生きる意味を探す意味

 先日、知り合いの医師の一言に私は驚かされた。

「生きる意味とか、死後の世界とか、若い時はとにかく考えがち。特に中学生から高校生の思春期にかけて」

 この知り合いの言葉に漏れず、私も生きる意味とか、死んだらどうなってしまうのだろうかなど、答えの絶対に出ない事ばかり飽きもせずによく考えていたように思う。それは小説が小さい頃から好きだった事や、本を読むために夜更かしばかりしていたことときっと無関係ではないだろう。

 驚いたのは、発言した医師の中で、それが思春期の一時の経験として区切りが付けられていたという事だ。なぜなら、私は20代も中盤を超えた今でも、このような答えのない自問自答を頻繁に行っているからだ。

 このような話をあまり友人にすることはない。それは、無意識に良い大人と呼ばれるべき年齢に差し掛かった今、そのような話をするのは恥ずべきという思いが無意識に自分の中に存在しているのかもしれない。それでも、自分と同じように、友人たちあるいは全く知らない他人でも少なからず死について考え続けているものだと思い込んでいた。

 たしかに、ライフステージが進みに連れ、すなわち就職して慣れない仕事に従事する、社内での立ち位置が変わり多忙になる、結婚して配偶者ができる、子供ができるなど、日々忙殺される中で考える暇がないということはあるだろう。しかし、風呂から上がりふと暇になった時、なんとなく眠れず夜に散歩に出た時、そのような何気ない一時に頭によぎる。そして一生考えていくテーマなのだろうと思っていたのだ。

 皆はどのようにこの解のない問いから卒業していくのだろうか。卒業して行った人々にぜひ教えて欲しい。

 この問題に答えがあるとして、その答えをぜひ教えて欲しい気がする一方で、できれば聞かずにやり過ごしたいという思いもある。それは、この20数年私がこの問題を考え続けてきた中で辿り着いた自分なりの回答と関係している。

 生きる意味など、存在していないのだと思う。しかし、それを作り出すことはできるのだろう。スポーツでの目標、好きなアイドルや声優を追いかけること、仕事で達成したい目標など、様々な熱中できることがある人は、そもそも生きる意味など考えないだろう。物事に熱中しているときには、そんな暇もエネルギーも余っていない。それは、同時にそのこと自体が生きる意味になっているということだ。

 目標を達成してしまったら次の目標ができるまでは目標なんてなくてもいい。好きなアイドルが引退したら次に好きになれるアイドルを探してもいいし、全く別のものにはまってもいい。生きる意味は自分で作り出すものだと考えれば、ある期間にその意味がなくても構わない。また作ればいいからだ。

 中には、そんなに熱中できるものがないという人もいるだろう。私もここ数年は何かに熱中したという記憶はない。そんな人の生きる意味は、生きる意味を探し続けることなのかもしれない。

 生きる意味を探し続けて、何かに熱中することができた人は、きっと死んだ後も楽しく生きられると思う。何も心配することはないのだ。

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