ふきのとう

風が止んだら

著:高岡 はる


 裏庭で採れたふきのとうは、天ぷらにすることに決めた。古びた中華なべを台所の戸棚から取り出すと、お久しぶりです、とでも言うように雄々しく、その姿を主張した。持ち手ははげかけ、中の鉄板部分は、あの新品だった頃のぎらぎらとした銀色の光沢は、なくなってしまったが、年月を経て得た貫禄のようなものが、なべ全体を覆っていた。

 

 ナベは中華ナベが、いっちゃん良いけんのおう。

 

 母はでたらめな方言を使い、ご自慢の中華なべで夕飯によく揚げ物をあげていた。料理は取り立てて上手いというわけではなかったが、なべに対してだけは強いこだわりを持っていた。わたしは今でも忠実にその教えを守っている。ザルから取り出したふきのとうに、アク抜きを丁寧にほどこしていく。

 

 より子、ナベが重要やけんね。よく吟味せんと。

 季節に忠実なら、何揚げてもいいけん。

 

 水の粒がぶくぶくと、膨らんでは縮んでいく。湯加減はいかがでございますかぁ。タイマーをセットして、正確なアク抜きの時間を設定する。あとはコロモと油の準備に取り掛かることにした。中華なべに油をこれでもかと注ぎこみ、コンロに火をつける。台所にある窓からは風のせいで新緑と枯葉がはらはらと落ちていくのが見えた。まるで季節はずれの大雪でも起きたのかと錯覚しそうになる。窓からは、葉の音は拾えないが、きっと風に揺られ無数の落ち葉がこすれ合う音がしているはずだ。わたしは季節を揚げている。

 はるに採れたふきのとう。中華なべの中、油の海で踊っている。火照ったからだはいい感じに照りだして、きつね色へと変わってきた。

 

 わたしたち今季の旬です。売れっ子なんですのよ。

 ふふふ、そんなくらいじゃホダサレません。

 

 ぱちぱちとはぜる油の粒が、わたしの顔めがけて飛んできた。むっとしたので、思わずさいばしで一つ掴み、口に入れてみる。ほのかな酸味が鼻をついた。少し若いコを湯がいたかしら。土に植わっていた時の匂いが、舌を通して伝わってくる。すべてが中途半端に絡みあい、どうやらうまいのか、まずいのかよくわからないものまでも、揚げてしまったらしい。味をつけていないふきのとうからは、野生の味しかしない。

 さくさく、ぱりぱり。咀嚼しながら、そのままコンビニで買ってきたビールのお供にする。時計はいつの間にか午後一時を指していた。はらはらと散っていく葉を見つめながらわたしは口内に広がっていく、はるを噛み砕く。ふきのとうを揚げたのだから、今年もきっと土と空から湧き出す暑さと共に、ぎらぎらと輝いた夏がやってくるのだろう。風が強くなったせいか、窓はかたかたと震えている。風が止んだら、サトルの家に行こう。そういま、決めた。ヨダカな彼のことだから、今は寝ているだろう。

 

 よっちゃん、僕は今から出かけるけれど、どうする?

 わたしは行かない。

 よっちゃんが思うほど、夜の外は怖くないんだよ?

 そうかもしれないわね。でも、行かないわ。

 

 サトルは夜に出て行って、朝日が昇るころ家に戻ってくる。それが耐えられなかった。ぐつぐつと煮詰まる油のように、わたし自身が焦れていく。暗闇と海が怖い。わたしの傍に彼がいないことよりも、こちらの恐怖心の方が勝った。一生この山のふもとで暮らして、たまに会いに行けばいい。わたしは季節と昼を見守って、サトルは夜と海を監視する。

 サトルのごつごつと骨ばった指が絡みつき、ゆっくりとわたしの腹を撫でる。何度もわたしの臍の回りをさすりながら、それは腕を伸ばしていき、腰へと延びていく。首筋にそっと口つけられれば、もう眠りの中へ落ちていける。ただまっすぐに意識が下降して、はっと気が付けば、隣に寝ていたはずのサトルはいない。陽が空の中心に昇った頃になって帰ってくる彼の体からはいつも、不快な塩の香りがした。じりじりと暑い焦燥が、体の中でくすぶり、わたし自身を家に縛り付けてでもいるかのようだった。一緒に暮らせたのはほんの数週間程度だ。一人で朝を迎えることは、一人きりで寝起きしてすることよりも、辛かった。

 サトルの家を出た朝は、まぶしいような青天だった。まだ彼は帰ってきてはいない。出るなら今しかない。そう直感してわたしは、自転車に飛び乗った。鎖がさびついてしまって、ブレーキをかけると、チェーンとタイヤがきいきいと叫ぶ。それでも、わたしはペダルを漕ぎ続けた。

 

 中華ナベに残った油が固まり始めて、ゆっくりと白くなっていく。この油はアブラミにでもなりたいのかしら。脂取り紙で吸い取ると、鉄の底にはまだ焦げ臭さが残っていた。冷水につけた途端じゅうじゅうと水がはぜる。あとは洗剤に付けておけば、夕方帰った頃でも簡単に片付く。

 自転車に空気は入れたっけ。一緒に暮らせないのならせめて、わたしから会いに行こう。白シャツと紺のベストの上に、あさぎ色のマフラーを巻いた。玄関を開けると、風がぴたりと止んだ。落ち葉が、規則性なく落ちていく。若葉ギンガム色の自転車は私の愛車「サリー」だ。サドルに腰をかけると、スキニージーンズをはいた太ももがきゅっと締まる。

 

 たまにならよっちゃんに、会いに行ってもいいかな。

 だめ。絶対にそんなことしないで。

 

 わたしが出て行った次の日の朝方。裏庭の柵から情けない目つきをした真っ黒な瞳が、こちらを見つめていた。彼から香るのは風呂上がりの汗とシャンプーの香り。水分が溜まった湯上りの耳には、水分を孕んだ髪の毛が、陽の光に照らされて黒く光っていた。

 

 季節を揚げる気になったら、わたしの方から出向くわ。

 それ以外は?

 行かないし、会わない。

 まあ、会えなくなるよりはマシか。

 

 ため息をつくと、サトルはもういなくなってしまった。自分で言い出したことなのに、なぜそうも早く食い下がるのかと、少し苛立つ。

 春と夏。秋と冬の節目に二回。うまく揚げることができれば、どんなに社会が変化しようと季節は色付いてくれる。そしてわたしは何も考えずに、サトルに会いに行くことができる。ヨダカな彼のことだから。昼は決して起きない。その寝顔を見にいく。

 わたし達の関係は前進することはない。目まぐるしく変わる世界とは違い、ずっと一点に留まったままだ。けれどそれでいい。もう何百年も目まぐるしい日々に季節を与えてきた身としては追いかけるよりも、迎えに行くくらいが丁度いいのだ。

 

 ペダルに力をこめる。止んでいた風がまた吹き出した。肌に当たると、すでに生暖かく、わたしのショートボブの毛先に触れていく。じりじりと胸を焦がすというよりは、泣き叫び、わめき散らしてしまいたいような、憎い太陽と共に本格的な夏がすぐそこまでやってきていた。


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『風が止んだら』 著:高岡はる

担当編集:水井くま

編集・日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT

 

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