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死の淵を見た男/門田隆将

東日本大震災から、もうすぐ10年。ふと、この本を思い出して読み直した。

想定していない事態の中、現場・本店・政府など、様々な考え・判断があったと思う。何が正しいという事は、横に置いておく。

福島原子力発電所という「現場にいた人」という観点で、考えさせられることを整理してみたい。(完全に個人的感想になります)

ベテラン技術者の凄さ

若手にもすごい知識を持った技術者はいたと思うが、今回フォーカスしているのがベテラン勢だったので「ベテラン技術者」と言わせてもらう。

何と言っても、発電所について知り尽くしている人の凄さ。「何が起こると予想されるのか?」「何をしたら解決できるのか?」「その機器はどこにあるのか?」という事を、短い時間で考えなければならない状況であった。

今、自分がいる業界において、それに匹敵する、知識やノウハウを持っているだろうか?と思うと、「足元にも及ばない」というのが正直なところ。

「できるつもり」になっているが、まだまだ学ぶべきことはたくさんある。

基本を大切にするという事

前項と重複するが、基本が大事である。

この話で言うと、あるバルブを開けていかなければならない。普段は手動で開けることは無いバルブ。

それを開けに行った人は、そのバルブの位置を知っていた。経験や記憶力なのかもしれないが、普段から、意識して(注意して)見ていたのだと思う。

「何気ない事」「当たり前の事」に、どれだけ意識できるかの差ではないだろうか。

また、想定できない事態において、「基本的な原理・原則」を知っている事はとても重要だと思う。「想定していない事態」への対応は、その時に考えるしかない。考えるためには、どれだけ「基本」が叩き込まれているかが重要なのだと。

例えが上手くないが、車の運転で言えば「アクセルとブレーキの位置」を「基本」だとすると、目の前に人が飛び出してきた時(想定していない事態)に、ブレーキの位置を確認している暇はない。って感じですかね。(あまりうまい例えでは無いと思いますが…)

自己犠牲の精神

これは非常に難しい。

「自分は死ぬかもしれない。でも、やらなければ、もっと多くの人が犠牲になる」という時、やる・やらない。どちらが正しいと言えるのか。

現場では「決死隊」という表現がされていた。自己犠牲の精神を連想する言葉。福島原発でも「決死隊」がいなければ、東北全域が住めない場所になっていた可能性も、あるのではないかと思う。でも、「自分は行かない」という選択肢も、あって良いのでしょう。

どちらが正しいかは、時と場合にもよりますし、両方の結果を見る事ができないので、わからないと思います。

ただ、結果や規模がどうであれ、「誰かの犠牲(我慢・苦しみ)があって、今がある」という気持ちは、持ち続けたいと思います。

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