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楽園 | ep.4 端緒


僕が彼女に抱いた好きという感情は、特別なものではなかった。

好きな食べ物に抱く"好き"みたいな、そんな感じ。


しかしそれは彼女に限ったことではなく、どの女の子に対してもそうだった。


だから他の女の子と同じだった。

いつもみたいに、好きだな、と思った。



長時間の格闘の末、盛大に振られた友人には悪いが、
好きになってしまったならしょうがない。


そう思って、僕はひとりで再びあの蕎麦屋に行った。

もともと蕎麦は好きだから、食事がてらに訪れた。




店内に入ると、彼女はいた。


彼女は、いらっしゃいませ、と言いながらこちらに顔を向けたが、途端に少し驚いた表情をした。


どうやら、この間のことで僕を覚えているらしかった。


僕は構わず空いてる席に腰掛けて、ざる蕎麦を注文した。


時刻は昼の1時半、客は僕の他に、老夫婦しかおらず、店内は閑散としていた。


僕はざる蕎麦を持ってきた彼女に話しかけた。


まずは僕自身のことを話した。歳のことや職業のこと、あとはこの間のこと。


それから彼女のことも少しだけ聞いた。

彼女は初め、少しどぎまぎとした様子で話していた。

一定の心の距離を保ちながら、自分のことを話している様子だった。


無理はない。
突然知らない人に自分のことを聞かれたら、誰でもそうなるだろう。


しかし、話していくうちに、
彼女は僕が思っていたよりもすんなりと自分のことを話し始めた。



僕は内心、ホッとした。

拒絶されたらどうしようかと、思っていたからだ。



それからというもの、僕は定期的に蕎麦屋に通った。


客のあまりいない時間。



ざる蕎麦を注文して、毎回彼女と話した。


話していくうちに分かったが、彼女はとても素直で、いい子だった。

よく笑うし、親しみがあった。





そのうちに、だんだんと店の外でも会うようになった。気がついたら定期的に会う仲になっていた。




僕と彼女は波長が合った。




でも、付き合っているわけではなかった。


僕はきちんと、誰かに好きだと伝えたことはない。

だから、付き合っているわけではなかった。






けれど
僕は多分、本当は、
彼女のことがとても好きになってしまっていた。


でも、気づかないふりをしていた。


他の女の子と同じだ、と自分に言い聞かせていたし、彼女にもそのような接し方をしていた。


人間は、失って初めて大切なものに気づくというけれど、僕は多分、もう気づいていた。



彼女がハンバーグ弁当を食べながら、
君にとって私はこのグリーンピースなんだろうね、
と言った時も、

気づかれないようにふっと笑ったけれど、

喉の辺りに熱を帯びた塊があるのに気づいていた。


目の縁が熱くて仕方がなかった。




僕はただ、弱い人間だ。 

人に愛を与えることで、
大切なものができることで、
それを失うのが怖いだけの、弱い人間だ。



彼女がいなくなった朝、
目が覚めたとき、僕は泣いていた。

いつかは来ると分かっていたのに、

自分のせいなのに。



そして、彼女の望んだ「時間を止める」を、しなければならないと思った。



だから僕は時間を止める。



時間を止めて、ふたりだけの楽園をつくる。


そして会いに行く。



伝えるべきことを、伝えなければいけないから。

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