20221109

 雲の多い空模様だったが、過ごしやすい気候だった。紅葉も銀杏も色づいて、落葉は側溝に積もって秋らしい景色になっている。もう立冬も過ぎ、暦上は冬だが暖かい。いつまで続くだろうか、希少な時間な気がするので、できるだけ外で過ごしたくなる。昨日は月蝕で公園でも月を眺めたり、カメラのレンズを夜空に向けている人たちがいた。今日は雲が多かったので、月蝕が昨日で良かったと思う。それも地域によってもちろん違うのではあるが。次は四〇年後らしい。おそらく、わたしはこの世にいないだろう。少なくとも両親にとっては生涯で最後の機会になったのではないか、そんな話もしてはいないが。終活について少し話をした。彼らは納骨堂でいいと言う。「墓守は大変よ」と母は言った。確かにそうだろう。母は祖母の入院でけっこう覚悟を決めているな、わたしは東京に戻ってそう気づいた。黒のスーツを買ったから、とわたしに着せて裾合わせも抜かりなかった。だが、第八波はもう始まっているとも言われている。伊の哲学者ジョルジオ・アガンベンは、「死者の権利」が「生存」の名のもとに踏みにじられていると、コロナ禍において、独自の論を展開して物議を醸した。いま、彼らの論理がそのままわたしの家族にのしかかっている。わたしはこのまま祖母と生前に会うことができなければ、コロナ禍を憎むだろう。それは母とて同じ、いやそれ以上の複雑な感情があるはずだ。そして、これはこの二年で世界中で起こったことだ。「ウィズ・コロナ」と言うのならば、アガンベンが提議した死者の権利について、弔うということについてきちんと議論をしなければならない。親の死に目に会えない、と夜の爪切りが忌避されてきた、この日本でも親や大事な人との死に際、その迎え方について議論することも必要な時期に来ているのではないか。

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