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マリオネ・テスタと空欄[K] 第五話

著・亮月冠太朗  絵・市川正晶


 

 金城拳聖(かねしろけんせい)。

 最初には、未夕ではなく……竹山でもなく、彼を生き返らせたかった。

 最後に言葉を交わしたのが彼だったから。

 何より、彼の声を聞きたかったから。

「よかった。生きてたんだな」

 生き返った拳聖の第一声。

「死ねばよかったのにな」

 そして二言目。歪んだ口元が彼の皮肉を際立たせる。瞳は苛つくほど無邪気に輝き、俺の反応を伺っている。

「本当に拳聖なのか」

「YES。俺は金城拳聖。中二の時にお前の好きだった外川美幸と付き合って一週間でふられた金城拳聖」

 背後で研究員がざわつく。いけない。

「そしてお前は俺がふられた二週間後に外川美幸にコクってふられた十灯(ともしび)」

「もういい。わかった」

「お互いガッついてたよな。あの頃は、お前」

「わかったから黙れ」

「ひとつ聞きたいことがある」

「何だ」

「卒業できたか?」

「誰かこいつの魄を抜け」

 昔と変わらないノリに喜びつつも、ついていけない自分が寂しい。しかし今の台詞は耳にひっかかる。

「死後の記憶があるのか」

「死後。あー……。あるような、ないような」

「時間が経ってることに気づいてるのは」

「お前が老けてるからだよ」

「あ。ああ」そうだった。あれから長い年月が経っているのだ。拳聖を前にして、どうにも精神が過去に引かれつつある。俺が今、いる場所を意識していなくては。

「ていうか俺、死んでなかったのか」

「いや、死んでいた」

 金城拳聖はサンシャインビルの火災事故に巻き込まれて死亡した。しかし、今俺の目の前にいるのは紛れもなく本物の金城拳聖だ。 

 お前は生き返ったんだよ。

 拳聖は目を見開き、お前、と何か言いかけたが、俺の目をじっと見て、やがて口をつぐんだ。そのまま静かに息を吐き出し、ちょっと落ち着かせてくれ、とその場に座り込んだ。

「色々と言いたいことがあるけど、うまく言えない」

 すうう。はああ。

 呼吸。

 俺たちが毎日、当たり前のこととして行っている呼吸・だが。

 彼にとっては久方ぶりの、生命の律動。

 人形に呼吸は必要ない。食事も排泄も要らず、魄さえあれば永久に稼働し続ける。しかし俺は彼らに呼吸し、食事し、排泄する機能をつけた。

 それは彼らに、生き返った実感を与えたかったから。

 感謝され、赦されるために。

 拳聖が俺を見上げる。

「俺、本当に生き返った・んだな」 

 彼の瞳が、わずかに、潤む。

 ああ。その涙をずっと見たかった。震える睫毛の先までも愛おしく俺の心の膜を突き破り深奥でうずくまる子どもをそっと抱きしめる。失われた光景。失われた会話。引き替えに手にした孤独と罪悪。トントントンと足音ひとつ、あの日から今日まで歩いてきたのだ。解けた靴紐を結ぶこともせずひたすら、ひたすらに光を求め続け、ただれた瞳に映るものを憎み、炎に焼かれた過去を睨み、足を動かし続けた。

 俺は何も見えていなかった。しかし、すべてが見えていた。この世界のすべてが見えているという確信があった。

 俺は間違っていなかった。

 全員、生き返らせる。

 拳を握った。爪が血流に食い込む。

「このまま他の人形にも魂を注ぐ。準備しろ」

 研究員に声をかける。彼らは速やかに返事をし、機械のようにきびきびと動く。皆、自らすすんでこの研究に協力してくれている。言わば同志だ。

 彼らもまた、それぞれ大切な誰かを喪い、生き返らせようとしているのだ。

 俺と研究員との会話を聞いていた拳聖が、首をかしげる。

「人形?」

「あとで説明する」

 今は存分に、生命を感じていろ。

「部屋を用意してある。自由に使っていい」

「すごいな」

 研究員のひとりが拳聖を外へ誘導する。俺は彼に部屋まで案内するよう言い、意識を他の人形へ切り替えた。

 部屋を出る間際、拳聖が振り返る。

「十灯」

「何だ」

「ごめんな」

「……何がだ」

「お前はずっと」

「やめろ」

 そんな言葉が聞きたくてお前を生き返らせたんじゃない。

 俺は振り向かない。

沈黙が続き、しばらくして、扉が閉まる音が部屋に響いた。

「そう、上手くいったんだ」

 僴間莉瑠(かんまりる)は嬉しそうに微笑んだ。

「君のおかげだ」

「私は何もしてないよ」

 彼女は、水で満たされたカプセルの中に浮かんでいる。

 全身をチューブで繋ぎ、そこから魄(はく)を吸い取っているのだ。魄の研究は順調に進んでいる。彼女のおかげで、人形に魄を循環させる構造を開発することができ、さらに魄を効率よく取り込むための、魄の粉末化にも成功した。

 本来ならば、ひとつの幽体からこれだけの魄を抽出することは不可能だ。しかし彼女は、誰かのからだの中で臓器だけが生き続けている。その臓器から魄を得ているのだ。

 臓器移植をした人間は、半永久的に幽霊で居続ける。彼女は詳しく語らないが、おそらく、彼女の臓器が世界中で移植されていることは、彼女の死因と関係があるのだろう。

 それは、彼女の人生そのものを利用しているようで、心苦しい。

「いや、君のおかげだ。本当に……」

 この研究のおかげで、彼女の死が少しでも報われたのだと思いたかった。

「ね、それより、前に話したこと」

「わかってる」

 一目、兄に会いたい。

 はじめ、魄を提供してほしいと頼んだとき、彼女はそう言った――

「君の兄はかならず見つける」

「ありがとう」

――すでに見つけているのだが。

 話すのは、すべてが終わってからだ。

「始めよう」

 遂に皆が生き返る。

 胸に手を当てる。俺は遂に、この苦しみから解き放たれるのだろうか。自由になった自分を想像することができない。しかし、そうなるのだ。

 鳥籠から大空へ舞い出たカタハの鳥のように、何者からも、自分からも離れて、遠くへ行くのだ。

 俺は自らの背中を押す。

 さあ、新しい世界へ行こう。

 十九体の人形に一度に魂を注ぐために、隣の大部屋までケーブルを伸ばした。人形を一列に並べ、一斉に魄を流し込む。研究として、彼らを一度に起動させる必要はなかったが、俺がそうしたかった。一刻も早く、皆を揃わせたかった。

 拳聖を呼ぶ。クラスの全員が揃うためには、彼が不可欠だ。

「さっき案内してくれた子からいろいろ聞いたぜ」

 お前が今まで何をしてきたのか。俺がどうやって生き返ったのか。

「余計なことを」

 研究員に指示し、機械を稼働させる。

 人形に魄を流し込む。隣室の莉瑠からケーブルをつたって、魄が運ばれて来る。

「死んだあと、どうしてたんだ」

 ふいに拳聖に聞く。莉瑠の死後の話を聞いて、気になったのだ。彼も死後、いろいろなことを考えていたのではないか。

「死んだあとは……何もなかったな。黄泉の国だとか天国に行った奴はどうか知らないけど」

 答えは予想の斜め上を行っていた。

「天国が実在するのか?」

「あったよ。みんな行ったんじゃないかな」

「お前はどこにいたんだ」

「三途の川ぶらぶらしてた」

 渡ったら帰ってこれないと思ったからな。もしかしたら、他の誰かも来るんじゃないかって、待ってた。

「でも、誰も来なかったよ」

「……幽霊は自分に都合のいいものしか見えない」

「それ映画の台詞だろ。ブルース・ウィルスの」

「台詞じゃない。真実だ」

「……うん。そうか」

 そうかもな。だって、二十人みんな死んだんだもんな。俺が、認めたくなかっただけか。皆が川を渡るのを、見たくなかったんだ。

 拳聖の顔が暗くなる。こんな話をしたかったわけじゃない。

「大丈夫。みんな、もうすぐ生き返る」

 拳聖の肩に手を置く。彼は俺の顔を一瞥し、長く息を吐いたあと、やさしく俺の手をどけた。

「ほとんどの奴は生き返らないと思うぜ」

「……何を言っている」

「さっき言っただろ。黄泉の国とか天国に行ったからだよ」

 イザナミの話は知ってるだろ。イザナギは愛するイザナミを蘇らせるために黄泉の国を訪れたが、国の食べ物を口にした彼女は、もう現世には戻れないからだに変わり果ててしまっていた。

「生き返れるのは俺みたいな変わり者か、自爆霊くらいだよ」

「いや、全員生き返れる」

 俺は、魂の話をした。

 人が死んだとき、三つに分かれる魂。そのうちのひとつは天に昇るが、他は現世に何らかのかたちで留まっている。その残っている魂を人形に入れれば、誰だって生き返ることができる。

 拳聖は口を半開きに、深刻な顔で俺の話を聞いていた。何言ってんだこいつ、とでも言わんばかりに。

 彼は言葉を選びながら話し出す。あー、そうだな。確かに、そう、生き返る。

 生き返るが……

「……それは別人だ」

 だって、足りないんだからな。本来、三つで一つだったんだから。ひとつでも欠けてる時点で、それは本人じゃない。

 その人だと言えるのは、天国や黄泉の国に行っていない奴だけ。俺みたいな。って、しつこいか。

 拳聖の瞳に俺が映っている。目の爛れた痩せ型の、疲れた男が。

「まあ、いいんじゃないか。別に本人じゃなくても」

 拳聖は話し続ける。お前は謝りたいだけなんだから。赦されたいだけなんだろ。いいじゃないか。人形を並べて、好きなだけ頭を下げればいい。満足した頃に言ってやるよ。「もういいよ」って。

「違う」

 どこか欠けていても、それは本人だ。間違いない。俺は眼を失っても俺だ。からだを失っても拳聖は拳聖じゃないか。どこか欠けても、人の核に傷がつかない限りは――

「だから、その核が欠けてるんだろ」

――全身から体温が奪われていく。

 そんなはずない。俺はすべてが見えている。みんなを生き返らせるんだ。散歩にも、みゆにも会いたい。竹山だってそうだ。俺は今日まで何回も、生き返った竹山に何を言おうか考えてきたんだ。

 拳聖は俺の肩をつかみ、眼をまっすぐに見つめた。

「俺だけで満足しろ。あの日にも言ったが……お前は悪くない。もういいんだ。楽になれ」

 この機械を止めろ。

 声が頭に響く。彼の瞳をしっかりと見つめ返すことができないのは、眼がただれているから、ではなかった。足が止まってしまいそうだ。ずっと歩き続けてきたのに。そうだ、ずっと歩き続けてきた。ただ、皆を生き返らせることだけを考えて。光はもう目の前にあるのだ。それが希望の光か、絶望の篝火か。つかまなければわからないのなら、俺は迷わず、つかむ。

「続けろ」

「お前」

 一体ずつ、人形が眼を開いていく。

 瞼をぱちぱちと上下させながら、生命のスイッチを入れられていく。

 一度は消えた、人生という名のロウソクに。まばゆい明かりが――

「みんな、おかえり」

――灯る。

 未夕。竹山。散歩。前田。吉岡。鯖山。大田口。木下。石神井。美紀。岩下。林田。武実。啓汰。近藤。西尾。君子。白井。真理。そして、拳聖。

 全員が生き返った。悩み、研究に費やした時間は莫大なものだったが、再会はあっけない。

 すんなりと、淡泊に。

 俺の悲願は叶った。

 まだまったく実感が湧いてこない。目の前の光景が信じられない。本当にみんな、生き返ったのか。ひとりひとりの顔を確かめていく。

「そっか、私、死んだんだ」未夕が呟く。

「あ。あああああ」竹山が眼を見開く。

「みゆ……?」散歩が驚いたように未夕を見る。

「きみ、もしかして十灯くん?」前田が俺の顔をのぞく。

「私たち、生き返ったの?」吉岡が言う。

「でも、どうして」鯖山が言う。

「み、みっちゃん」「将くん」大田口と木下が抱き合う。

「あばばばば」石神井が笑う。

「ちょっと、なんか石くんが変だよ」美紀が言う。

「おぼぼぼ」岩下が泣く。

「が、岩ちゃんもだ」林田が言う。

「」武実は何も言わない。

「生きてる……」啓汰が言う。

「どうしてみんな俺を笑うんだ!」近藤が叫ぶ。

「お、ぱぱぱぱぱぱお」西尾が震える。

「ぶ、ぶぶぶ」君子は仰向けに倒れた。

「熱い……熱い……」白井が悶える。

「みんなちゃんと宿題やったの」真理がいらつく。

「だから言っただろうが」

 様子がおかしい。

「だって、足りないんだからな。本来、三つで一つだったんだから。ひとつでも欠けてる時点で、それは本人じゃない」

 拳聖の言葉が蘇る。

 これは、成功ではないことは確かだった。

「いや、でも、みんな生き返った」

 失敗ではない。不完全ながらも、みんな生き返ったのだ。それも確かだ。

 拳聖は黙ってみんなを見ている。

 ふと、美紀が石神井の腕を食べ始めた。

「石くん変! 石くん変!」

「ちょっと美紀! 何やってんの」

 あわてて散歩が止める。美紀を引き剥がすと、石神井の傷口から蛍光色の魄が滴った。散歩が小さく悲鳴を上げる。

「なによ、これ。どうなってんの」

 三白眼が俺を睨む。そうだ、みんなに説明をしなくては。説明をして、謝って、そして、赦してもらわなくては。

「みんな、聞いてくれ」

 みんなが……数人は呆けたように天を仰いでいるが……こちらを向く。冷や汗が肌をつたう。これでいいのかという疑念を抱きつつも、坂を転げ落ちるように勢いを止められず、俺は話しはじめた。

「みんなは、死んだんだ。俺のせいだった。俺が、みんなを殺した。そうなんだ。だから俺は、みんなを生き返らせなきゃと思って、いろいろと、研究をして、はは、時間はかかったけれど、ついに生き返すことが出来たんだ。みんな……みんな、本当にごめん」

 ひざまずく。頭を地面に擦りつける。どうか俺を赦してくれ。ずっと自分を責め続けてきた、愚かな俺を!

 あんなに苦しかった夢も――

「そんなこと言われてもな」「どうでもいいよ」「私たち、死んだんでしょ」「もう、何もしたくないんだよ」

「生き返っても、嬉しくもなんともねえよ」

――覚めてしまえばあっけない。 

 そうじゃないだろう!

「お、おい竹山!」

 竹山のもとへ駆け寄る。お前が、お前が一番むごい死に方をしたんだ! 爆発の一番近くにいたから、頭も、体も、ばらばらに弾け飛んだ。俺はお前が嫌いだったけれど、でも、死んでもいいとは思ってなかった。お前が俺にしていたことは、確かにひどかったが、死ぬほどのことじゃなかった。そうだろう。

 竹山は白目を剥いて笑っている。

「俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ。俺のせいだ」

 おい……聞けよ……。

 まるで精神科病棟だった。

 壁に眼の絵を描き続ける者、他人の腕を食いちぎる者、天井に喋り続ける者。様々だが、どの者の行動も常識の範囲を超えていた。

 正常なのは、拳聖と散歩、未夕の三人だけだった。いや、厳密には拳聖と散歩の二人だ。

 未夕は僅かだが、やはりどこか狂っていた。自分から魄を飲もうとせず、毎度散歩に注意されている。そして何故か、莉瑠に興味を持っている。彼女はよく研究室を訪れ、莉瑠と何か話をしているようだった。

 理想とは程遠い、現実。

 でも、これでいい。

「みんな、たのしそう」

 笑った。あはは。

 みんなも笑ってる。幸せ。

 ここは幸せだ。

 みんながいて、動いていて、たのしい。

 だから、俺も、たのしい。

 あ、啓汰が舌を噛んで倒れた。魄が飛び散り、あたりが蛍光色に染まる。いや、この部屋はもうとっくに魄まみれになっていた。

 まあ、華やかでいいじゃないか。

 もう、どうでも……。

「十灯。なにボケッとしてんの」

 背後からの声に振り向く。散歩だ。

「凹むのは勝手だけどね。あんたがしっかりしてもらわなきゃ困るのよ」

 とりあえず研究員と一緒に薬は飲ませてるけど、あんなに飛び散らせてたら意味ないんじゃないの? 彼女は肩をすくめてあたりを見回す。確かに、あれだけ魄をまき散らしていたら、薬を摂取する意味はない。取り込む量よりも失っている量の方が多い。

 もう、死んでも構わないさ。俺はちゃんと、みんなを生き返らせたんだ。俺を赦さないのは、奴らの勝手だ。いいさ。俺は拳聖に赦されたんだ。だから、もういい。満足しよう。満足して、全部終わりだ。

 竹山が爪で喉を毟り取った。

 魄が空を舞い、雨が降る。

 どうして死にたがるんだ。もと居た場所に、帰ろうとしているのか……?

「ぐ、げげげ、ぎ」

「ちょっと、太平おかしいんじゃないの」

 彼のからだがひび割れていく。目が窪み、暗黒の両目が浮かび上がる。

「なに……」

 筋肉が皮膚を突き破り外へ躍り出る。喉が大きく膨れ上がり、かえるのようになる。

 なんだこれは。

 そこにいるのは――

 竹山の足下に、袋が落ちている。隣で散歩が呟いた。

「太平、魄を飲んでない」

――蛍光色の液体を滴らせた、醜い怪物だった。

『拳聖!』

 左脚が、怪物の胸を貫いた。怪物の肉体を閃光が走り、膨大な熱量が侵す。それが中心に収束し、弾ける。

 その間際、怪物がわずかに、笑ったような気がした。

『あんたッ』

 熱が激しく全身を覆い、衝撃の波に襲われた。そのまま吹き飛び石畳へ叩きつけられる。怪物の破片が、ぱらぱらとあたりに降って散らばった。

 見上げる。そこにはもう怪物の姿はない。

 空に取り残された兎鷺が、雲に覆われ輪郭を失った月に照らされ、心が捻じ切れるほどの叫び声を上げた。

『勝手なことしてくれるわね』

 未夕を助けたいのは私の方なのに。頭の中に声が響く。これは一体どうなってるんだ? 怪物を殺した余韻に浸ることなく、僕は自身に起きたことについて考えていた。

 ふと振り向くと、社務所の窓に自分の姿が映っている。しかしそれは僕ではない。風に揺れるポニーテール。膨らんだ胸に、華奢なからだ。右腕は失く、右肩からは筋繊維のような赤い紐が飛び出ている。

 そこに映っているのは散歩だった。

 左手を差し出すと、目の前の散歩も手を前に出す。窓を境に、手が触れ合う。僕はどうなってしまったんだ。散歩と合体・しているのか?

『この人形の中に、私とあんた、二つの魂が入ってるのよ』

 成功するとは思わなかったけど。散歩が言う。

 僕は死んだのだろうか。あたりを見回すが、僕の体はどこにもない。胸を貫かれ血塗れになった体は、どこへ行ったんだ。

 さっきまで僕がいた場所には、魄の薬だけが置かれている。盗んだものだろう。

『とりあえず、あんたは大丈夫』

「僕の体は?」

『莉瑠に会えばわかる』

 どういうことだ。散歩の確信を持った言葉に戸惑う。

「莉瑠は、僕らみたいに人形に入ってるってこと?」

『そういうわけじゃないんだけど。似たようなものよ』

「君たちはどうして、僕を莉瑠に会わせたいんだ」

『会うべきだから」

「……」

『未夕はそういう子なのよ。自分の身を削って、いつも痛い目を見る』

「散歩は」

『……何が」

「散歩はどうしてここに来たの」

『どうでもいいでしょ』

「……」

『……未夕を助けたかったのよ』

 助けられてばっかりだから。近くにいて、助けたかったの。彼女の声は淡々と、僕の心の表面すれすれを掠めて行く。

『満足?』

「……ごめん」

『いいのよ』

 早く行きましょう。莉瑠が待ってる。河の流れるように、散歩の言葉に従おうとする肢体に、ふと意識が引っかかる。莉瑠に会いたいが……ちょっと待ってほしい。

「そうだ……パスケース」

 あの日、莉瑠から盗んだパスケースがなくては。

 あれがないと、きっと莉瑠は成仏できない。

 パスケースは家だ。一度帰ろう。いや、この格好で? ……うん、大丈夫だろう。両親は家にいないはずだ。あれ、なんでいないんだっけ……。

 ああ、ああ。そうだ。今日は仕事が遅くなるから……会社に泊まるって……ことだ。ソレハ、父サンガ、カ。

 母サンハ? ア……同窓会デ実家二帰ッテイルンダ!

「うん、家には誰もいない」

『いえ、このまま研究所に向かいましょう。莉瑠が待ってる』

「あれを返さなきゃ、会う意味がない」

 ここから家はそう遠くない。帰るだけの時間はあるんじゃないか。

『莉瑠が……待ってるのよ』

 やっぱり。彼女は何か隠してるんじゃないか。僕はひたすら人の顔色をうかがって盗みを働いてきたのだ。違和感に敏感な自分には自信を持てる。

足を家へと向け進む。最初は何かと僕を止めようとしていた彼女だったが、ひたすら無視して歩くうちに、諦めて何も言わなくなった。

 空気がしんと冷たい。目を覚ましたように肺が縮まり、僕は瞳をいっそう見開いた。

 程なくして家の前に着いた。

 いや、正確には「家の前に着いたはずだった」。

「なんだ……これ」

 家が建っているべき場所は、更地になっていた。

 まさか怪物に襲われたのか。いや、地面から雑草が生えている。数年前から何も無かったかのように。あ……あっ?

 僴間眞紘は思い出した。心臓をつかまれたように、或いは息を吸い出されたように、ある場所へ意識を引っ張られる。

 あ……?

 霊園……へ……行かなくては。

 からからに乾いた指先。霞んだ灰色の視界。暴力を孕んだフラッシュバックは僕の魂を口から外へと引き摺り出す。気がつくと僕は踵を返し、コンクリートの道を砕いて走り出していた。

全身で風を切る。からだは細い足からは想像できない速さで進んだ。頭の中で散歩が叫んでいる。

『ちょっと、落ち着いて』無視する。

 霊園は怪物に荒らされてめちゃくちゃになっていた。土が掘り返され、墓石が砕かれ、卒塔婆が折られている。莉瑠の墓は無事だろうか。いや、あの墓は莉瑠だけのものじゃなく、きっと……。

 墓は無事だった。あのとき、兎鷺と散歩が守ってくれたのだろう、ここら一帯の墓はどれも無傷だった。

 僴間家之墓。その隣に墓誌が立てられている。

 僴間莉瑠。

 そしてその隣に刻まれている名前は――

「あ」

 あっけなくもそれが最期の言葉となった。

 鈍い音とともにからだが四方へ吹き飛ぶ。

 目に映る光景には――朝陽に煌めく赤い飛沫、目を丸くさせた運転手、ホームに並んだ灰色スーツが一様に僕を見つめている――それらが弧を描くように視界から消えて、最後には一面の青空になった。

 ああ、死ぬんだ。

 感覚でわかった。実感があった。僕は死ぬ。線路と自分との間が温かいのはきっと血だろう。遠くできこえるサイレンはここへ向かう救急車だろうか。いや、それにしては早すぎるか……。

 ・・・じゃ僕はここで死ぬんだ。心残りがないと言えば嘘になる。心残りもなく死んでいく人間などこの世に一人だっていないだろうけれど、その心残りに目を瞑って、自分の半生(今となっては人生そのものだが)を振り返ってみれば、それほど悪くはなかった気がする。

 もとよりこれまで、死んでいるような生き方をしてきたんだ……死んだところで、何かが変わるわけでもない。

 ともかく自分はこのまま死ぬらしい。という今の時点で、とっくに心臓は止まっていた。

 二○○一年六月九日午前九時。小さな駅の線路の上で、いともあっけなく、僕は死んだ。

――僴間眞紘。

 思い出した。これは僕の記憶だ。

 僕はとっくの昔に死んでいたんだ。

 通勤ラッシュの電車に跳ねられて。

 もう何年も前に……死んでいたんだ――

――

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――自然と足が動く――

――散歩だ。

「……ここはダメ。未夕が来るかもしれない」

「……」 

「……」

「……知ってたんだろ。僕がもう死んでるって」

「……幽霊は自分に都合のいいものしか見えない」

 散歩が言う。私もそうだった。このからだに入るまで、何年も何年も、サンシャインビルをさまよっていた。ずっとみゆを探していたんだ。彼女はもうあの世へ行っていたのに。馬鹿みたいでしょ。

「……」

「私たちは、十灯に生き返された。嬉しかったけど……死んだままの方がよかった」

 みんな、どこか不完全で、何か欠けているようだった。

 何か大切なものを、あの世に忘れて来たみたいで。見た目も、声も、仕草も、間違いなくその人なのに、どこかが決定的に本人と違っていた。それで私は思ったの。

「生き返ったこと自体が、間違いなんだって」 

 死者にとっての幸せは、生き返ることじゃない。

 成仏することだ。

「だから、あんたもちゃんと死ぬんだ。莉瑠と成仏するんだよ」

「……莉瑠」

 僕は数年間、この街をさまよっていた。道行く人々の財布を盗んだ気になって、ありもしない家に寝泊まりしていた。

 そして、莉瑠の墓場に欠かさず足を運んでいた。

 あると思っていた生命や、生活が消え。

 消えたと思っていた莉瑠の存在が、ここに残った。

 何もない、何もない。

僕の掌には、何もない。

 つかまえに行かなくては。

 僕が僕である理由。

 僴間莉瑠。

 風が鳴き僕の背中を叩いた。上昇し、雲を突き抜け天まで吹く。そこはどんな場所だろう。何の罪もない場所だろうか。誰も莉瑠を傷つけない場所だろうか。痛みもなく、苦しみもなく、悲しみもなく、一滴の血も涙も流れない場所だろうか。

 そんなの空っぽだ。

 僕は彼女に伝えなくてはならない。

この世界の、いや、この僕の、罪と、痛みと、苦しみと、悲しみを。

 僕は彼女の手を掴みたい――

「行こう。莉瑠のもとへ」

――そして、二度と離さない。


続く

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『マリオネ・テスタと空欄[K]』 著・亮月冠太朗 / 絵・市川正晶

担当編集:水井くま

編集・日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT

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