エーテルの眼鏡

 じりじりと音を立て、ぼうっと赤く燃え進む白い煙草の先から空へ昇っていく煙を見つめながら彼女はぼんやり考えていた。手にした煙草を口から離し深くふいーっと呼気と一緒に白煙を吐き出す。その白煙を見ながら今度は、たばこの煙には紫煙という呼び名があることを誰かから聞いたことを思い出していた。
「まーたさぼってる」
不意に彼女の背後から聞こえた声に彼女の思索は打ち切られた。白衣のポケットに左手を突っ込んだまま彼女は振り返り、この建物の屋上を取り囲む金属製の柵に背中を預けた。
「それとそれやめろよ」
声の主は30代にはなっていない男だった。その声は不快さを含んでいた。男は彼女の右手を指さしている。
「紙煙草なんて今時だれも吸ってねーぞ」
「うるさいな」
「お前この前薬品ロッカーの前でそれ吸ってただろ。その前は酸素ボンベのそばで。火事になっても知らねーぞ。」
男は腰に手を当てて淡々と言った。しかし彼女はにやにや笑顔を浮かべたまま白衣のポケットから携帯用灰皿を取り出して器用に口を開けると手にした煙草の灰を落とした。
「私の健康の心配してくれてんのかと思った」
「それはない」
男は彼女が言い終わる前に言い放った。「エリーがどこでどうなろうが俺には関係ない。」
「冷たいなあ」
相変わらず彼女はにやにやしながらまた煙草を口元に当て、やがてゆっくりと煙を吐く。
「教授が呼んでる。エリーはどこへ行った!って騒いでる。知らん顔してたら探して来いって言われた。いくぞ、ほら。」
けだるそうに男が言った。右手で頭髪をかく。
「でも実験室に戻ったって、またうまくいかない結果をみんなで見つめて、うまくいきませんねえ、って嘆くだけじゃない。そんな生産性のないところに私は行きたくない。」
彼女はいかにも面倒くさいといった感じで吐き捨てた。
「それをここで言ってたって始まらないだろ。面倒かけんな。行くぞ。」
男は彼女の元へ歩み寄り、腕をつかむとそのまま引っ張って連れて行こうとした。
「私はね!」
エリーと呼ばれた彼女は急に大きな声を出した。
「なんだよ」
「悔しいのよ」
はぁ?と男は情けない声を出した。エリーは今までのにやにや顔とは打って変わった真剣な表情をしている。何故だか男は視線を逸らす。
「私たちがいくら研究したって糸口なんか見つかんないじゃない」
「そんなことは…」ないだろと言いかけて男は口をつぐんだ。同時にこのめんどくさいやつめ、と心の中で毒づいた。
「ダンは悔しくないの?高い薬品を湯水のように使って最新鋭の検査機器で好きなように実験やらせてもらって世界中の研究者と繋がっててさ、結局私たちが出せた成果って何?どんな薬でもアイツは抑制すらできてない。アイツの解析すらまだ済んでないのよ?なのにワクチン製造なんて夢のまた夢じゃない!」
エリーは思いのたけを男にぶちまけるように一気にまくし立てた。男は黙って彼女の顔をぼんやりと見つめている。
「そんなんでミシリス製薬から給料もらってダンは恥ずかしくないの?」
「だから!さ!」
今度は男が大声を出す番だった。ミシリス製薬株式会社開発研究部の研究員ダン・スペイシーは同僚の主任研究員エリーに向かって言い放った。
「悔しかったら実験室に戻れ!顕微鏡の向こうにいるアイツから目を逸らすな!ウチのCEOの圧力なんか気にすんな!どんな手を使ってもアイツに勝つ!」
 エリーとダンの言う「アイツ」とは3年前突如現れて人類を脅かし始めたウイルスである。初めはインフルエンザと同じような症状で重症化し死に至るのはごくわずかであった。しかし異常なほど強力な感染力を持ち、1年間で人類の10%が感染するという事態に人類は大混乱に陥った。しかもウイルスは次々と変異を続け、発展途上地域では死亡率がじわじわと伸びているという現状に世界中で治療薬やワクチンの開発がすすめられたが、決定打がないまま時間は過ぎていった。
 爆発的な感染力とは反比例し致死率がインフルエンザよりも低かったこともあり、大手製薬会社も本腰を入れて新薬やワクチンの開発を行っていなかった。そこに目を付けたのが新進気鋭の企業グループ、ミシリスインダストリーである。ミシリスは重化学工業部門で業績を伸ばした企業グループであるが、かなり強引な手法で新興の製薬会社を次々と吸収合併し、医療部門にも進出した。そして今年になって件のウイルスに対するワクチン開発を完成させると宣言したのである。現場レベルでは何の勝算もないワクチン開発が金持ちのマネーゲームに利用され、ミシリス本社は現場に多大な圧力をかけてワクチン開発を成し遂げようとした。エリーとダンはその煽りをまともに受けて毎日精神をすり減らしながら実験を繰り返し、研究に当たっていたのである。
「分かったよ。戻るから。とりあえず手を放してくんない?」
しばらくダンの強い語気に押されていたエリーは、観念したようにへらへらした笑顔を浮かべて言った。ダンはつかんでいたエリーの腕を離した。
「それと、煙草。体に良くないからやめろ」
「心配しないんじゃなかったの?」
彼女はへらへらした笑顔のままで言った。
「うるさい」
ふーん?とよく分からない声を出した後に数秒間の沈黙。彼女は「そう言えば今思い出した」と独り言を言った後で付け加えた。
「あのさ、ダン。お願いがある。」
彼女はまっすぐダンを見つめていた。今度は彼は視線を逸らさなかった。
「なんだよ。」
「私が死んだらさ、脳を提供して欲しい。」
「は?何だそりゃ?」
「この前の『メディカル・アドバンス』に人間の脳を使ったアンドロイドの実験に成功したって載ってたの知ってる?」
「最近の脳外科用機器の特集が載ってた学会誌か?」
「そうそれ」
「いや、読んでない」
「それに書いてあったの。革新的な技術だから今後研究を進めるためにも献体が必要だが、倫理的な課題を解決しなければならないって。」
 ダンは何故か背中にチリチリとした不快感を覚えた。漠然とした将来の不安からくる焦燥感のようなもの。得体の知れない、不吉な予感。そんなものを感じた。
 「私さ、孤児だったけど奇跡的にいい人に巡り合ってきて奨学金だけで医者になれたし、研究者にもなれたじゃん?これってすごいことだと思うのよ。」
やめろよ、それ以上言うな。ダンは口から出かかった言葉をのどに押し込めた。それを言うとさっきの不吉な予感が的中してしまいそうだった。
「だから絶対ワクチンを開発してみんなの役に立ちたい。本気でそう思ってる。恩返しなんて恥ずかしいから言えないけど。」
やめろ、そんなに楽しそうに将来を語るな。ダンはいらだちさえ覚えた。
「でもさ、人間いつ死ぬかわかんないでしょ?私は身寄りもいないしもしこの脳が誰かの役に立つなら使って欲しいの」
ダンは拳を握って黙ってエリーの話を聞いていた。何だこの流れは。なんでこいつは淡々とこんな話が出来るんだ?どうして今こんな話をしだすんだ?どうしちゃったんだエリー。変な奴ではあるけど特に今日はおかしいぞ。
ダンの頭の中では疑問と不満が渦巻いていたが、エリーは構わず続けた。
「まだ本格的に募集してるわけじゃないみたいだけど、この前『メディカル・アドバンス』を出してる大学の知り合いに聞いたらまだ秘密なんだけど今年中に募集を始めるんだって。初めは医学会からみたいね。だからさ、ダンにお願いしとくね。私が死んだら」
「やめろ!」
ダンはたまらず大声を出していた。「死ぬとかいうな!」
「何ムキになってんのよ笑。まだ死ぬって決まったわけじゃないじゃん笑」
「だったら自分が死んだ後のことなんか言うな!」
ダンははっきり怒っていた。彼自身が不思議に思う程に。
「ありがと」
彼女は微笑んで言った。へらへらした笑いは消えていた。
「あんたに心配されなくたってそんなに簡単に死なないわよ」
「そういうことじゃなくて」
「あーあーもう分かった分かった。この話はしない。ほらほら機嫌直して」
彼女はまた微笑んでいた。
「あんたが私のことを大事な仲間だって認めてくれてるのは分かってるし、今の態度でもすごく分かった。だからこそ、あんたに私の本心を聞いて欲しかったし、私のつまんない人生が終わったらその後を託したかった。子どものころからの古い付き合いだし私のわがまま聞いてくれるの、あんたしかいないし」
 ちくしょう。この女はいつもこうだ。いつも世界をなめきって、いつも誰よりも先にいてみんなをバカにした態度。そうやってみんなから恐れられて嫌われて孤立して。でもいつも真面目で正直で、自分から進んで犠牲になって、嫌われ役を引き受けて損ばかりして。優しすぎるんだよ。そんなに優しすぎるとほんとに死んじまうぞ。
「あんまり死亡フラグばかり立てないでよ」
彼女の声で我に返ったダンはエリーをにらみつけていた。
「それはお前だろ」
「死なないから大丈夫だよ。それより実験室に戻ろう。」
彼女はまたいつものクールな声に戻っていた。
ダンはまだまだ言いたいことがあった。気持ちはどうどうと荒れ狂い、背中のチリチリはますますひどくなっていた。しかし今はその感情から早く離れたかった。気が付くと屋上の入口に向かって先に歩き出したエリーの後をついていった。
「そういえばお前さ、なんでいつも眼鏡買い換えないんだ?」
 今までの悪い雰囲気を払拭しようとしたのかダンが話題を変えた。屋上にきてから彼女の言動に振り回されたのが癪に障ったのかもしれない。何故か今日は彼女の言動が現実とリンクしているようで漠然とした気持ちになる。
 エリーが屋上の入り口のドアを開けて階段を下り、ダンがそれに続く。
「え?どうゆうこと?」
「俺の知る限り高校生から眼鏡が変わってない。フレームもガタガタしてるから鼻からずり落ちてるじゃないか。実験中に眼鏡を何度も指でクイって上げるの面倒だろ?」
ああ、これねぇと彼女はつぶやいた。タンタンタンタンと靴音を立てて2人は階段を下りていく。
「メガネは私のアイデンティティだから」
「はぁ?」
「じつは、本当の理由はほかにあるんだけど…ナイショ」
「はいはい」
「少しくらい気にしてくれたっていいじゃない」
「どうせ言う気ないんだろ。ってか本当の理由なんかないんだろ」
少し余裕を取り戻せたのか、ダンの声は落ち着いていた。
「そうかもね」
ダンはふといたずら心が起きて、エリーにこんなことを聞いてみた。
「お前さ、死んだらアンドロイドになりたいの?脳は人間だから厳密にはサイボーグだな」
「まあそうなりたいね」
「その時にもその眼鏡かけるのか?」
予想もしなかったダンの言葉にエリーは思わず笑いだした。
「アンドロイドが眼鏡って笑 ゲームかアニメじゃあるまいし」
ダンも笑っていた。
「さすがにそれはおかしいぜ」
「いや、ありかもしれない。眼鏡をかけたアンドロイド。私らしくていい」
「それはないって」
「私ね、通称エリーだけどエリザベスでしょ?」
「だけど大げさだからエリーって呼んで欲しいっていつも言ってるんだろ」
「そう、でももし名前を変えられるならエーテルっていうのがいい」
「エーテル?」
2人は階段を下りていく。実験室のある階までたどり着くと、長い廊下に出た。無機質な白いライトに照らされた果てしなく冷たい廊下を2人の影が引きずられていく。
「ジエチルエーテルの方じゃなくてファンタジーのほう」
「ファンタジーは分からん」
「昔の哲学者は宇宙に空気がないことは知ってた。でも世界は真空を嫌うって考えがあって、きっと宇宙も何かで満たされているんだ、だから光は宇宙空間でもまっすぐ進むんだって考えになって、宇宙全体はエーテルっていう物質で満たされてるって説を唱えたのよ。科学者なのにそんなことも知らないの?」
「悪かったな。歴史は苦手なんだ」
「でも実際そんなものはなかった。かっこいいでしょ?宇宙全体を満たしてどこにでもあると思われていたものが存在すらしてなかった」
「かっこいいか?」
「幻の存在みたいでさ。そういうミステリアスな女でいたいってこと」
ダンはまた先ほどの不吉な予感がよみがえってくるのを感じた。何故だか16歳から約10年間一緒にいるこの小うるさい同い年の女友達に危うさや脆さのようなものを感じていた。
 不思議と恋愛感情を感じたことはなかった。そんなロマンチックを感じるほど2人には時間的な余裕がなかった。エリーは天涯孤独の身で奨学金だけを頼りに医師免許を取り研究者にまでなった。当然、ほかの学生の何十倍も学問に打ち込まなければ奨学金を維持できなかった。そして何より彼女は研究が好きだった。本気で人間の役に立つ薬を作りたいと思っていた。
 ダンも将来を嘱望される若手研究者として数多くの研究に携わり、寝食を惜しんで研究に打ち込んだ。2人はずっと研究室は変わってもコンビを組んで研究することも多く誰よりも一緒にいた。一緒にい過ぎたのかもしれない。
「サボってた事の言い訳は考えてるのか?」
「いや?何も?屋上で煙草吸ってましたって正直に言うわよ?」
ダンは何も言わず「大丈夫だ」と呟いて不吉な予感を振り払おうとした。
「何か言った?」
エリーがそう言った時には2人はもう実験室の前にいた。ダンがIDカードをドアロックにかざす。扉が開くと2人は実験室へと入っていった。扉が閉まるーーー。

デイリーポータルニュース(事件・事故)
■■月■■日、ミシリス製薬株式会社の本社ビルの開発研究部門実験室で爆発事故が起きた。研究責任者D・マコーミック博士は即死。主任研究員エリザベス・■■■■さんが病院に搬送されたが12時間後に死亡。同じく研究員の男性社員が左腕切断の重傷。男女合わせて4名が軽傷を負った。実験室では■■ウイルスのワクチン開発が進められており、実験中の薬品に引火して火災になり酸素ボンベの酸素が流出して爆発したと判断された。同研究所では少ない人数で膨大な数の実験を短時間で行うという無理な計画が実行され、安全管理がずさんであったことが指摘されている。

人類連合軍統合幕僚長会議の発表
 現在、地上のあらゆる地点に出現し我々人類への侵攻を行っているラプチャーの脅威はいまだ止まず。我々人類連合軍も人類存続の為に粉骨砕身、ラプチャーの殲滅に向けて人類の持てる全ての能力を尽くして日夜作戦を行っています。
 ラプチャーの持つ技術は現在の我々よりもはるかに高く、苦戦を強いられてはいますが、我々はこのままラプチャーに蹂躙されるがまま人類5000年以上の文明と歴史の終焉を迎えてはなりません。
 そこで我々は捲土重来を図るための一大プロジェクトであったNIKKEを遂に完成させ実戦投入が可能となり、NIKKEによる大反撃によって地上奪還も夢物語でなくなりました。しかしそのためには人類の皆様の献身と情熱を必要としています。
 どうか我々人類連合軍と共に戦い、地上を取り戻した英雄として歴史に名を残してください。
 興味のある方はお住いの地区の人類連合軍関係機関または自治体役所までお越しください。

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