巻末演習問題付き!正解のある文学vol1~KOTOBAslamjapan2020名古屋大会・反省会編~

一番になりたかった

勝つためにではなく「勝たせてもらう」ために何をすればいいかに思考を巡らせた数週間であった。


前回の記事で意気揚々としたエントリー宣言をした後、しかし私の心は暗澹としていた。
出るからにはやはり「一番になりたい」そう思うものだ。

初めは純粋に、湧き上がるままに書いてインターネットに投げてきた詩を朗々と読み上げて、それで優勝させてもらう気満々だった。

私と詩朗読~言語と身体性への愛憎~

学生時代に演劇をやっていた頃から、自分には演者としての魅力は欠片もないと考えていて(なので、役者は一年しかやらなかった。演出に回ってから「言われてもわからない。見せてくださいよ」などと言われても、それは演技指導の役割であって演出家の役割ではないのでと、回避しまくっていた。何、本質的には目立ちたがりなので、本音を言えばやりたいのだが、本気でやっている役者の前で演出家たる威厳を保つべき人物が無様を晒すのは演技への冒涜であるし、統率上も良くないという大人の判断である。エライ!)、それゆえに自分の書き出したテキスト──現代詩だけが頼り、というわけである。

元々、私がポエトリーリーディングを始めたきっかけは「新しい詩の声」の授賞式であることは大会の自己紹介欄にも書いていたが、戯曲を書いていたころはあんなに持っていたはずの、「声に出して詠んだときどう聞こえるか」という意識を、詩作においては全く持っていなかったので、マイクを向けられて驚いた。
そして自作詩の朗読を求められたときに、私の中には二つの選択肢があり、それは「教科書を音読するように読む」か、「劇の読み合わせのように読む」かであった。
劇の読み合わせでも、わざと抑揚をつけずに読む段階というのもあるが、この場合はさておき──とにかく、テキストに集中してもらえるように、できる限り聞き取りやすく、余計な情感を籠めずに読み上げることに集中──つまりは前者を選択した。

集中したところで私は何年間も役者と一緒に発声練習をしたところで直らなかったくらい滑舌が悪いのだが……。
日本語の音は大事にしたいのに、ああ、精神と肉体の矛盾! やっぱ肉体なんか捨てて精神体に早くなりたいな! あるいはずっと言ってるけどゲル状のさあ……
大体昨日は「言語の限界」がどうのという話をしましたが、しかしそれでいうなら肉体なんて限界しかないですよ。人間の身長、でかいやつでもせいぜい2メートルと少ししかないんですよ、まったく……

(そうそう、私の復活祭という名前は、実際に現れたときに「男だと思った」と言われることが多くて、今回も言って頂いたんですが、これ言われると嬉しいんですよね。というのも、私はご覧の通り演劇好きでありながら、言語と身体性の内、身体性を軽んじている(というか妬んでいる)ところがありますから、「男らしさ」「女らしさ」というものは「ある」と断じた上で、「しかし、それは身体のあり方に依存しない」と考えております。※男社会や女社会に宿るものではありますし、言語の上に「そういうもの」は確かにあります。しかし肉体とは無縁です※言語を発するものの肉体と無縁であるとは言いません※しかし少なくとも正しい手順を踏めば、言語上で解放されることは可能であると考えています)

さておき!

私とポエトリーリーディング~棒読みの美学~

そんなわけで、私がポエトリーリーディングのシーンにおける詩朗読で大事にしていたことは一つ、「棒読み」である!

要するに、まず「詩」という素体があって、それに「いいお声」だとか「ナイスパフォーマンス」で、お飾りをして何か付加価値をつけてあげるとは微塵とも思っていなかったのである。むしろ邪魔になる、すっぴんが最高だよ私の詩は、チュ……と(このアカウントの人格ってこんな感じだっけ 果て……)

ええ、じゃあなんであんなオープンマイクとかやりまくってたんですかあ、というと、それは単純、私の詩を聞いてもらいたかったから!
正確には聞いてもらえなくてもいい、読んでもらいたかったけど、読んでもらえないから足を運んでヤ〇ダ電機の店頭に立つお兄さん(最近はお兄さんの声がする! と思ったらスピーカーから流れているだけだったりしますね。この調子で人類に絶滅されても私は多分気づけない)みたいに大きい声でわざわざ詩を詠みあげにいく……そんな調子だった。

しかし賢明にして聡明なる私は気づいた!
それではあまりにもスラムという形式に対するリスペクトがない!
それでもってスラムで優勝させてもらおうなんて、あんたあまりにもおこがましいんじゃないの!?

※ここ、最初スラムを「ポエトリーリーディング」と言っていたが、今回はPSJとは違い、ポエトリーにはこだわらない言葉による表現の闘いというのが大会趣旨にあるということを主催者様が発信していらしたので誤解を生まぬよう書き換えた。なお、ポエトリーリーディングを詩朗読と和訳するのであれば、私は先ほどの「棒読み」スタイルにだって一定の美学があると信ずるし、台本を持ったままというのがむしろ正統であると敬拝する。テキスト、最強! 朗読者の表現力など雑味なのである。ただし、この点、表現者の音読が下手すぎても雑味になるので注意!)

私とスラム~勝つためにではなく「勝たせてもらう」ために~

そりゃそうだ!
私は単純にして滑稽なので確信した!

ここはスラムだ!
詩が良ければ必ず勝てる、必ず選んでもらえるなんて幻想は棄てろ!
勝敗は観客の投票と審査員の採点で決まる!
「表現」は「発表」でも「見せつけ」でもない!
コミュニケーションだ! 観客との恋愛だ!
「勝つ」のではなく「勝たせてもらう」ために考えろ!

私はそれまで読んでいた小林英雄訳のランボー詩集とアリストテレスの「詩学」をぶん投げ(電子書籍万歳の時代において、紙の本の利点はやはり何といっても投げられることにある。物質万歳! 本を投げるのはあんまりよろしくないので最近はできるだけ電子で本を集めるようにしている)、ギュスターヴ・ル・ボンの「群衆心理」を読んだ、ダニエル・カーネマンの「ファスト&スロー」を読んだ、本当に営業マンをしていたときには微塵も目をくれてこなかった市井の営業ノウハウ、スピーチ、コピーライティング技術本にまで目を通した、メンタリストDaiGoの大衆扇動のテクニック解説をめちゃくちゃ聴いた……余談ではあるが彼の動画では背景が一向に山小屋的なところから変わらないので彼はあそこに監禁されて放送を強いられているのではないかと思う。何か裸でプールに入って延々と話したりしてるし。

頭の中に渦巻いていたのは、「ハムレット」の一節。

この息切れしたいやらしい時代には、美徳が悪徳に許しを乞わねばならない。そう、悪に美徳を施すにも腰を折って頼まねばならぬ……。

許せない。一向に許せない。
エントリー時の記事にも書いた自業自得で惨めな話だが、私はこれまで人生における「するか、しないか」の選択をすべて、「とはいえこれも創作の糧になる」で決めてきているので、大して創作を頑張ってもいないくせに、自分の創作に価値を認められなかったときの「畜生」の気持ちは人一倍でかい。
青少年諸君は自分で責任をとれる選択をして日々誠実に生きるかきちんと創作に打ち込むように。
私はもう駄目だ。なんでや、畜生。大会なんかやってる場合か、始める前から私が優勝に決まってるだろ失礼だと思わないのかアホアホ──。

とまあそんな具合である。
一回戦のアイデアを思いついて、何となく「勝てる」イメージが湧いてきてからは少しずつ落ち着いてくる。

ははあいやいや読者、観客様々ですよ、やっぱり観て頂かないと成立しないしねアハハハ、コミュニケーションですからね、歩み寄っていきますから、こう、そちらからも手をとって頂ける距離まで、ふふふ……(ハア、ハア……)。

トップバッターは不利!?本当の公平は存在しない~スラムの評価制度の限界への挑戦~

さて、ここで「一番になりたい」とは口にしていた私だが、口は禍の門ということだろうか、なんと16名もいる参加者の内ファーストブロックのトップバッターになってしまった!

何故なら我が母校の演劇祭において…という話を当初ここに書いていたが長くなりすぎたので割愛する。

というか個人的な思い出なんか書かなくてもトップバッターが不利なことなんて自明である。こんな実験結果もある。

https://www.dhbr.net/articles/-/7159

実際、今回の大会においても、一回戦4ブロック内で決勝進出した中に、トップバッターは一人もいない。
(「執念深いね? 数えたの?」「うん……」)

ただ「不利」というだけで「勝つのが不可能」という話ではない。
こんなのは運も実力の内の範疇である。

ともすれば大会運営への批判にも聞こえるかもしれないが、そんなことを言い出したら本当に公平な大会や審査会がこの世にあるか? という話である。

スポーツだとしても、その日のコンディションが、天候が何とやらという運の要素があるし、あの若者の人生が大きく左右されてしまう受験戦争だって、完全に公平性を期しているとは言い難い。

親の懐事情で塾に通える、私立校で対策ができる、そもそも受けさせてもらえるか、勉強をする時間を与えてもらえるか云々の諸条件を差し引いたとしても、試験には「範囲」というものが設定されている。

この「範囲」というものが事前に発表された上で、指導要領や過去問のデータ等を元に対策本が作られるわけだが、どこの学校でも教えられていないし、対策本の片隅にすら出てないような、問題が出題されれば、それは「悪問」の誹りを受ける。
いや、「範囲内」ではあるので、ルール違反ではないでしょう……と主張したところでそうは問屋が卸さないのである。

こんな如何にも公平ですという顔をして私たちの生活する社会において大きな役割を果たす制度ですら、そんな言外の共通認識に縛られている。

そうそう少し前に、ユリイカのクイズ特集を読んで、これが大変面白かったのが、「クイズ王」というのを単純に知識王だとか雑学王、或いはIQ強者であると変換するのは早計であり、たとえば競技クイズ(の中でも様々な形式がある)とテレビを初めとした観覧客の存在を前提としたエンタメクイズでは、求められる知識の体系、「それは悪問」と指摘される問題群がまるで違ってくる。
つまり重要なのは、「傾向と対策」そして「技術」、いかに作問者と相思相愛になれるかということである。
これをしてクイズに強くなるということは、「想像の共同的知識体系」に最適化するということでもある、と言われている方もいて、なるほどなあと思った。

これを表現の世界のスラムに置き換えると、要するに、いかに観客/審査員と「愛し合えるか」なのである。

偶然の勝利より必然の勝利~スラムは「運ゲー」か?~

はあんでも、それで最後は「運」なんでしょう? 努力なんてみんなしてますし? という疑念に関しては、大会が終わった後、前回チャンピオンである川原氏が零されていた一言が秀逸だった。

「スラムという形式における勝敗は、多分に運の要素も絡む。だからこそ計算しつくして、対策をねって、それがうまくいったときは気持ちいいんだよなあ」

パブリックではない場でぽつっと零されていたのを聞き取っただけでなので、正確な引用ではなかったり、私の幻聴であったりしたら夜道で殴ってくださいまし……。

非常に頷ける部分である。
偶然の勝利よりも、必然の勝利。
いや、運という要素が絡む時点で、必然などはあり得ないが、だからこそ、勝利は与えられたものでしかないのに、わが手で引き寄せた錯覚が心地よい。

これはセンスの天才と努力の天才どちらが選ばれるのが正しいかという話ではない。
その自信の根源がセンスであれ努力であれ、「勝てる」「勝てなければおかしい」という確信を持って「勝てた」ときこそ、最高に気持ちよくなれる。
これがスラムにおける特にエントリーする側の醍醐味であると私は信ずる。

上記を踏まえ、「愛知生まれ渋谷rubyroom育ち」を自称された伊藤氏の勝利は非常に納得できる結果であった。

私は本こそパラパラと読んだが、各地方大会の配信を観ての分析は結局「やる時間がなかった」し、沖縄転勤を言い訳にポエトリーリーディングの現場からも長らく離れてしまっていた。
二回目以降のアクトに関してはようやく前日に雛型が出来上がったくらいで、練習は参加者集合前に近くのカラオケボックスで二時間しただけ。
最後の方飽きてradwimps歌ってたし。
これは試験前の「全然勉強してねーし」みたいな粋がりではなく、本当に純粋にそれで勝てると思っていた自分が恥ずかしい……。

トップバッターが云々の話一つとっても、私は会場に言って、参加者が観客席に座っているという状況を見て始めて、いや、私のアクト、本当に思う通りに決まったら、同じブロックの三人の勝利の可能性を完全に奪ってしまうし、大会の盛り上がりを邪魔してしまう最悪の行為ではないか……と気づいた。
それで慌てて、「どうか勝利を恐れないでください」という文言を最後追加したのだが、それにしても、まだ他の3人のアクトも見ていない内に、それは、という抵抗が観客の中からランダムに選ばれた審査員の心にあったに違いないということは想像できる。

その点についても、数日前に順番が発表されていたにも関わらず、会場についてからバタバタ対策を練った私とは違って、伊藤氏は一回戦の自分と同じブロックに前回チャンピオンの川原氏がいるのを見て、演目の順番を変えたとおっしゃられていた。
当初は決勝戦でやるつもりだった勝負のアクトを一回戦に持ってきたというのである。
(本人のいないところで何度も言及してしまって申し訳ないが、これに対して素直に「悔しい! やられた!」ということを川原氏が叫ばれていたが、前回チャンピオンで、しかもはるか年齢的にもキャリア的にもはるか年上の立場で惜しげもなく口に出せる大人を見ると本当に素敵だなあと思う)

最初のパフォーマンスが一番重要という認識はあった。
「この人はすごい」という印象を与えられればパフォーマンスへの傾聴が得られる。このことは後々のアクトの評価に強い影響を与える。
こういうことが理論的にはわかっていながら実践できなかったが、本当に私の「弱いところ」である。

全ての演目が終わった後、「会場投票だったら結果は変わっていたかもしれませんね」などというお声がけも頂いたが、会場内と配信での聞こえ方の違いにも意識が向けられておらず、場内ではスピーカーが働かない会場内の仕様に戸惑って咄嗟の音声調節もできず不愉快な音割れを起こしてしまった私の不徳の致すところでしかない。

更に言えば会場の巻き込み方という意味においても、優勝の伊藤氏と敗者復活の会場投票で劇場に上がられたヤンマー部隊隊長氏は心得ていらっしゃった。

前者においては、これまさに若者といった具合のやんちゃ具合で、「おいおいやりすぎじゃないか」と感じさせつつも、このスラムにかける印象が強い挑戦者という印象を強く与え、ついつい応援したくなる気持ちにさせられる。

後者の御仁に関しては、自身が「ポエトリー」ではなく、「笑い」の畑の人間であるということを頻りに気にしておられたが、その謙虚で嫌味のない姿勢は万人に好感を抱かせる。流石に芸歴の長い方は……と嘆息が出る。

パフォーマンス自体も、漫談という形態ではあっても、言葉をストーリーや笑いのために雑に扱ったという印象は受けず、コトバ・スラムという場へのリスペクトを強く感じられた。
特に「うんこ・うんこー!」を言葉の表現として出してこられたところなんか最高で。
あれ一本だけならただの下品ですけど、ああしてきちっと漫談をされた後に出てくると、前衛としての意味が深まってくる。
笑いの世界なら間違いなくメインディッシュである漫談が、場の力により、前座だったのではないか? と思わせるような主格逆転があり素晴らしかった。
私も会場票を一票投じさせて頂いた。

名古屋ポエトリーリーディング、沈黙の時代を抜けて

そうそう、会場といえば、名古屋という場所。
私は地元であるから(というかそのときたまたま地元に戻っている期間だから)という理由で選んだんですが、これにもかなり想定外な部分があって、「演劇人」と「お笑い」の世界の方の参加が大半を占めていた。

終わった後に主催の鈴木氏にご挨拶させて頂いた際にお聴きしたんですが、何でも名古屋はオープンマイクも最近途絶えてしまって、詩人口が少ない!と。
名古屋はねえ……同人も過疎地だし、私も十八の頃に離れてしまっているから何とも言えないが、そんなことになっていたのか、地元……。
でも逆に、演劇やお笑いがこんなに盛り上がっているとも知らず、意外! とも。
上で同人過疎地と詰りましたが、名古屋はその分コスプレ文化が独自発展したという特殊な地でもある。

「今まさに、名古屋は沈黙の時代なんですね」なんてくだらない洒落をその場では言ってしまったが、そんな場所においても、本大会の地方予選の運営を完遂された主催一同及び劇場主様には本当に頭の下がる思いである。

兎角、私はあのオープニングアクトを、王道の詩朗読が並んだ後でエイヤッとやるつもりだったのが計算違い……というか下調べが全くできておらず、むしろ王道の詩朗読が貴重な存在となり、「これこれ!」といった具合に聴いてもらえる状態にあり、「詩を聞きたければまずは詩を選べ」という問いかけも形無しに……。

「詩人が詩を捨てる勇気」について~「選ぶ」ことの大切さ~

少し話を戻すが、そもそも私の勝つためではなく「勝たせてもらう」ために、という遁走はとある地方大会の配信を観ていたときに始まった。
観客として「おお、上手いな。すごいな。これは間違いない」と感じた人がなぜか負けていく──自らの審美・感性が観衆とズレていることに対する恐怖。
ここで勝てるのか? と思った。
「選んでもらえる」という適当な意識で観客に甘えて、本当に「選んでもらえる」か?

読み込んだ心理学やらマーケティングの本に繰り返し出てきたのはとにかく、「消費者は選ぶことが嫌い」ということである。そのくせ「比較」はしたいし、その中で「一番のものを選びたい」という欲がある。
この点を理解して適切に「選びとる」体験を愉楽に満ちたものに変換して差し出さなければならない。

結果として、上記のような私の詰めの甘さで何とも「キマらない」結果に終わったわけだが、この方法論自体は今でも間違いであるとは思わない。
「何だ、どうせ負けるんなら一本でも詩読んどきゃよかったよ」とついつい直後は零してしまったものの……。

本スラムは言葉の表現の闘いであるが、それは何も詩朗読のみを純然たる言葉の表現と認めるものではない。
演説やプレゼンで影響力を発揮する為政者や実業家が用いるのも「言葉の力」で間違いないのだ。
このスラムという形式においては、詩学よりも心理学で裏打ちされた言葉の方が有用であると、自身を現代詩人と定義している私は断じた。

詩人が詩を捨てる勇気を
二度と持たせてはなりません
沈黙に勝利をけして許してはなりません

とうたいながら、私は冒頭の一分(鈴木氏が後で教えてくれたところにあると実際は三十秒であったらしい。私は心の中で六十秒数えることで、他の部分と合わせて三分に収まるように訓練をし、本番ではこれを念のため五十秒で切り上げた)をまるでそれが崇高なる表現であるかのように提示し、その後も詩を読まず、文字通り「詩を捨てた」。
そしてその上で「沈黙か詩か」というやや乱暴な二択に持ち込み、観客に「詩」を選んでもらう=十点満点を入れてもらうことを望んだのである。

名古屋のランダム審査員制という採点方式は「限界への挑戦」だ!

さてここでもう一つの計算違い(というか勉強不足)。

群衆心理の技法の一つで根幹になるのは、「個人は群衆になると、個々の責任を失う」=それ故に、個人としては選択するはずもない非論理的であったり、非道徳的な選択をすることがある、ということである。

ひと昔前なら、ナチス政権下のドイツ国民などがたとえに伝われていたが、今はむしろ、「どうせ投票なんていっても、一票じゃ何も変わらないでしょ~?」という民主主義国家における主役であるはずの民の脇役精神といった方がわかりやすいだろう。

この技法はもしかしたら、投票制の他の地方大会であれば有用度がもう少し高かったかもしれないが、名古屋大会のランダム審査員制度においては、五人、下手したら実質三人の採点で勝敗が決まる。

会場の誰かが「これ、審査員みんなやりたがらないんじゃないの」「荷が重いね」と口に出していたと思う。
運営側も、コメント欄で四人分のアクトを最後まで見て、点数をつけることを承諾してくれる審査員を探し出すこおとに、恐らく想定以上に苦労されていた。
パリで採用されている方式とはいえ、オンラインという環境下にまた苦戦を強いられる。

オンラインに限界があることなんて見えているが、会場で実際に検温・消毒を徹底したコロナ対策を行い、運営されているスタッフの方々を見ると、それはまさに「限界への挑戦」であり、涙が出る光景だった。

これは蛇足だが、「詩か詩か」ではなく、沈黙と並べた上(詩か死か)で詩を選び取ってから詩を聞いてほしいという気持ちに至ったのは、「劇場」だとか、「ポエトリーリーディングのシーン」なるものがあることが当たり前のことではないという意識を持ち、常に敬意を示さなければならないという思いもあってのことである。
金持ち、ありがとう!(予行演習の例のアクトに向けて)

「あなたが詩を選ぶためにできる全て」を私は選択する

話を戻す。
とはいえ、三人の小集団であったも十分に群衆化することはあり得るので、やっぱり単純に私のまじないのやり方がへたくそだったのである。
ちなみにこういう話を人にしたわけではないのに、終わった後、泥酔侍さんに「どうせなら五円玉振るまでやっちまえばよかったのに」と笑顔で言われて、舌が出る思いだった。

この「審査員探しに苦労する」姿を見てはっと気づいたのだが、そうして選ばれた審査員たち、恐らく私の想定よりずっと自分の採点に対する「責任感」が生きていたのである。
責任感が生きており、かつ、無意識のバイアスは殺せていない状態。
この状況に気づいたときには遅かった。

こんな風に言われてしまったら、「おいおい、重いなーと思いつつ折角引き受けたのに何だその言いぐさはよー」と言われてしまいそうだが、それくらい「選ぶ」ということは勇気のいる行為なのだ。

しかし、選んでほしかった。
できれば、詩を。
あなたが詩を選ぶためにできる全てをしたかった。
次はもっとがんばります。

共同的〇〇体系への最適化~これからのコトバ・スラム~


ところで上の方で、共同的知識体系への最適化という言葉を借りて語ってしまったが、「要するにそれは身内のりにのれるかってこと?」と訊かれるとちょっと違う。
(こうやって聞かれてもいないことに勝手に答えるクセがあるから永遠に話が長くなるんだよなあ)
現段階でもしそうしたものがあるとあなたが感じるのであれば、それはまだいわゆる身内の観覧者が多いからに他ならない。
名古屋大会において、演劇やお笑いの分野からの参入があったように、勝利した者も、惜敗した者も、参加した個々人の今後の活躍により、このスラムに「接続」する世界のマップは多様に拡がることになるだろう。

私の友人にも配信を観てくれていた方がいて、「耳から聞こえる美しさであれば漢詩が一番であるのに、漢詩をやる人がいないのはもったいない」と言っていたので、「次回、出てよ!」と誘っておいた。忙しい方なので受けてくれるかはわからないが、そうなればいっそう楽しみである。

まだまだ第一回のkotoba slam japan
オンライン投票制のスラム。

三分間の時間が与えられている出演者に比べて、観客には「たったの一票」と思われるかもしれないが、その一票が明日のスラムの評価基準になり、その基準は──「え、そんなに対策とかしてるの? みんな自分の信ずる言語表現を自信満々に持ってきて発表しているんじゃないの?」」と思われたかもしれないが、まあそういう方もいるが、しかしみんな勝敗のある限りは勝ちたいもので、おそらく対策する派の方が多数だと思う──スラムで勝つための対策を講じる表現者の創作意識、ひいては表現そのものに、思った以上に影響するということをどうか念頭に置いて頂きたい。
これは商業的な漫画や小説の購買活動においても同じである。

嫌だよ、そんな、責任が重いわ! 専門家でもないし、無理! 投票棄権します! という選択をすれば、そこには沈黙が支配する時代が……。
えらい(愛知の方言で「大変」)世界に生まれてしまいましたね。

「選ぶ」という行為にどれだけ心理的ハードルがあろうが、やっぱり恐れず「選んで」ほしい、というのが私の切実なる願いであることには変わりありませんので、大会直後にあのようなツイートをしました。

いつになるかわかりませんが、そのような舞台に上がったときには必ず、同じことを皆さんに尋ねます。
「沈黙か、詩か」
どうか選んでください。

正解のある文学vol1

さて、ここにきてタイトルに回帰!

「文学(あるいは芸術)に正解はない」なんて「恋愛に正解はない」と同じくらいよく言われる言葉ではありますが、私は上記の云々も踏まえて、「正解なくとも王道あり!」ということを信ずるのであります。

そして、スラムの評価基準、そしてスラム上での表現は観客が思っている以上に観客に左右されるのだということも書きましたが、一方でやっぱり、表現者の側にも「おいらが主役!」の強い意識はあるわけです。

沈黙か詩かという問いをあの場で投げかけて、己の詩を選んでもらえず沈黙に負けた立場としては、一種のけじめとして、ポエトリーリーディングのシーンでは(誰かに選んでもらう/スラムで勝てるまでは)沈黙に身を任せるという風に言わせてもらったわけですが、同時にフィールドワークの不足を思い知らされた一戦でもありますから……現場に立って次に勝つための努力というのはしたい。

そこであの恐怖に立ち帰る。
私に勝つためではなく「勝たせてもらう」ための努力をすべきだと思わせたあの恐怖。
とある地方大会の配信を観ていたときに感じた、自らの審美・感性が観衆とズレていることに対する恐怖。
これを克服する方法は他になかったのか?

たとえば時間をかけて、観衆の感性の側を塗り変えてしまうのは?
私の詩を願わずとも「正しく」選びとってもらえる審美眼を育成すればいいのでは?

よし、教育だ! みなさん、教育は好きですか?
生徒になるというのも大人になってしまうとなかなか貴重な経験です。
そして先ほど申し上げた通り、表現の場における表現者と受け手(読者/観客)の関係は「いかに愛し合えるか」というところにかかっておりますから、もし表現者としての私が先生の役割も演じるのならば、これは生徒と先生の危険な恋愛になるわけです。やりますか?


ではいざ、問題を出しましょう。

問題です!

以下は私の名刺の裏面にも書いてある「今夜は良い詩の書ける気がします」という詩です。
まずは本文をご覧ください。

※これは詩ではなく問題文です。
※便宜上段落番号を振っています。

【1】
うまくいってると思っていたことの
不平をあなたの口から聞いたとき
今夜は良い詩の書ける気がします

【2】
本当はずっと嫌だったよと
左の肘をかきむしりながら
机に目を伏せたあなたから聞くとき
今夜は良い詩の書ける気がします

【3】
誇りを持ってやってきたことの
無意味さをあなたに諭されたとき
今夜は良い詩の書ける気がします

【4】
封をしてきた悲しみのリボン
片端をあなたに掴まれたとき
今夜は良い詩の書ける気がします

【5】
腫れた目を夜の外気で冷やすと
吸わないタバコの煙が見えて
今夜は良い詩の書ける気がします

※今回は全て選択問題ですが、答えが選択肢にないという場合は、「その他」ということで、コメント欄にて記述解答することが可能です。

問題1
段落【1】~【4】にそれぞれ与えられている役割について考えるとき、全ての段落が共通して担っている役割は次の内どれでしょう。該当する項目を全て選んでください。

①情景を想像させる
②違和感を覚えさせる
③社会問題を提起する

問題2
段落【5】の「吸わないタバコの煙が見える」というのはどういう状態のことを言い表しているのでしょう。次の内、該当するものを全て選んでください。

①段落【1】~【4】に登場する「あなた」がタバコを吸っていたが、喧嘩別れして「あなた」はもうここにはおらず、残っているのは「今夜は良い詩の書ける気がします」と言っている人物だけである。この人物はタバコを吸わない。しかし、詩を書くときにタバコを吸っていた「あなた」を思い浮かべているので、そこにいるはずのない「あなた」が吸っているタバコの煙が見えている状態

②段落【1】~【4】では共通して、前半部で現実に起こった決して「良くはない」出来事が、最後の一行「今夜は良い詩の書ける気がします」という詩作へのモチベーションへ昇華されていくという構造をとっている。これはここにおいて「良い詩が書ける」気になっている人物にとって、「詩作」がある種の「現実逃避」の役割を担っていることを示している。いわば現実離れした空想に耽っている状態にあるため、「吸わないタバコの煙」という現実にはあり得ないものが見えてしまう状態。

③「今夜は良い詩の書ける気がします」と言っている人物は禁煙中であり、医者に服用されたニコチンパッチを常用していたが、現実で嫌なことがあったために禁煙を諦めて火にくべてしまった状態。このニコチンパッチを「吸わないタバコ」と言い表し、禁断症状から、実際には吸っていないタバコの煙が見える中毒者の症状とダブルミーニングを持たせて「吸わないタバコ」としている。

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