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瞬間的エッセイ4

美しい、かもしれない

そのかもしれない何かを査定するその試みや居処はなんだろうか。
『美術を語るものはそれ以外を語るな。』とか、『音楽を語るものはそれ以外を語るな。』とか、主要とする分野はなんであれ、至極禁欲的な発想で物事の根幹に対して何かを表現する者へ手当たり次第揶揄する人が多いようなのだー。

だから、今回は瞬間的にこれを題材として自由に考えて表現してみる。

人それぞれに、残念極まりなく贅沢にも与えられているあらゆる知覚。それは、人それぞれが過ごしてきた環境により、良くも悪くもあらゆる分野を経由しそして悪名高く世界を分断してきたでしょう。
にも関わらず、そのなかでも単元主義の人たちはその身の狭い意識感覚の処女童貞さに気が付かず、無意識に、無作為に攻撃をするらしいのです。
今、知覚されることのできるある対象に与えられうる独自性などというものは21世紀の今、あまり残されていませんよね。
その、飽和感イコール虚無感ともいうべき諦めと対峙する苦しみを持つ創作者が、どういう美的感覚を発するのかどうかというところに自己警察らがパトロールすることは当然の成り行きです。
そして、その私も、もしかしたらその一部なのかもしれないと感ずることが悲しくも多いのです。なぜなら私は凡人なのだから。
以前、ミーハーながらにもヴェルフリの作品展を観て感動したことがその決定的事項なのです。
ひょっとするとそれは、巷で一人歩きしている"アウトサイダーアート"という言葉に自分の美的感覚が無意識にも踊らされていたのかもしれないな、という合点を思い抱くのはごく自然な事だし、そこに辟易してしまう私もやはり自然で凡庸なのです。
そんな事を恥ずかしくも告白してしまうのは、告白せざるをえないからなのです。
感動ポルノといった、超絶お手軽エンターテイメントとも言うべき刺激的な遊びとも言い換えられるようなそんなインスタントな入力と出力。
それが人々の興味の標準、もしくは指針になっているかもしれないな…!という自然な感覚の成り行きを自分自身が感じていることの悲しみと、逆にそこに気がついている人がどれだけいるのだろうかという悲しみの2つが、ない交ぜになっているから今表現しているのです。
なんにせよ、"私"目線の"私"的な創作活動と、鑑賞者のギャップは付き物なのは当然のこと。だけれど、あらゆる表現物をとある社会に則して批評する事に血眼になっている人達が、"その作品に付随している何か"を主要として芸術を鑑賞し、それを評価し、表現したことが正しいとされてしまうことに対して、私は憤慨してしまうのです。

つまり、作品そのものではなく、その作品の制作者の制作が完成される成り行き等を通して、その作品を評価するというその安らかな置き所自体が評価基準になっているということに疲れてしまうのです。

乳飲み子はなにも知らないんだ。審美眼を養うための大切な時間をあなたがたが奪いとる事は決して許されない、!と、叫んでみるけれど、その私は結局、何者でもないのだ!
だから苦しいのだ。
世界にはとてもユニークな視点が転がっている。
皮肉なことに血迷うことが多いからこそ、その悩める対象の本質を気付かされるから尚更ムカつくのだ。
でも私は結局、何者でもないのだ。
なんだかんだで、自然に捉えたものを心に留めて発信するだけだという主題に省るのだけだけれど…
ところで、何かあらゆることをごっそりと取り違えているのだろうか? 私は。

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