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海岸でビールを片手に1人で会話していた時のこと


はい、もしもし、あ!どうもご無沙汰しています。3年ぶり、とかですか?
え?最近?うーん、ぼちぼちですよ。
ーあ、そうなんですか?瞑想?してるんですか?
へー、なんだか意識高い感じですね。すごーい。
え?私?
うーん、、あんまり興味は無いですね。
なんで?えーっと・・・

俄に瞑想とかヨガとか、精神に対して能動的に働きかける行いが推奨されていますけど、私自身、意識的に自分の心の在り方をコントロールすることにすごく抵抗があるんですよ。

そもそも私、天邪鬼(アマノジャク)で笑
そのレベルを音量に換算すると100デシベルぐらいあるんですよね。
え?100デシベルがよくわからない?

ですよね。

実は私、4年くらい前に地元の沖縄に戻ってるんですけど、近くにアジア最大級の米軍基地があって、戦闘機の飛行訓練の時間帯になると、ものすごくものすごく死ぬほど騒音なんですよ。
もう耳元で飛行機が飛んでるんじゃね?みたいな音量なんですよ。
これね、調べたらね、110デシベルぐらいあるんですって。

あ、え?
すみません、文脈がかなり反れましたけど、要は、アマノジャクレベルが相当に甚だしくて煩わしい程度、ということを馬鹿げたレトリックで言ってしまっただけです、すみません。

あ、それで話を戻すと、
この、瞑想とかマインドフルネスとかの実践に対して抵抗がある中で、そのいわゆる自己啓発的・意識的運動とは違う形で、自分の心の動きと向きあうというか、感じとる瞬間、ってなんだろうと改めて思ったときに、なんとまぁ、自然に実践されていた事に気がついたんですよ。

それはどういうときかって?
生理的欲求が表れるときなんです。

たとえば、お腹が死ぬほどすいていて、血糖値が下がりすぎたときや、睡眠不足のときに意識が朦朧としたときや、ものすごく怒る要素が発生したときに起きる自制心との葛藤だったりとか、ホルモンバランスが乱れて精神のコントロールが難しい時(生理前に悶々としちゃう感じのときとか?何に対してもイライラする時とか?笑)

そういうときに、瞑想でいう"ひらき"、漢字で書くと"啓"っていうやつですね。
そういったキラーンとした瞬間が、身体からサインが発せられる時に表れるような感じがあります。

だからね、予め、そこに意識は働かないんです。無意識を待つとか、作り出そう、と訓練するような修行・苦行なんかじゃなく、あくまで、無意識的に、自分の身体そのものが自然に能動しているような状況、それを観察している心地よさを体感することが、私にとっての瞑想のようなんです。

つまり、自分の身体が自然に発しているものを自然に受けとめている瞬間を微分的に観ている状態が私にとっての瞑想なんです。

"瞑想をしよう、我が心を解放してやるために。
無意識になろう、我が心を追求してやるために"

こういう恣意的な一生懸命な動きで、自分の奥深くに眠っているいわゆる潜在意識と呼ばれるようなものを呼び起こす事は難しいんですよ。無理があるんです。
わざわざ苦労してまで自分の心と向き合いたくないぜよ、というズボラ精神と、生粋の天邪鬼とが出ちゃうんです。

もしもし、
え?
騒音が邪魔して、途中から何を言っているか聞き取れなくて分からないから、もう一度初めから話してって?

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