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シラクーサとヴェネツィアのサンタ・ルチア

サンタ・ルチア(聖ルチア)、イタリアの聖人の中でもよく知られている。ナポリ民謡にも謡われているが、私の視点はヴェネツィア・サンタ・ルチア駅、そのヴェネツィア・サンタ・ルチアが元々はルチアが殉教し埋葬されたシラクーサのサンタ・ルチアであり、コンスタンティノープルを経てヴェネツィアまで辿り着いた道程について、少し掘り下げてみた。きっかけはNHKのヨーロッパ縦断鉄道の旅(5)である。

ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅、1991年1月

シラクーサのサンタ・ルチアのシラクーサは、シチリア島南東部に位置するシラクサ県の県庁所在地がシラクーサSiracusa市である。シラクーサにサンタ・ルチアを守護聖人とする信仰があり、聖ルチアの日は12月13日、もっとも夜の長い日(冬至)、に祝祭が行われる。また、サンタ・ルチアはナポリの船乗りたちの守護聖人でもあり、サンタ・ルチアというナポリ民謡はよく知られているし、同名の港もある。

Santa Luciaのルチアはラテン語の光から派生した名前である。聖ルチア伝説が伝播したのは中世のこと、ディオクレティアヌス帝施政下のシラクーサでルチアは西暦304年12月13日に殉教した。彼女の犠牲はローマに広まり紀元6世紀にはルチア信仰の守護者とし、教会全体で讃えるようになった。

その伝説は、ローマ人であったルチアの父の死後、母エウティシアは4年あまりも腹下しに苦しんだ。ルチアは聖女シチリアのアガタの奇跡を聞きつけ、ミサに参加し母エウティシアの病が癒されるよう、母子は聖アガタの墓前で一晩中祈り続けた。いつしか母子は眠ってしまうとルチアの枕元に聖アガタが姿を見せ、「私がそうしたように、あなたはすぐシラクサの栄光となるのです」とのお告げがあった。そして母エウティシアはたちまち全快した。

シラクーサに戻ると母エウティシアはルチアを政略結婚させようとしたが、ルチアは自身の処女を守るために、全財産を売り貧しい人のために施したいと拒んだ。ルチアは自分にはより高貴な婚約者(キリスト)がいると逆に母エウティシアを説き伏せた。

しかし、思いのままにならない婚約者はルチアに怒り、彼女を神への犠牲として火炙りにすべきだと密告し、捕まり拷問を受けることとなる。しかし、ルチアを引き立てに来た兵士たちは、彼女を動かすことができなかった。それはルチアが聖霊に満たされ、山のように強固な存在となっていたからである。牛の一群にルチアを繋いでも動かなかった。ルチアの喉元に剣を突き立てても、ルチアは自らを迫害する者たちに予言していたのである。

最後の拷問としてルチアは両目をえぐり出されたが奇跡が起き、ルチアは目がなくとも見ることができた。聖ルチアの絵画や像ではしばしば黄金の皿の上に自分の眼球を載せた姿で描かれることに表れている。

結局どんな拷問でもルチアを動かすことはできず、その場で喉を刺されて殉教した。その場所がシラクーサのサンタ・ルチア・セポルクロ教会であり、そのことから喉の病の治癒を叶う聖人とされている。若干、説がずれるが、彼女のトレードマークであるトレイの上の二つの目は、自ら目を取り出したのちに天使によりまた瞼の中へ戻されたことに由来するとも。そのため、失った光もまた取り戻すことができる 希望のシンボルとなっている。

サンタ・ルチア、お盆の上に眼球が乗せられている

ルチアの遺体は西暦304年から1039年までシラクーサのサンタ・ルチア・セポルクロ教会に埋葬されていたが、イスラム教支配地になったことから1039年にコンスタンティノープルへ移された。

1202年、ローマ教皇インノケンティウス3世によって呼びかけられシャンパーニュ伯をはじめとするフランスの諸侯を中心として第4次十字軍が組織され、1202-1204年に遠征した。その輸送をジェノバやピサに呼びかけたが最終的にはヴェネツィ共和国へ依頼された。この十字軍の当初の目的はイスラム教徒の本拠地であるサラーフッディーンが興したアイユーブ朝の都カイロを攻撃することであった。

ヴェネツィアに集結した十字軍への参加者は予定した3万人の1/3しか集まらず、ヴェネツィアへの船賃が不足し出航できなくなった。そこで第4次十字軍はハンガリー王保護下にあったカトリックのザラ(現クロアチアのザダル)を攻略(カトリックがカトリックを攻撃)し船賃の補填にした。

ところがここで東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオスが帝位獲得の助力を第4次十字軍へ要請してきた。アレクシオス皇子の父は皇帝イサキオス2世だったが、弟アレクシオス3世により支配権を奪われており、正当な帝位を回復することを画策していた。そこで第4次十字軍への見返りとして20万マルクの支払い、東ローマ帝国の十字軍への参加、東西教会の統合を提示した。モンフェラート侯とヴェネツィアはこれに賛成し、十字軍士の中には躊躇したり別行動をとったが大方の者が同意した。

1203年、第4次十字軍がコンスタンティノープルに到着し、皇帝アレクシオス3世に退位を要求したが固辞され、海から陸からの攻撃が開始され、その途中、皇帝アレクシオス3世は逃亡した。城内ではイサキオス2世を復位させて城門を開いた。そして、父イサキオス2世とともに共同皇帝として亡命皇子アレクシオス4世が即位した。

しかし、東ローマ帝国の国庫には約束しただけの資金がなく、東西教会の合同にも正教会側の激しい抵抗があり、即位したばかりのアレクシオス4世には新たな徴税能力なく、結果として第4次十字軍との約束を果たせなかった。

1204年2月、先帝アレクシオス3世の婿であるムルヅフォロスが共同皇帝であるイサキオス2世とアレクシオス4世を殺害してアレクシオス5世を称したことにより、第4次十字軍は東ローマ帝国と決裂した。

1204年4月、第4次十字軍は再びコンスタンティノープル攻撃を開始し、城内のヴェネツィア人が東ローマ側の抵抗にまわり、十字軍側が城内への侵入に成功たことからアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わって皇帝となったラスカリスも抵抗を断念し逃亡した。東ローマ帝国側は抵抗をやめたが、城内に侵入した十字軍はコンスタンティノープルで破壊と暴行の限りを尽くした。アギア・ソフィア大聖堂に立てこもった聖職者、修道士、修道女、市民たちを含めて暴行・殺戮を行い、一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦された。

この略奪の過程でサンタ・ルチアの遺体も1204年にヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マジョーレ教会へ移され、1280年に遺体と遺品はヴェネツィアのSant Maria Annunziata教会、後のサンタ・ルチア教会へ移された。

Santa Lucia alla Badia Church
https://www.secretsiracusa.it/en/where-to-go/santa-lucia-at-the-badia-of
-syracuse/

1513年、ヴェネツィア共和国はフランス王のルイ12世にサンタ・ルチアの頭蓋骨を贈り、フランスのブールジュ大聖堂 Cathedral of Bourgesへ埋葬された。()
1860年、鉄道駅建設のためにサンタ・ルチア教会は取り壊され、サンタ・ルチアの遺体と遺品は近くのサン・ジェレミア教会へ移され、現在に至る。

Santa Lucia (St Lucy)
https://www.college-optometrists.org/the-college/museum/online-exhibitio
ns/virtual-art-gallery/santa-lucia-st-lucy-.html

このような経緯を辿ってサンタ・ルチアの遺体はシラクーサからコンスタンティノープルへ移され、その後ヴェネツィアへ、頭蓋骨はフランスブールジュ大聖堂へ(記述がある文献となない文献がある)、残りの遺体と遺品は現在もヴェネツィアのサン・ジェレミア教会に眠っている。そして、ヴェネツィアのサンタ・ルチア教会跡地に建てられた鉄道駅は、ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅と称している。

サン・ジェレミア教会
Campo San Geremia, 334, 30121 Venezia VE, イタリア

参考文献:
市口桂子『ヴェネツィア・ミステリーガイド』白水社、2010年

★☆☆メールマガジン「世界街角通信MM」第335号 2022年8月5日より

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