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「最も卑劣な殺人」へと至らぬために

 3月4日に誕生日を迎えた。28歳になった。いつのまにか28歳かぁ、としみじみ、いや少し焦りながら思った。ここ3、4年くらいが、あっという間に過ぎてしまっていた。
 歳をとっていくごとに時間の流れが早くなるというのはずっと昔から言われていることだけど、僕にとってもその感覚は例外ではなかったらしい。特に去年はその速度を実感した年だった。ただ、その2020年というのはやや事情が違っていた。
 2021年が明けて間もなく、久しぶりの友人と会って話した。そこで互いに一致したのは、この一年間の記憶がろくになく、本当に一瞬のうちに過ぎてしまったという感覚だった。
 20年の1月といえば、米軍による「イラン革命防衛隊」司令官の殺害、それに対するイラン側からの報復が起こった。世界には緊張が走ったものの、その後とりあえず戦争という形は避けられた。
 が、このことを一体どれほどの人が覚えているだろうか。かく言う僕もすっかり忘れていた。なぜなら、その直後世界中を揺るがしそして今もなお終わりの見えない災厄、COVID-19がやってきたからだ。この新型コロナウイルスと、それを取り巻く状況は、僕たちの"忘却"に大きな影を落としていた。
 中国・武漢に端を発したコロナウイルスは、そのニュースを対岸の火事としか認識していなかった世界各国にあれよあれよという間に広がった。そのあまりの速さと予想以上の感染力に、対応は後手後手になった。日本においても4月16日にようやく全都道府県に対する緊急事態宣言が発令された。首都圏でも、観光地でも、あらゆる娯楽の場から人々が消え、外に出れば罪というような空気が出来上がっていた。実際、"自警団"による飲食店などへの嫌がらせがなされ、僕の住んでいる京都でも「中国人は来るな」と貼り紙をして回った男が逮捕されるといった事件があった。

 あれから一年が経った。人々は新しい生活様式を作っていった。3月末現在、二度目の緊急事態宣言は解除され、東京五輪の聖火リレーも始まった。にもかかわらず、感染者は去年の何十、何百倍にもなっている。明らかに倒錯した状況の中で、僕らは生活を送っている。人と人との距離は縮まらないまま。
 京都精華大学人文学部教員で近代思想史を研究する岩本真一は、緊急事態宣言直後の4月20日、大学HP内にて『異質性排除の日本思想史』を掲載した。その中で、社会が混乱状態に置かれた状況下では権力者による民衆への一体化が要求され、そこからこぼれ落ちた者たちが不当に排除されてきた歴史を提示した上で、次のように語る。

いま私たちが避けなければならないことは、極端な社会的一体化に疑問を呈することだろう。そのためには、自分とは異なる存在と対話を繰り返し、異なる価値観の存在を理解する必要がある。にも関わらず現在、私たちは対話の場から隔離され、ひとりでの存在を要請されている。
 しかしながら、対話は生身の人間との間にしか成立しないものではない。私たちの周りには、既にこの世を去った人が残してくれたものが膨大にある。本を読むという形でかれらと対話することにより、私たちはより深くものを考え、想像力を鍛えることができるはずである。


 大江健三郎に倣えば、想像力とは「人生のモデル」をできるだけ受容していくことだ。そして自分自身の人生への眼差しをーーそれが一般的な"幸せ"とは違ってくるにしてもーー豊かにすることだ。小説、漫画、映画、絵画、音楽、あらゆる方法による作品には、その中に生きるひとつの、あるいはいくつもの人生があり、作家は人生を懸けてそれらを表現する。
 作品の理解以前に、なんかよくわからないけどすごいものを見ている/読んでいるという感触を持つこと、そうすることで自分もまた表現したいという欲求に駆られ、描いたり、歌ったり、話したりする。芸術や知識を得、流されることなく流れを作ること。つまり上っ面だけの言葉や詭弁に惑わされず自分を保つこと、対話が希薄になっているいまだからこそ、多くのものを受容していくことは重要である。

 ところが、僕はそれと全く逆行した一年を送ってしまっていた。一年間の記憶がろくにない、というのは、僕にとって何を読んだか、何を見たかが欠落していることでもあった。
 いや、全くもって一冊も本を読んでいなかったわけではない。何冊かを読んでいた覚えはある。でも、記憶しているものといえば石川義正の『政治的動物』。冒頭の友人が紹介していたものだ。素晴らしい本だった。
 そして、それ以外の記憶はない。それに友人と話しているときに気付き、うわ、やばいなーと思った。
 もちろんたくさん読めばいいというわけではない。だがそんな弁解など無意味なほどに読んでいなかったのだ。
 そして、書いてもいなかった。僕は大学を卒業してからほぼ毎日ノートに雑多な文章を書いていて、それ自体は今も続けている。だが、それらの中から今こうやって読んでもらっているような、発表用の文章を選び、何度も書き直すという作業がまるでできていない。以前は毎月書いて投稿していた文章も、二月、三月に一本のペースにまで落ち込んでいる。
 そりゃあ歳を取っていけばいつかは新しいものを知ったら書いたりする意役が落ちていくかもしれない。でも、28でこれはあまりにも早すぎるだろう。
 僕が10年前、故郷の福岡から京都へ出てきて本当によかったと思えることは、いろんな人達に出会えたことだ。ある人はどこか遠くへ通り過ぎていき、ある人は今も付き合いがある。
 その数は決して多いわけではない。けれど、文化、芸術、世界の見方、あらゆる物事の考え方をたくさん教わった。そして何より、孤独に打ちひしがれそうになったときに救われた。彼らに会い、話すことで読んだり書いたりする意欲も生まれた。他人との摩擦があってこそ、言いたいこと、書きたいことはあふれる。人と、あるいは社会との交通こそが表現の根本だ。
 僕は僕の怠惰に、それがいかに自分の頭を鈍くしているかに、この状況下で、久しぶりの友人に会って気付かされた。そこでもいくつかの本を教えてもらい、その本を含め現在まで継続的に読むことができている。きちんと読み終えることで、読みたい本は次々に現れてくるものだ。少しずつではあるが、僕は以前のような意欲を取り戻している。

 去年一枚だけ買ったCDがある。ボブ・ディラン『ラフ&ロウディ・ウェイズ』だ。
 ディランは、誰にも教えてもらわず、僕が選びとった数少ないものだった。19歳の秋に大学の図書館で名前も知らなかった彼のCDをなぜ借りたのかは覚えてないけれど、今に至るまでずっと聴いている。
 大学に入ってしばらく、ぼーっとしながらやりたいことも見つからずいた僕に、ディランは「苦しみ」をもたらした。
 苦しみ。そう、苦しみだ。それは言い換えれば"近代的自我"なるものだったかもしれない。現実と理想の間で引き裂かれ、すぐに不安になったり、意味を求めたりする。僕の中にディランは一生消えない楔を打ち込んだ。わからなくても、退屈だと感じても口当たりの良いものを受け取っているだけでは見えない芸術の存在を認識させてくれた。街を歩いていて、時々起こる何かうまく表せない感情を表現してくれた。
 大学に入って一年、僕はなにをしていいかもわからないまま、呆けて特に悩みもなく幸福だった。とにかく地元から抜け出したくて京都に来た。これといった人とも出会わず、バイトもせず、どこにも出掛けず、素晴らしい音楽や映画も知ることなく、知ろうともせず、何事もなく過ごしていた。穏やかで、たしかに幸福だった。でもそれは何かを変えたくて福岡からのこのこやって来た僕の望んだものではなかった。心の隅でそれをわかっていながらも、だらだら生活していた。
 その何も起こらない穏やかさは、どこか去年の状況と似ていた気がする。
 コロナウイルスの猛威は、世界中の通りから人々を消した。この国随一の観光地である京都も例外ではない。3月の後半には完全に観光客の姿は無くなっていた。街はとても静かだった。
 けれど、それはどこか"平穏"でもあった。人々も僕も、死の恐怖に怯えていた。観光業界は悲鳴を上げていた。この先どうなるかわからない。でも僕は、この奇妙な静かさに居心地良さも感じていた。以前と変わらず労働に出向き、一年前に結婚した連れ合いとの暮らしを送った。
 世界中が大変なことになっている。でも僕の周りではとりあえず何も起こっていない。そして僕は怠惰になった。老いて何もする気がなくなった者のように。
 そんな風に生活を送っていた頃、6月19日にディランはアルバムをリリースした。
 先行シングルである「マーダー・モスト・ファウル(最も卑劣な殺人)」でディランは1963年のケネディ大統領暗殺から、アメリカの歴史を淡々と語りながら、数々の音楽や映画、演劇の名を並べ歌っていく。アート・ペッパーをかけてくれ、セロニアス・モンクをかけておくれ、「ベニスの商人」をやっておくれ、「死の商人」をやっておくれ……という風に。
 それらは今も人々に語り継がれているものも、あるいはすでに忘れられてしまったものも、今へと続く文化を芸術を作ってきたものだ。そして僕は思った。この詩は歴史を語ると同時に、僕の現状にも突き刺さるものではないのか?と。
 このままなにものも受容せず、なにも表現せず、何も考えなくなったとき…いつのまにか何もできなくなっていたら。いや、できなくさせられていたら? そのときすでに、手遅れになっていたとしたら?
 ディランがあらゆる音楽や映画、演劇をかけてくれ、と歌う。それらがもし、ゴミのように消されていくとしたら? あらゆる人々が、先人たちの文化を芸術を、悲惨な歴史の上に立った言葉を忘れて「安らぎ」だけを求め、なにもかも忘れてしまうとしたら? 上からの"要請"に従い、一体化し、そこから漏れる人々や場所が姿を消しても誰も見向きもしなくなっていくとしたら? いつのまにか、闘ってきた人々の言葉や表現が排除させられていったとしたら? そのとき起こるのは「最も卑劣な殺人」ではなかったか?

 そうはなりたくない。それに知らず知らずのうちに加担したくはない。先に引いた岩本真一の言葉を思い出そう。混乱が社会を覆ったとき、大事なのは一体化を要請する社会に疑問を呈することだ。上から与えられるわかりやすいものだけを受容していては、その「疑問」は見えてこない。信頼できる人々や芸術との対話は決して無駄ではない。だから、僕はもう一度、自分の言葉で語り続けることを始めようと思ったのだ。






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