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エンターテインメントの意義

私は現在高校生です。高校で広く芸術のことについて勉強しています。1口に芸術と言ってもなんとも広い分野ですが、私が専攻しているのは演劇です。しかし私はよく美術館やコンサートにも行きますし、昔から音楽と美術とに囲まれて育ってきました。母親の影響ですね。他にもこのように文字を綴ることは好きですし、彫刻や版画は絵画とは違ったジャンルの創作物であると考えています。

そんなものたちを総称した「芸術」って、もっと遠くから見れば「エンターテインメント」に内包されると思うんです。娯楽のためにある。でも、おそらくほとんどの芸術作品は元を辿れば娯楽のために産まれたわけではないでしょう。信仰・祈祷や心の中にある何かを解放したかった、など。私はそういう創作は好きではないですが、「鑑賞した人にこんなことを感じてほしい!」といった動機のものもあるかもしれません。また、もちろんほんとうに娯楽のためだけに創作されるものもあるかもしれませんけど、創作の動機が100%娯楽のためだけっていうのは寂しいしそんな作品はあまり見たくないです。

演劇を学んでいると色々な点・面が人の営みと重なっていたり交わっていたりします。
私たち人間は今でいうアフリカ大陸で発生して世界中に広まっていったとされていますね。演劇など舞台芸術もそうなんです。アフリカで発生し、そこからギリシア悲劇、イタリアのコメディアデラルテ、イギリスの戯曲演劇、と広がっています。そこから先はもはや世界が小さくなってあまり区別されていませんが。
その後戯曲演劇が盛る時代は長いです。しかしなにかひとつの分野の一強時代になるとそれに対抗する分野が次々産まれてくるのが面白いところです。演劇では戯曲演劇の盛りに抗いディバイジングという手法が生まれます。

前置きが長くなりましたがこの「ディバイジング」が今日私が話したかったこと。
まず簡単にディバイジングの説明を。
ディバイジングにおいては演出家、脚本家、俳優、舞台監督などは区別されません。また、なにかしら形に残るテキストの創造を主目的としません。ディバイジングの場ではどんな人でも対等に話し合うことができます。そんな話し合いの過程や結果を演劇とみなす創作、それがディバイジングです。
このディバイジング、芸術やエンタメのあるべき姿だと思うんです。どうして舞台では演出家が偉ぶるのか。どうして映像制作の現場では監督が生きがるのか。そんな上下関係をとっぱらって色んな肩書きが無い状態で創作ができる場を私は求めています。芸術は、エンターテインメントは、「解放」です。肩書きなどというつまらない名前に縛られているうちは良い作品は創れないだろうな。って考えています。ほんとうに魂や身体やなんやを解放できていれば、聴衆になにか伝っていくかもしれないし、心の奥底の「なにか」も表現できそいですね。

この文中で使っている言葉や説明は学校で教わったこと、自分の記憶や知識に基づくものですし。芸術の用語は人によって用法が違うこともあるので、「ここの著者はこう思って言葉をつかっているんだなー、」くらいの軽い気持ちでお読みください。

では。

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