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楽園 | ep.5 終末

昔から水泳は苦手だった。

学校のプールの授業も嫌で、何度も仮病で休んだ。

授業の中で、泳ぐのが上手な子、まあまあな子、苦手な子でレベル分けされていたが、
毎回苦手チームだったっけな。


そのぐらい泳ぐのは嫌い。

水の中になると、普段は自由に動かせている手足を上手く制御できなくなる。


だから中学校の水泳の授業が終わった時、
もう一生泳がなくていいんだ、と喜んだものだ。


それなのに、なぜか僕は今、街の市民プールへ向かっている。


次に僕が思いついた方法は、水の中に入ることだ。

本や映画ではよく、水の中に入ると別世界に飛んだり、潜在能力を引き出す場面がある。

水の中は特殊だ。
普段、骨をポキポキと鳴らして歩いている人間も、
水相手にはフニャフニャになって浮かんでしまう。



海の底に住んでいる生物も、まだ解明されていなく、未知だというし、なんだかいける気がした。


市民プールは、電車で5駅のところにある。

今日は平日だ。

夏場のピークは越えたし、午後4時前のこの時間なら、空いていると思ったのだ。


次に電車が来るのは午後4時ちょうど。あと10分はある。

僕は駅のホームのベンチに座っていることにした。


座りながら駅前の景色を眺めた。
小さな街の駅のため、この時間でも人はあまりいない。

静かでとても良かった。

僕はしばらくぼーっとしていた。

人の多い都会の駅だと、こうやって駅のホームのベンチに腰掛けながら、
鳥の声だけを聴いてぼーっとすることはできないんだろうな、と思ったら、
小さな街に生まれて良かったと思えてくる。


そんなことを考えながら、僕は足元の荷物にちらりと目をやった。

市民プールへ行った後は疲れてしまっているだろうと思って、必要なものを駅前で買い込んだのだ。

大きく膨れ上がったトートバッグを見て、やはり帰りに買えば良かったと後悔する。


スーパーで今日の夜ご飯のお惣菜のオムライスと玉ねぎと調味料、薬局でトイレットペーパーと洗濯洗剤、あと雑貨屋でコーヒーを淹れるときに使う砂時計も買った。

タイマーではなく砂時計で、
コーヒーを蒸らすときの時間を計ると美味しく感じるのは、僕が単純だからだろうか。

今まで使っていた砂時計が古くなってしまったので、新しいものに買い換えたのだ。


荷物の多さに憂鬱になりながら、ホームの時計に目をやると、もうあと1分ほどで電車が到着する時間になっていた。


僕はそこで、飲み物を買うのを忘れていたことに気づいた。

プールには飲み物は必須だ。


ベンチの後ろの柱の、横にある自販機で水を買おうと、ベンチから立ち上がった。


体の向きを変えようとした瞬間、
何か硬いものがつま先に当たった。

足元を見ると、どうやら先ほどスーパーで買った玉ねぎのようだった。


僕はそれにつまずいて、転びそうになり、体が前に倒れていった。


まずい、転ぶ、と思った。


その間に今度は、足元でパリンッと軽い音がした。

ゆっくりと体が前に倒れていく間、そちらに目をやると、
新しく買った砂時計が割れて、砂が外に出てしまっていた。


うわやってしまった、と思ったが、
その間にもだんだんと体は地面に近づいていく。


ホームの時計は午後4時を指していた。
太陽が町を、陰と陽に分ける時間。

怖くなって目を瞑った。


そしてそのまま、ホームと改札をつなぐ階段を転げ落ちていった。


落ちている間、耳元でヒューヒューと風の音がしていた。



突然、背中に激痛が走った。

どうやら階段の下に着地したようだ。

勢いよく落ちて、体を地面に打ちつけてしまった。



そう気づくのと同時に、駅の階段を転げ落ちてしまった事実に恥ずかしくなり、急いで立ち上がった。


体は痛いが、どうやら大きな怪我はないようだった。



小さな駅で良かった。人があまりいなくて助かった。

そう心の中でひたすら唱えて、恥ずかしさを誤魔化しながら、たった今転げ落ちてきた階段を、急いで上がった。





駆け上がって、何か違和感を感じた。


なんだろう、と思ったけれど、
その違和感はすぐに分かった。



目で、耳で、分かった。


僕は混乱した。


地面に体を打ちつけてしまったからではない。


脳がくるくると回って、心臓がバクバクと脈打っていた。



まず真っ先に感じた違和感。

電車が止まっている。


ただ止まっているわけではない。


電車から降りようとしているサラリーマンが、女子中学生が、駅員が、
不自然に、歩き出すような姿勢で止まっている。


そして先ほどまでチュンチュンと鳴きながら電線に止まっていたすずめが、
空中で翼を広げながら、その場で止まっている。



次に感じた違和感。

何の音も聞こえないこと。

電車の音、鳥の声、風の音、車の音。

あらゆる街の音が聞こえなかった。


聞こえたのは、混乱して後ずさりした僕の、ジリィという靴と地面の擦れる音だけだ。




僕は少しの間止まっていた。


このありえない現象を、頭で整理していた。



けれど、すぐに分かった。


なぜなら、僕が望んでいたことだからだ。


僕が、ずっと望んでいたこと。


はじめに実験を始めたときから、すでに半年が経っていた。


季節は変わった。



僕には、やらなければいけないことがある。


気づいたら走り出していた。


さっき買った夜ご飯のオムライスには、わき目も振らずに走った。

もうどうでもよかった。




「時間が止まった」


僕は彼女に会いにいく。


そして、必ず伝える。


今まで言えなかったこと。


彼女はなんて言うだろう。


まさか本気にしたの?って優しく笑うだろうか。


僕はひたすらに彼女の元へと走った。



僕と彼女ふたりだけの楽園ができた。


実験は成功した。

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