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角田房子『いっさい夢にござ候』~本間雅晴-戦時の正しさの葛藤~

2019年5月1日に令和になってから、早くも1年が経ちました。意識せずとも時間は過ぎていき、1年、2年、3年なんて言うのは、新しい時代であってもあっという間に刻まれていくのだと思います。

最近の世間はコロナでもちきりです。中国武漢が発信源だなんて説もありますが、いつの間にかにアジア全体が、そして世界全体がコロナの猛威に襲われています。そんな雰囲気をみて、究極的な論理の飛躍かもしれないですが、戦争下の世界も似たようなものなのかな、と想いを馳せたのでした。

GWのこの有り余る時間、正確にはもう少し前から時間は持て余していたのですが、大戦時のyoutube動画、wikipediaなどをサーフィンしている中で「本間雅晴」というB級戦犯の男に出会い、この人物に大きな感銘を受けました。今回、その書籍と共にこの人物についてご紹介したいと思います。

B級戦犯「本間雅晴」という男

本間 雅晴(ほんま まさはる、1887年(明治20年)11月27日 - 1946年(昭和21年)4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従三位勲一等。陸士19期、陸大27期恩賜。 太平洋戦争(大東亜戦争)においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは米軍にも知られているものの、戦後はバターン死の行進における部下の行為の責任を問われて銃殺刑に処された。

本間雅晴は新潟・佐渡の生まれで、その後、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、陸軍に入隊します。大学校を優等で卒業したというから、今でいうエリート官僚のような人なのだと思う。

最終階級は陸軍中将。戦後、フィリピンにおけるバターン死の行進の責を問われ、マニラの裁判で死刑宣告を受け、そののち銃殺されています。

「B級戦犯として処された男」

これだけであれば興味関心を惹かれることはありませんでした。ああ、そういう系の人ね、と。ただ彼のエピソード↓
・「焼くな、殺すな、奪うな」という軍律を徹底していた、
・ロンドンへの駐在経験があった、
・首尾一貫して平和を切に願う男で、そして涙もろい男だった、
をみて、大戦下の人間に対する固定観念とのギャップを感じました。そして、無性にこの人物について知りたい、そしてどうしてそのような男が刑に処されたのか知りたい。と思ったのでした。

雅晴はマッカーサーの逆恨みで死んだ

結論から言うと、マッカーサーの逆恨みで処刑されました。

フィリピンを愛してやまないマッカーサーを、太平洋進軍の過程で比国から追いやった結果、マ氏のプライドをひどく傷つけたようです。この逆恨みにより、戦後、本間は死刑という結論ありきのマニラ裁判にかけられ、死んだようです。
もともと比国は米国の統治下で、マ氏は父の時代から2代にわたってここを治めていました。これを日本軍の行軍により奪われてしまいました。この時の比国行軍の指揮官が本間だったというわけです。

裁判においては、「バターン死の行進」を筆頭に、米比に対する残虐な行為を証拠とされたわけですが、戦争という特殊状況下、現地の兵糧事情、組織における指揮系統のマヒなどを鑑みればやむを得ない事情あれど、いずれの事象に関しても本間の指示によるものとして、すべての責を背負うことになったわけですね...。

バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語: Martsa ng Kamatayan sa Bataan、英語: Bataan Death March)とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍の捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡したとされる行進のことを言う。全長は120kmで、もともとはその半分弱は鉄道とトラックで運ばれる予定であったが、計画を立てた当初の捕虜の予想数と、実際の捕虜の数に多く違いがあり、結局100kmを超える距離を難民と捕虜は歩かせられた。

彼は泣き虫で腰抜けでした

戦争下の将軍は責任を負うのは当然でしょ。

そう思う人が多くいるのは想像に難くありませんが、彼の人間性を知ると、やはり刑に処されるべきではなかったと思ってしまうわけです。

彼は泣き虫でした

ロンドン駐在時代、当時の妻に浮気され大泣きして酒をあおり、挙句自殺を図りました。戦場に転がる味方に出会うたび、屍に手を合わせ心を痛めました。マニラ裁判で、夫の無罪潔白のため駆け付けた妻・富士子の言葉を聞いて、肩を震わせて嗚咽しました。

軍内部からは腰抜けと評されていました

精神論(時に非現実的な暴論ともなりうる)が行き交う軍内部において、それに惑わされない客観視・合理性を重視したこと(これはまた、欧米的・親英的と非難された)。

大東亜戦争に勝つ、という大目的のもと、好戦的軍幹部が大勢いる中、いち早い終戦の必要性を説き、3度にわたり和平工作を試みたこと。

一度は制圧したマニラにおいて、圧政は行わず比人の文化を尊重する軍政を敷いたこと。

戦時下の日本を取り巻く環境において、死を異常に美化された世界においては、こうした行動が非難の対象になっていたであろうことは想像に難くありません。(東条英機とは互いに敵対していた関係性であったともいいます)

戦時下における「正しさ」「強さ」とは

確かに人間として優しすぎるがゆえにそれが時に「弱さ」として出現したこともあったろうと思います。しかし一方で、戦時下という環境においても生涯を通じて貫き通された意思、彼の考える「正しさ」を曲げない強さ、とも捉えられるように感じます。そして結局それは「家族への愛」「不要な死への嫌悪」「敵国であったとしても尊敬の意を表する姿勢」という人間として大切なものでした。

神風特攻に代表される今となれば異常ともとれる作戦が正当戦法として認められる状況において、この一貫性を保つことがどれほど難儀であったか。併合するほうが易いことだったのではないか。このように思うと、彼に対する当時の評価について再考させられます。

弱虫・泣き虫の雅晴は処刑されるべきであったか

こうした本間という人となりを知れば知るほど、彼が死刑に処されることとなったいくつもの罪状について、直接的に指示したとは考え難いのです。
むしろ、彼の関知する範疇にてそのような動作が起こり得ようとしていたのであるならば、必ずそれを阻止する動きをしたに違いないからです。

しかし、前線において生きるか死ぬかの日々を過ごしている兵士の心理的状況に想いを巡らせれば、ふとした拍子に感情的になり、人を殺めるという行為に及んでしまう可能性を完全に否定することは難しく、
また、末端の兵士の一挙手一投足まで比国行軍の責任者である本間が完全に関知することが現実的に不可能であることも事実としてあったのであろうと思います。

結果的に彼は、指示したという事実は無いながら、一方で現実として戦闘中に起こした軍の不祥事に関する責を一身に受けるということに、受刑の意義を見出し、1946年4月3日に、先に散った同胞が多く眠るマニラの地にて生涯を終えることとなりました。

読了後に思ったこと

正しさを貫く」ということが、その環境下において必ずしも評価されないことへのもどかしさ。もっと日の当たるところに本間がいたのであれば、日本のたどる道は違ったほうであったかもしれないと思います。
一方で、これは敗戦という事実ありきでの「正しさ」であり、仮に戦勝国となっていたら彼の考える「正しさ」など評価に値しないようなものだったかもしれない、とも思いました。

いずれの場合であっても、彼のどこか冷めたように見える時もある客観性・合理性は、何かに世間が狂しているときにこそ、必要な目線なのだろうと感じます。
また、それを貫徹する意思、他に耳を傾けつつも惑わされない強さは信頼に値するものでした。なにより、人としての弱さを惜しげもなくさらす姿にもひどく共感しました。

時代は変わり、戦争なぞ野蛮な国での茶番劇、のような感覚である令和時代であったとしても、3四半世紀前に死んだ男から学ぶべきことはあるように感じました。

そして、この感覚は、コロナ大爆発の今のご時世だからこそ、再度考える意味のある事のようにも思います。

↓↓炎熱商人に登場する馬場将軍のモデルは本間雅晴(?!)↓↓


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