44問を終えて

44問答えた後、不意に追加要素が浮かんでくる事がよくある。44問の話だけじゃないけど。
そういやこれ想定してなかったな、これ書けばよかったかな。この前提書かないとわからないんじゃないか?とか。
そもそもどこから書けばわかりやすいんだろう……?とか、特に俺の癖としてあるのが、自分の思考を外に出そうとして前提条件を説明すると長くなりすぎるのでなるべく短くして伝えたいってのがある。そのために要点を絞って伝えることになり半端に伝わらないとかよくある。
想定してる範囲が非常に広いんだけど取りこぼしもよくあるので割と信用できない。めんどくさいやつだ。
視野が広いといえば聞こえはいいんだけど木を見ないのは困ったちゃんだわね。こまけえこたいいんだよ。

他の人の44問を見て思ったりも当然する。そういう視点の差がわかるのがこういう思考実験のいいところ。持論が増えるってわけじゃないんだけど。その観点から自分が考えるとどうなるか、意識する場所が増えて解像度が増える的な?本を読む理由もこれが含まれる。
で、本を読む事に対する答えの「妙な偏見の形で入り込む可能性がある」ってのは自分ではこの解像度を増やして自分はどう思うかっていうのを自然とやっていて、他の人はなんとなく妙な偏見として取り入れてないか?と言う場面を見ると言うのはあるかもしれない。そのひとつの例が「現実にこんな~はいない」
多分勘違いされるんだけどこれは俺が優れていると言いたいわけではない。得意なことが違うので、別の得意なことの現れとしてそんな思考になるんだと思ってる。逆に俺がその思考をやろうとすると下手な使い方になると思う。天は二物を与えず。
この場合はまんま現実的な視点が弱いってところなのかな?安直すぎるかもしれないけど。とは言え、大言壮語なのは否めない。44問だって現実的にどうよって条件を加えたらもうちょっと大人しくなるよ。全部理想論だ。

そういう視点の差っていうのは自分を知るための材料にもなる。他の人はこう考えてるみたいだけどなんでだろう?っていうところから人の考え方を調べたり推論したりして、その考え方を使うことにより俺はこう考えてるんだなと自分を知る材料が生まれるって言うわけだ。
ふと思ったことの中に自分が好きなものがどうして好きなのか、どうしてこう考えているとか、昔から自分でもよくわかっていないのだけどある程度固まってきたのってこの作業を続けてきたからなんじゃないかなって思う。
習慣的にやってたこととかに疑問を持ちやすく、なんでやってるんだろう?→ちょっとやめてみよう→別になくてもいいじゃん?とかもよくある話。

これに関連して、まず「言葉の意味」でなく「言葉のニュアンス(雰囲気や語調や語り口、論理的感情的、と言った非言語的なところ)」を使って会話したり文章を読み取ったりするのがどうやら俺の日常らしい。
これはどういうことかというと、言葉の「辞書的な定義」よりも言葉の「由来」みたいのものを重視する性質らしい。なんていうかその言葉がどのように、どういう意図や背景を持って生まれ、どのように使われているのか。そんなものを重視している。
なので定義ではなくどんな使い方をすればいいかを把握して、一般的にはどんな使われ方をしているかを把握して、会話等であれば相手がどんな使い方をするかどんな印象を持つかを見て会話とか文章の組み立てをしている。
そもそも固有名詞を除いて言葉に一義的な定義等存在せず、解釈と使い方次第で変幻自在とでも言いたいかのようだ。固有名詞は除いて。「転じて」みたいなの好きだしね。基礎抜かして応用見るやつ。
そして「誰が言っているのか」でもなく「何を言っているのか」でもなく、「どういう意図を持って何を言わんとしているのか」で人を見ている。

他にも文章を読んでてよく思うんだけどなんか「硬い」とか「ふわふわしてる」とか「なんか楽しそう」とか「面白い」とか「スルスル頭に入ってくる」っていうのを内容じゃなく発話とか文章の雰囲気から読み取っているらしい。
これは強い言葉を使っているとか感情語(楽しいとか悲しいとか)が多いわけじゃなく、俺の知覚の問題なので本当に言語化しにくいところ。内容はまともなんだけどなんか嫌な感じがするとか、助けを求めるように見えてなんか裏の意図を感じるとか、論理的な文章なのに途中からなんか感情混ざってるなーとかよく感じる。なんか、微妙に違うの。本当に。信じて。

ちなみに俺の文章は自分でふわふわしていると思う。あとなんか行ったり来たりしてる。通り過ぎたと思ったら逆からでてきたなんてこともしょっちゅう。八雲紫かお前は。

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