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マルタン・マルジェラから読み解く〜衣服の創造と消費の逆説〜

Ⅰ. 衣服の定義

衣服とは、私たちにとって何だろうか。生活必需品、アイデンティティの一部、生活に彩を与えてくれる物、芸術作品。人によって千差万別の答えがあるだろう。しかし私たちの多くは、衣服を生活必需品の一部として見ているだけなのかも知れない。その衣服は「実用性」があれば良いだけであり、代替可能な物ものとして捉えてる人は多い。しかし、衣服の業界には長い歴史と伝統を保持し、世界的に圧倒的な知名度を誇る「ラグジュアリー・ブランド」という物が存在する。エルメスやルイ・ヴィトン。プラダやクリスチャン・ディオール。誰もが名前は知っているであろう伝説的ファッションブランドたちが存在する。これらのブランドの衣服たちは、我々の日常の中のリアルクローズと比べてどの様な違いがあるのだろうか。質やデザインの差。希少性や社会的価値。そういった表面上の差が存在するだけなのだろうか。私は伝説的「ラグジュアリー・ブランド」たちの本質的価値は、もっと奥深くに存在するのではないかと考えている。なぜならこれらのブランドは、変化の激しい時代を生き残り今も輝きつづけているからだ。これらのブランドは、本当に上記の様な表面上の差によって大きな存在として残り続けているのだろうか。これらのブランドの衣服が代替可能な生活費需品であったならば、ここまで大きな存在として残り続けていけただろうか。きっともっと奥深くに「ブランド」の秘密はあるはずだろう。これらのラグジュアリー・ブランドは数々の歴史的変化やグローバル化を遂げながら、時代を越えて残り続けている。私の家には数々のファッション雑誌がある。i-D MagazineやVOGUE。その他にも新古問わずアンダーグランド雑誌がある。そのどれを開いても、やはりこれらの伝説的ラグジュアリー・ブランドたちは存在する。古いファッション雑誌を観るとそこには大々的な広告がある。新しいファッション雑誌を開いてもそこには大々的な広告がある。ブランドイメージは多少は時代の影響を受けて変化していながらも、それらのブランドたちが持つ「世界観」や「芯」は永続性を保ち、そこに残り続けているように見える。これらのブランドたちの本質的価値はどこにあるのだろうか。私はいくつかのブランドの本質的価値や知名度の理由を、ファッションの書籍や自身の考察によって発見した。そして、その中で最もだと考察した本質的価値は、「芸術作品」としての機能性である。これらのブランドは大資本であり、ビジネスモデルとして大きな成功を納め続けているのは確かだ。しかしその圧倒的クリエイション力から、多くの人々に「着られる芸術作品」として位置付けられているのではないだろうか。事実、私も沢山の洋服を所有しているが、何着か所有しているラグジュアリー・ブランドのアイテムは全て「着られる芸術作品」という文脈で消費している。私の友人にも同じ感覚を所有する人々が多く、この価値観に対する社会的な認識をずっと気になっていた。そんな中で、私はあるファッション雑誌の中で記載を見つけた。

『ラグジュアリーとは芸術である。芸術は流行とは異なる永続的な価値観を持ち続けそこに存在している。』(i-D Magazine, Vice Media, 1999, 38p)

この言葉は、私の個人的な価値観は世界を越えて共有されている一種の普遍的な解釈なのだと納得できるものだった。芸術とは「アート」である。かつて、ファッション業界に「アート」を残し続けた伝説的ファッションデザイナー『マルタン・マルジェラ』という男が存在する。今回のレポートでは、私が愛してやまない「マルタン・マルジェラ」を参照しながら、グローバル化された現代の中でのファッションの価値。創造や消費のあり方。そして抱える矛盾。これらの事を今から読み解いていこうと思う。

Ⅱ. マルジェラの軌跡

マルタン・マルジェラは1957年生まれのベルギー出身のファッションデザイナーである。元は若くして名門アントワープ王立芸術学院に入学し、ファッションデザイナーを志していた青年だった。在学中に日本のファッションデザイナー川久保玲による「コムデギャルソン」に影響を受けたと言われている。後にフランスのデザイナーである「ジャン=ポール・ゴルチエ」のアトリエに入り、1998年に自身のネームブランド「メゾン・マルタン・マルジェラ」を設立した。その後は日本を含む世界各国に出店を果たした。彼はその経営を行いながらも、一時期ビッグブランド「エルメス」のデザイナーも兼任で努めていたという恐ろしい才能の持ち主である。彼の写真は、1997年に撮影された1枚を最後に一切流出しておらず、メディアにもほとんど顔を出していない。異例な経歴を持ちながらも、ミステリアスな人物としてファッション業界を賑わせていた。 しかし以後、メゾン・マルタン・マルジェラを傘下に置いたディーゼル会社によれば、創立20周年にあたる2008年のコレクション以来マルタン・マルジェラはブランドから去ったという。設立者である彼の不在がありながらも、ブランドは「クリスチャン・ディオール」で知られているジョン・ガリアーノを迎えて存続を続けている。マルタンが去り、ブランドネームからは現在「マルタン」の文字は消えている。現在は「メゾン・マルジェラ」という名前となってブランドは存在しているのだ。一体、彼とブランドには何があったのだろうか?

その解析に当たりまずは彼のクリエイションについて読み解いていく。マルタン・マルジェラの創作した衣服には、「ブランド・タグ」が存在せず、代わりに「白紙のタグ」が縫い付けられていた事で有名である。その上、その白紙のタグは消費者が自身で取り外せる様に衣服裏に白のステッチで止められているのだ。自身のブランドネームを衣服に残す事は、広告としても存在証明としても当たり前の事だと言える。しかし何故、マルタン・マルジェラは代替として白紙のタグを縫い付けたのだろうか。それは、マルタンが「世界的ブランドの商業主義な風潮に対する違和感、消費者が衣服そのものを見ず、ブランドネームで消費するという風潮に対する違和感」を持っていたからだと言われている。(We Margiera マルジェラと私たち, メナ・ラウラ・マイヤー, 1999)

マルタン・マルジェラにとって衣服とは「芸術作品」であり「アート」であったのだ。何かを創造する営みには、そこに「思想性」が宿る事は必然的と言えるだろう。彼はそれを重要視にしていたのだ。マルタン・マルジェラの様なアート性を重んじる生粋のデザイナーにとって本当に消費者に見てほしい点は何だろうか。それは衣服自体の「きめ細かさや拘り、ディティールの美学」であっただろう。しかし時代を見てみれば、全く逆の現実が広がっている。「皆が良い」と言うから「良い」と思い込んで、自分の審美眼は使わずに衣服を選択し消費する人々。権威のあるブランドを「良い」と思い込んで、その衣服を選択し消費する人々。自分の価値観を持たずに、ただ流行の流れを追う人々。そして、その消費傾向を察知し「商業主義」に走るブランドたち。マルタン・マルジェラはその現実に大きな違和感と葛藤を抱えていたに違いない。その証拠としてマルタン・マルジェラがブランド理念として掲げていた「アンチ・モード」の存在が挙げられる。「モード」とは流行の事である。マルタン・マルジェラのブランド設立当初、ファッション業界と消費者には「エレガンス、優雅、華美」といった上流階級を表すモードが存在していた。しかしそれに反対する様に発表された「デストロイ・コレクション」と呼ばれるコレクションが同ブランドには存在する。このコレクションは、既存のモードとは正反対の「醜悪・破壊・反抗」等を観る者に感じさせるショーであった。優雅さからは程遠いボロボロの衣服や、「脱構築」と言われる裏表が反対になった衣服等が発表されたのだ。この事から、マルタン・マルジェラは既存の大衆価値観や、流行に対して大きな違和感を持っていた事が垣間見える。そして、更に特異とされる点がこのショーには存在した。それは、モデルが全員マスクで顔を隠していたという点である。この事実や、マルタン・マルジェラ自身がメディアやショーに顔を出さない点、そして衣服にブランド・タグを付けない点。これらの事からマルタン・マルジェラの「消費者が注目すべきはデザイナーやモデル、ブランドのネームバリューではない。創作された衣服そのものなのである。」という思想を、大きく認知する事も可能である。

世界では時代によって様々な流行が存在する。それは紛れもない事実であり、ファッションにも大きな流行は存在している。人は「皆が良い」という物に対しては「良い」と思う心理効果があり、権威性のある物に対しては「良い」と思い込む心理効果がある。(影響力の武器, なぜ、人は動かされるのか, ロバート・B. チャルディーニ, 1984) その様な心理効果が集まり、人の流行は発生しているのだ。そういった流行の中で、人々は本質的に物と向き合わなくなり、「形式主義」に転倒する可能性が存在する。マルタン・マルジェラは多くの生産者や消費者がその「形式主義」に転倒している事を危惧したのだろう。衣服自体ではなくブランドネームが先走れば、多くの生産者やブランドは「売れれば良いだろう」と商業主義に転倒し粗悪品を流通する様になるかもしれない。そして消費者はその流行に追われ「その衣服自体を観る審美眼」を完全に失ってしまうかもしれない。その行方はファッション業界全体の頽廃に繋がる可能性がある。マルタン・マルジェラはその様な恐れや違和感から一見非合理に見える「ブランドタグの消失、アンチモード、自身やモデルの不可視化」を行ったのだろう。そう考察すると、一見の非合理も彼にとっての「合理」に見えてくるかもしれない。

Ⅲ. 資本主義と芸術 / 記号化する衣服

衣服というクリエイションに情熱を向け続けたマルタン・マルジェラ。彼のクリエイションはグローバル化の流れに乗り、世界で瞬く間に広がりを見せている様に見えた。しかしそんな彼がどうして「メゾン・マルタン・マルジェラ」から去ってしまったのだろうか。その真意は残念ながら公にはされていない。しかし、同ブランドと彼を追ったドキュメンタリー映画「We Margiera マルジェラと私たち」の精読と自身考察によって得た知見を以下に記していく。まず、ブランドを去ってしまった本質的理由はやはり「真のクリエイションとビジネスの葛藤」だろう。マルタン・マルジェラは衣服の創造に当たり、誠心誠意、全力で向き合う人間だった。そこには少しの妥協も許されず、その上膨大な時間とコストを要する。彼は引退まで不眠不休で働き続けクリエイションに向き合っていたという。ブランドは世界的に拡大している様に見えたが、実際はその彼の拘りやストイックさから経営は赤字を迎えていた様だ。厳しい現実である。そんな中で同ブランドは大資本であるディーゼル下の傘下に置かれ経営的には安定を迎えた。しかし管理下では様々な制約や「商業」と「芸術」の解離が発生し、彼はクリエイションを続けていく事は困難と断定したのだろう。そう、ブランドがシステム化してしまったのだ。彼が本当にやり続けてゆきたかった事は「真のクリエイションであり、芸術」だったのだろう。しかし、その存続や組織化の為には商業の側面は切っても切り離せない。しかし商業の上では独断的な真の芸術は許されない。彼はその「矛盾」を察知し、ブランドから姿を消したのだ。何とも酷な話であるが、考察をする限りこれが現実である。

マルタン・マルジェラが去り「メゾン・マルジェラ」となった同ブランドは、大資本であるディーゼル傘下での歩みにより、現在では赤字や経営困難も完全に克服し、商業的に急成長を遂げている。今や日本国内でも「マルジェラ」を知るものは老若男女関わらず多い。ディーゼル傘下となった同ブランドは「白紙のタグ、衣裏の四つ糸のステッチ」をブランドの「記号」として打ち出す戦略により、認知を拡大させ商業的成功を治めたのだ。これは何とも逆説的な話なのだ。何故なら、「白紙のタグ、衣裏の四つ糸ステッチ」は本来マルタン・マルジェラの「記号的消費への批判、衣服自体の本質への着目」という理念を元に創作されたものだったからである。四つ糸ステッチは本来、白紙のタグを消費者が切り落とせるように配置した物であった。しかし、大資本のシステムの中に飲み込まれた「メゾン・マルジェラ」は逆にその「白紙のタグ、衣裏の四つ糸のステッチ」をブランドの「記号」として打ち出し、成功しているのだ。勿論、消費者はそれらを「記号」という重要な部分として認識しているので、切り落とす事をしない。つまり、ブランドは商業的に成功を治めたが、マルタン・マルジェラの「芸術的思想」自体は全く消費者に届いていないのだ。これは何とも逆説的で、悲劇的な事であろう。勿論、ディーゼル社は何もマルタン・マルジェラへの批判として白紙のタグを記号として打ち出したのではないだろう。白紙のタグはマルタン・マルジェラの思想が詰まっている重要点である。これを全面的に打ち出したことはルタン・マルジェラへの一種のトリビュートとして受け止める事もできる。しかしそれが大資本とグローバル化の力の大きさによって「記号」として変換され、「記号」として消費者に消費されている。つまり、『マルタン・マルジェラというブランドの「反記号」という思想を大資本が代替して打ち出した結果、逆説的にそれが消費者に「記号」として認知され広まった』のである。消費者が使用的消費ではなく記号的に衣服を消費し、それが拡大する。これは先程考察した流行の原則である。マルタン・マルジェラという「反記号」は、「記号としてシステム化される」亊で本人の意思とは遠い所で成功を起こしたのだ。これは商業という側面で観ると正解である。しかし、マルタン・マルジェラ本人は何を思ったのだろうか。彼を支え続け、彼の引退と同時に引退した数々のチームメイトたちは何を思ったのだろうか。また、彼を支え続け、今もなおシステム化されたメゾン・マルジェラに在籍するチームメイトたちは何を思ったのだろうか。一ファンとしての私としても、中々複雑な感情を抱き続けている。何を隠そう、私自身もディーゼル傘下となっているアパレルブランドで働いていたからである。そして、「メゾン・マルジェラ」は横の店舗であり、今は姉妹ブランドとして取り扱われている。私は、「メゾン・マルタン・マルジェラ」の衣服も「メゾン・マルジェラ」の衣服も両方所有している。どちらのクリエイションも素直に高く評価しており、一ファンである。しかし、複雑な感情がないかと言えば嘘になってしまうだろう。

『We Margiera マルジェラと私たち』を観て、私はとても印象的だったシーンがある。それはディーゼル社への売却後もメゾン・マルジェラに在籍するスタッフが現状についてのインタビューを受けるシーンである。一人の女性スタッフが沈黙の後、「正直、複雑な思いです。」と言い、視線を左斜め上に切る。そして苦悶を殺しながら切ない笑顔で「Silence」と呟いたシーンだ。そして、無名だった「メゾン・マルタン・マルジェラ」を最初期から扱うイタリアのセレクトショップ・JANAのインタビューシーン。マルタン・マルジェラのコラージュ作品が飾られ続けている壁を前に、彼と親交の深いストアマネージャーのマダムが彼の復活を祈願するシーン。その姿はまるで礼拝堂でイエス・キリストに祈りを捧げる信徒のようで印象的だった。私は、この作品を通して、マルタン・マルジェラの本当の偉大さに気づかされた。失踪して何年経過しても未だに人の魂を魅了し離さない衣服。そんなものがこの世の中に存在した事を信じられるだろうか。高度資本主義経済とグローバリズムの渦中で、衣服は絶え間なく流行を繰り返し、生産と消費が繰り返される。次々と新しいものは発表され、すぐに捨てられていく。そして人々はまた「新しいもの」を追い求める。一週間過ぎれば私たちは発表されたものを思い出せなくなるかもしれない。そして私たちは、振り返る隙さえも与えられない。記号的消費、大量消費、流行等のシステムは大きく存在し続ける。マルタン・マルジェラのようにそのシステムに反抗し続けた勇敢な芸術家も、やがてシステムに飲み込まれていくという矛盾。彼はそれを察知し、自身のブランドから足を引いたのだろう。この映画で言われる「We」、つまりチームメンバーはリスクをヘッジして買収を選んだが、肝心のクリエーションは希薄化されてしまった。「民主主義の上でクリエーションを続けていく事は困難」だと察知したのだろう。これは、ファッションだけに限らず、あらゆる文化に言えるかもしれない。高度資本主義社会の中であらゆる文化や芸術は「共感」や「システム」に飲み込まれてしまう。全てが数値化され、代替可能なデータとして大衆欲望の中に埋没してしまう。その世界の行方はマルタン・マルジェラが見通したものだったのだろうか。クリエーションと高度資本主義の免れない終着地点だったのだろうか。その正解は十人十色であり、私はその事実に対して嬉しさと悲しさを同時に抱える。

この映画の「We Margiera」とはどういう意味なのだろうか。様々な解釈ができる。WeとMargieraの間は空白で「私たちはマルジェラ」なのだろうか。それとも空白には「&」が入り日本語題の通り「マルジェラと私たち」なのだろうか。その他には空白「are」を入れて「私たちはマルジェラ」か。「were」を入れて「私たちはマルジェラだった。」という過去形の解釈もできる。私の中では、この空白には「&」が入るのではないかと考えている。それは、マルタン・マルジェラは「We」の中に入れないと決断したからだ。何故ならそれはマルタン・マルジェラが「We」の中に居続けるということは「システムへの没入」を意味するからだ。つまり、マルタン・マルジェラはその「We」にずっと対抗し続けてきた存在なのかもしれない。ここで言う「We」とはチームメイトだけではない。社会の流行やシステム、沢山のことに対してだ。また、この映画の最後にチーム「メゾン・マルタン・マルジェラ」の集合写真が存在する。そこにはやはりマルタン・マルジェラ本人の姿は無かった。しかし矛盾的であるが、その彼の「不在」こそが「マルタン・マルジェラの存在」を表しているように私には見えた。彼の不在こそが、歪な形で彼の美学である「匿名性」を守り続けているのかもしれない。

グローバリズムは、世界と世界を繋ぐ。人と人を限界まで繋ぐ。そして、沢山の事が便利になり効率化された。資本の論理にもとづく企業行動がグローバル社会のなかで、当初予定していた目的達成の他に、強い影響力を駆使しながら次第に波及効果を作り出すことが可能になる。(グローバル化社会の光と影 -ヒトの役割からみた景観図式-, 海老澤栄一, 神奈川大学国際経営研究所, 2010)マルタン・マルジェラと彼のブランドを紡ぐストーリーは、グローバリズムの中で様々な矛盾を抱えながら変化を止めない。それは希望であると共に、悲しみでもあるだろう。しかし、「芸術」は一瞬の輝きだからこそ、儚く美しいのかもしれない。この一連の話を意識すると、私たちの生活の一部となっている「衣服」には、もっと沢山の人それぞれの解釈が与えられる可能性が見えた。システムと均一化、グローバルと多様性。私たちは、一着の衣服から未来を覗く事ができる日がくるかもしれない。

-参照文献-

・i-D Magazine, Vice Media, 1999
・ We Margiera マルジェラと私たち メナ・ラウラ・マイヤー, 1999
・影響力の武器, なぜ、人は動かされるのか, ロバート・B. チャルディーニ, 1984
・グローバル化社会の光と影 -ヒトの役割からみた景観図式-, 海老澤栄一, 神奈川大学国際経営研究所, 2010


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