はどれも、歴史上の素材によって生気を与えられているわけで、だから、すべてが想像だとは言えません。われわれがあなたの映画に夢中になるのは、そこに、歴史上の素材や社会の分析からフォルムへの移行があるからです。
ヤンチョー:それに答えるのは私には難しいことです。それについてはヘルナーディともよく話しあいます。それに、われわれはすでにかなり年をとっていて、だからよく、自分たちがかつてつくったものを調べなおしたりします。われわれはなぜ、実際の歴史のかたわらで、それとは別の歴史をつくりあげたのか?というわけです。われわれはひとつの哲学的な公式を発見しました。歴史などというものは存在しないというのがそれです。(……)ある歴史上の事実を自分自身の目で見たわけではない場合は、あるいはまた、その歴史上の事実に立ち会った人がいない場合は、われわれはその歴史上の事実を、別の形で展開させて想像することができるのです。だから、書かれた歴史などというものは存在しないのです。
ご存知のように、我々の国ではスターリンの時代に歴史の歪曲ということがなされました。歴史の歪曲というのは存在するのです。だからわれわれは、歴史を想像する権利もまた要求するわけです……われわれのテーゼは、われわれは真の歴史をつくり出しているというものです。私は今、ロンドンの切り裂きジャックについてのスペクタクルを舞台にかけようとしているのですが、私が確信するところでは、切り裂きジャックというのはじつはイギリスの皇太子だったのです!だれもが、こうしたきわめてるベクタクル的な出来事をつかって遊ぶことができるのです。
私は今自分が年とっと感じはじめているのですが、だからよく、私がラーコシ時代(1948年~56年)につくった記録映画をふりかえります。われわれは当時は、にせの記録映画をつくっていました。あれは嘘で塗りかためられた時代です。人生というのは美しいものだとか、ハンガリーでの人生は世界のほかのどこの人生よりも美しいとかということを示す必要がありました。それにまた、守らなければならない規則がひとつありました。リアリズムの方法をとっているふりをしなければならなかったのです。私がリアリズムを好きじゃないのはそのためです。おわかりのように、リアリスティックなスタイルをつかってひどい嘘をつくこともできるのです。
(……)私は当時はいつも、リアリスティックな映画をつくろうとしないといってーーーつまり、リアリスティックかつ嘘つき的な映画をつくろうとしないといってーーー非難されていました。私はいつも、《おまえは嘘をついている。なぜなら、おまえのスタイルは嘘つきのスタイルだからだ》と言われていたのです。
ーーー歴史についての仕事はまた、フォルムについての仕事でもあるわけですが、あなたがきわめて長いカットのなかに、歴史上の素材なり歴史に関する想像なりを注ぎこむと、そこから、仕種やオブジェや象徴が見えてきます。
ヤンチョー:それについてしゃべるのは私にはつらいことです。私の映画は歴史の分析じゃありません。私は今でもまだ、スターリンの時代のときのように、ひとからよく、《おまえはいまだに嘘つきだ。おまえはハンガリーの歴史を深く分析していない。おまえは神話や伝説をこしらえようとしている》と言われます。われわれの歴史は分析するのが難しいのです。労働者の運動の歴史というのは、巨大ななにかなのです……分析したいとは思うのですが、でもきわめて難しいのです。(……)私はよく、これまでのとは違った主題をこれまでのとは違ったやり方でとりあげようとするのですが、それにとりかかろうとすると、カメラマンのケンデ・ヤーノシェに、《君は本心からは、これまでのと違った映画をつくりたいとは考えていないのさ》と言われてしまいます……私はいつも不安を感じています。私には自分をかえるこの不安は、私の人生全体にも重くのしかかっています。
ーーーこの2本の映画には音楽からとったタイトルがつけられているわけですが、このことにはどんな意味があるのでしょう?それにまた、バルトークの『アレグロ・バルバロ』をつかったのはどういう理由からですか?
ヤンチョー:バルトークをつかうことは撮影が終わってから思いつきました……いや、そうじゃなくて、すでにシナリオに書いてありました。それにバルトークの『アレグロ・バルバロ』は、『わが道』と『エレクトラのために』にも入っています。
ーーー同じ曲をなぜ三度もつかったのですか?
ヤンチョー:あれはきわめて映画的な音楽です。それに、中央ヨーロッパの雰囲気をーーー正確にはハンガリーの雰囲気ではないにしてもーーー含みもっています。いずれにしても、西欧の音楽に感じるのとは違ったものが感じられます。それにまた、あれはバルトークのほかのどの曲にも似ていません。
私はほとんどいつも、自分の映画に入れる音楽を、撮影にとりかかる前に選びます。ついで撮影期間中に、ほかのいろんなものをとり入れてゆきます。(……)私の映画の音楽は伴奏音楽じゃありません。映画のなかで生きているのです。ドラマツルギー上の意味をになった、映画の構成要素なのです。映画の本質をなしてはいないにしても、映画の最前線に立っているのです。
ーーー『沈黙と叫び』や『赤と白』のようなあなたのかつての映画では、抑圧や抑圧の不条理さというテーマが19より明確にうち出されていました。でもそのあとのあなたの映画には、ユートピアへの漸進的移行とも言うべきものが認められます。
ヤンチョー:この2本の新作がおそらく、ユートピアの終焉ということになるでしょう。私は今ではもう、ユートピアを信じていません。この2本の新作では、ユートピアは『赤い聖歌』ほどには見られないのです。『赤い聖歌』はより素朴で、しかもある意味では、より誠実な映画です。あれは民芸調の映画なのです。それに対し、この2本の新作はより構成された映画です。もっとも、その構成がはっきりした形をとるようになったのは、かなりあとになってからです。そして私は、『ハンガリア狂詩曲」を二度終わらせることにしました。この映画にはラストが二つあるのです。最初のラストは、なぐりあいのあとの、スローモーションによるチェルハルミ・ジェルジュのクロースアップですが、3・4カ月たってから、最後の晩餐の大シークエンスもまた、この映画のラストになると考えたのです。素朴な芸術であるということは貧しい芸術でもあるということです。芸術は誠実であるためには、貧しくなければなりません。『アレグロ・バルバロ』のラストは、まさにユートピアの終場です。あそこまでくると、あの映画が一篇の幻想であったことがわかります。ということは、人生というのはああしたものではないということです。現実というものがあって、ユートピアは崩れ落ちるのです。
ーーーでもユートピアは未来を予告します。未来はつねに存在するのです。
ヤンチョー:そうですか?じゃあ水素爆弾は?……
ーーーあなたの映画では儀式が大きなスペースを占めています。
ヤンチョー:『そうさ、うまくいくさ』からのことです。もっとも、あの映画はまだ現実的な映画で、実際の歴史との間に対応関係をもっていました。
ーーーあなたの演劇体験はこれらの映画に影響を与えましたか?
ヤンチョー:与えていません。むしろ逆です。私は『そうさ、うまくいくさ』をもとにして演劇的スペクタクルをつくったことがありますが、でもそれは、映画をつくった三年後のことです。それにまた、『赤い聖歌』のあとでも一本つくりました。私はよく、空間を演劇的につかっていると言われます。でも自分ではそうは考えていません。私は人物にごく普通の動きをさせたり、事物をリアリスティックなやり方でつかったりするのが嫌いなのです。
ーーーあなたの映画では、聖なるものについての感覚や事物の聖性化さえ感じられます。
ヤンチョー:いや、そんなはずはありません。たしかに、私はかつてはカトリックでしたが、でも深く信じていたわけじゃないし……正確には、私がフォルムをさがし求めているのではなく、フォルムの方が私のところにやってくるのです。なぜなら、そうしたフォルムはスペクタクル的なものだからです。(……)私にはときどき、自分のつくりごとやトリックが恥ずかしくなることがあります。そしてそれと同時に、われわれには現実の生活を描き出したり分析したりすることはできないのではないか、映画はそうしたことに適した手段ではないのではないかと感じられてきます。私は長いあいだゴダールの熱心な読者だったのですがーーー観客だったとは言わずに読者だったと言っておきますーーー、その結果として、映画は社会を深く分析するための手段にはならないということを理解しました。書かれた社会学というのは映画とは別のものだし、そうした社会学を映画に翻訳することは不可能です。映画のいうのは貧弱で原始的な手段なのです。そしておそらく、だからこそ、ハリウッド的な機構があいかわらずのさばっているのです。ハリウッド的な機構は、映画の深部の本性にいつまでも忠実なのです。私は映画をつくりはじめたとき、ほかの手段はあきらめることにしました。でも今になって、映画という手段をつかっていたのでは、自分が表現したいと思っていたこそのすべてを表現することはできないということがわかってきたのです。
私がこの二本の映画で描き出した社会は、私が子供のときに知った社会ほど、豊かでも興味深くもありません。この二本の映画にはいくつかの事柄が欠けています。そしてこのことが、私を大いに苛立たせるのです。大小の貴族たちのこの社会は、当時はまだ、生き生きとしていたのです。
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