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母親の役割って何だろう?私は役割を果たしたのだろうか…

付き添い入院中、「親」ではなく「母親」である私へのプレッシャーを感じて不安でした。親としての責任はもちろんありますがそうではなくて、例えば子どもの変化にいち早く気づくお母さん。子どものためなら自分を犠牲にするお母さん。子どもだけでなく周囲への気遣いもぬかりなくやるお母さん。そしてとにかく社交的なお母さん…。

一応期待されることはやったと自負しています。期待されたレベルに達しているかはわかりませんが…。でも結果、子どもが安心して治療に専念できて退院が想定より早まったのだからこれで良かったんです。私頑張ったなって感じです。

それでいいんだけど、何か心のザワザワが私にはずっとあるのです。
本当は心身共に疲弊して笑顔でいたくないときも多かったけれど、期待されるまま、女性らしい大らかさを持ちながら男性のような決断力がある「肝っ玉母さん」を私はやり切った。

やり切った一番の理由は息子に不安や罪悪感を持ってほしくなかったから。それは良かったんです。でも、それに応える方法として「肝っ玉母さん」でなくてもよかったはずなんです。あとは周囲からの肝っ玉母さんでいてくれよというプレッシャーにのまれてしまった。だから私はその期待に応えた。応えてしまった。自分の心身は限界だったのに。

自分を犠牲にしたことで私には不満と不安が残りました。誰も私のことは助けてくれなかったし、これからもそうなんだろうと。でも助ける必要がない肝っ玉母さんを演じたのは自分です。だから誰も責めることはできないんです。だから自己嫌悪。

何かもっと違うやり方があったはずなのに、と思うとそれしか選択できなかった自分に苛立ちます。結局私も期待される母親像のテンプレでしかいられなかった。完璧な母親じゃない、もっと本来の私なりの母親でいたかったのに、そうできなかった後悔です。息子に母親や女性の在り方はこういうものと思わせたんじゃないかという不安と、夫には母親なんだからこれくらい当然でしょと認識されたことの不満。
「母親、女性=ケアする人」が当たり前だとされないように、もう少し抗いたかった。その後悔のザワザワと今私は闘っています。