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村田雨月への私の誤解について(ネタバレあり)

 

 

映画 ギヴン』を観に行ってから、センチミリメンタルさんの「僕らだけの主題歌」を聴く度に涙が出てきて仕事にならないので、私の心の整理をするために、これを書かせてほしい。

 

これから書くことは、原作の漫画を履修していない、テレビシリーズと映画を見ただけの、私の極めて個人的な一考察であり、これが正しいとか他が間違っているとかを主張するものではない。
もちろん事実(原作)とは違うところもあると思う。
今更かと思われるところも恐らくある。
ネタバレもたくさんある。
少しでも読みたくないと思ったら、読まない選択を選んでほしい。

 

 

 

ここから、本題に入ろうと思う。
タイトル通り、ここでは『ギヴン』という作品の登場人物である村田雨月という男について、私が私の誤解を解くに至った経緯とその中で考えたことを記録していく。

前提として、予備知識なしで見たテレビシリーズと映画の冒頭から私が得た村田雨月の情報は、大学生でヴァイオリンの天才、秋彦の元彼で現在は肉体関係のある同居人。
これだけだった。

 

特にテレビシリーズでは、どこか怪しげな魅力を纏った天才として描かれていた印象だったが、今回の映画で、私の中の雨月の印象は大きく覆されることになる。

 

そもそも天才というのは、凡人には理解できない思考と感情を持つ者故に「変人」と称されることも多い。
殊更、芸術の領域における天才は感受性も豊かなことが多く、刺激から己を守るためか、内世界に閉じこもっていたり無感情に生きてい(るように見え)たりする者もいる。
そのために自分本位な人、他人を顧みない人と捉えられることすらあるだろう。
何を考えているのかわからない、誰にも左右されない自己があって、努力では到底辿り着けない領域に何食わぬ顔をして立っている。
特別で、ミステリアス。
その存在に慄き、惹かれない凡人は恐らくいない。
その才能に嫉妬し、立ち向かおうとする人も、そう思うからこそ惹かれてしまうのだろう。

 

私も初めは、雨月をミステリアスで人を惹きつける“ただの”天才だと思っていた。
天才だから、何を考えているのかわからない。
天才だから、秋彦を惹きつけた。
天才だから。

 

しかし、今回の映画で、特に雨月が真冬というもう1人の天才と出会ったことにより、彼の正体が私という凡人にもわかったように思う。

 

真冬と雨月は同じ音楽という世界に身を置く天才同士ではあるものの、2人の環境はあまり似ているとは言えない。
クラシックとバンド、ヴァイオリンとヴォーカル、大人と子ども。
住んでいる家も食べているものもきっと違う。
しかしながら環境以上に、彼らには決定的な違いがあった。

 

それは、感じたことの表現方法

 

真冬も雨月も、芸術の領域における天才としての標準装備と言っても過言ではない、豊かすぎるほどの感受性を持っている。
自分の気持ちはもちろん、他人の気持ちまで鋭く感じ取る。
ときに他人が隠しておきたいと思う気持ちまで。
こと感情についてなら一を聞いただけで十を知るなど容易いのだろう。

 

映画の冒頭で、真冬は秋彦が春樹に隠している素顔を見抜き、雨月の奏でる音色から何かを感じ取り、秋彦の横顔から失恋を見抜く。
さらに中盤では、秋彦への想いを見抜かれた春樹が咄嗟に吐いた嘘を見抜き、ライブ前日の自分の不安を感じ取り、雨月の話からその先までをも感じ取る。

そして、そのほとんどを相手にそのまま伝える

だから傍観している私の目には“人の機敏にも聡い”天才として映る。

 

雨月も、真冬と同じような鋭さで、真冬の才能を感じ取り、秋彦からの愛憎を感じ取り、自分の中で音楽への愛と秋彦への愛が共存し得ないことを感じ取ってきた。
映画の終盤では、ライブでの演奏を見て聴いただけで、誰が真冬や秋彦に変化をもたらしたのか、秋彦が今好きなのは誰なのかまで見抜く。

だが、雨月はこのほとんどを誰にも伝えない

感じた結果から弾き出した答えとしての行動が先に出てしまう。
故に傍観者の私は“何を考えているかわからない”天才と見なし、雨月をずっと誤解してきた。
私がこのことに気がついたのは、バンド演奏中の雨月のモノローグを聞いたときだった。
目に見える行動は、ライブを見る、ライブハウスを出る、これだけだが、その間には、見た姿や聴いた音から気持ちを感じ取って、別れを予期して、そこから逃げたいと思う心の動きがある。
映画の内容を遡るなら、新しい彼氏が泊まりに来るから帰ってくるなと秋彦にメッセージを送っただけの行動にも、真冬に話していた通り、愛する音楽を極めるほど愛する秋彦を苦しめることになるが、音楽を捨てて秋彦を選ぶことも、秋彦と繋いでいる手を自分から離して音楽を選ぶこともできないから、秋彦から離れてほしいと思う考えがあった。

 

雨月も当たり前に感情を持つ人間で、さらに言えば人より遥かに豊かな感受性を持つにもかかわらず、ずっと、「天才だから」と一括りに考えて彼を見ていた。
「天才だから」ではない。
人間だから、言葉にして伝えなければ、何を考えているかわからない。
人間だから、誰かを愛しいと思って、誰かに愛しいと思われる。
人間だから。
雨月もまた“ただの”人間だから、言葉が足りずに秋彦とすれ違った。

 

 

ここからは憶測なので読み飛ばしてもらって構わないが、雨月は真冬と出会って、恐らく初めて、または久しぶりに自分の感じたことをそのまま相手に話したのではないだろうか。
もしかしたら昔から、何を考えているかわからないという意を込めた「天才」の言葉ひとつで敬遠され、自分の感覚を人に伝えても無意味だと思うようになってしまったのかもしれない。
もしかしたら元から感情を言葉にすることが得意ではなくて、それを表現するためのツールとしてヴァイオリンがあったのかもしれない。
そして、秋彦も天才ではないものの、幼い頃からヴァイオリンや音楽に触れてきた人間故に、芸術領域に身を置かない人間に比べれば感受性は豊かなほうであると推測される。
現にバンドメンバーの変化や気持ちを何度も感じ取っていたし、春樹からの好意も見抜いていた。
(まあ、春樹の好意がわかりやすいのもあるが。)
そんな、感受性が豊かなほうに分類される秋彦は、少なくとも表面上の気持ちや欲求(わかりやすい好意も)なら感じ取れたはずであり、それに雨月は甘えていたのではないかとも思う。
言わなくても伝わる、わかってくれる。
その関係が過信から出来上がったものでなければ、結末はまた違っていたのかもしれない。

 

 

私はこの映画で雨月のモノローグを聞けたから、これらのことに、私が彼を私の理想とする“ただの”天才の1人と見なしていたことに、そしてそれが誤りであったことに気付くことができた。
言葉を発するヴォーカリストと言葉を発さないヴァイオリニストという対比があったおかげで、考えを整理できた。
テレビシリーズだけだったら、真冬と雨月が出会っていなかったら、きっと彼を誤解したままだった。
もしかしたらここまでの考察全てが的外れで今でも私は彼を誤解しているのかもしれないけど、こうして言葉にして綴ることで、これを読んだ誰かが言葉にして教えてくれたら、また誤解を解くことができるだろうと思う。

 

雨月はこれから、秋彦が隣にいない日常を送るのだろう。
ときに心と記憶の中の秋彦を頼りながら、生活を営むのだろう。
次に後ろを振り返るときまで、ゆっくりでも前に進んでいくのだろう。
大事なものは大事なままで、また新たに大事なものを見つけていくのだろう。

 

そんな彼がどうか、彼なりの人生を歩んでいけますように。
『ギヴン』の世界で生きる、感受性豊かな彼らが、周囲の感情に飲み込まれることなく、たくさんのことを感じ取って、それを言葉にして、幸せな未来へ進んでいけますように。
そう願ってやまない。

 

 

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