見出し画像

サミュエル・ピープスの日記を読む(0)

解説:原田範行(慶應義塾大学教授)


連載開始にあたって

 革命と動乱のイングランド17世紀。この時代に、生涯の大半をロンドンで過ごし、国会議員にして海軍大臣、王立協会総裁を務めたのが、サミュエル・ピープスである。だが、ピープスの名が一般によく知られているのは、むしろ、1660年から69年にかけての10年間に彼が綴った膨大な日記によってであろう。日記文学といえば、日本にも、例えば平安時代の『土佐日記』や『更級日記』、近代に入って永井荷風の『断腸亭日乗』といった傑作がある。だが、ピープスの日記には、これらに劣らぬ抜群の面白さがある。そもそも彼は、自分の日記が読者に読まれることのないよう、速記体を応用した暗号で記した。複雑な政治情勢、緊張した国際関係の舞台裏、自らの率直な感情吐露、とても公にはできない自身の秘め事などが、それゆえ赤裸々に綴られていて、思索や人生の記録としても、社会的歴史的記録としても、かけがえのない一級品になっているのである。

 今回から始まる連載では、毎月、このピープスの日記を新訳(および注釈)とともにご紹介していく予定である。もちろん10年に及ぶ日記だからそのすべてを、というわけには行かない。摘録という形で概ね半年分を毎月ご紹介して、合計20回で10年分に至る、という計画である。

 日記の始まりは1660年1月1日。国会議員を中心としたいわゆる議会派が主導したピューリタン革命によって国王チャールズ1世を1649年に処刑したイングランドは、その後、議会派の首領オリヴァー・クロムウェルを中心とする共和制となった。クロムウェルは護国卿としてイングランドとスコットランド、アイルランドを独裁的に統治する。なにしろクロムウェルは、軍人としての才覚に秀でていて強かったのである。ところがこのクロムウェルが1658年に病没し、息子のリチャードが護国卿になると、途端に国の行方が怪しくなってくる。各地には有力貴族がいて国政をうかがっているし、王党派も多い。ヨーロッパ大陸を転々としていたチャールズ1世の嫡子(後のチャールズ2世)は、王政復古に意欲満々である。内政の混乱に乗じてイングランドに攻め込もうとするヨーロッパ諸国も少なくない。いったいこの国はどうなるのか、そのうち解体してしまうのではないか――そういう市民の思いや危機感がイングランドに、とりわけロンドンに広がっていたのが、この1660年1月であった。

 このときピープスは26歳。むろん後の海軍大臣や王立協会総裁としての彼ではない。イングランド北部のノーサンプトンシャを地元とする有力貴族にして国会議員のエドワード・モンタギュのロンドン・オフィスを運営しつつ、財務省の下級官吏としての業務をこなしているにすぎなかった。家計のやりくりさえなかなかたいへんなほどの貧しさである。そんなピープスだが、驚くなかれ、日記をつけ始めたこの年、イングランド史の最重要事項として後に銘記されることになる王政復古に、直接かかわることになる。そういう自らの来し方行く末に思いをはせつつ、日常の仕事を精一杯こなし、焦ることなく、また諦めることもなく、淡々と、堅実に、この時代を生き抜いた一人の人間の記録が、ピープスの日記である。

1660年までのサミュエル・ピープス略伝

 サミュエル・ピープス(Samuel Pepys、【図1】)は、1633年2月23日、ロンドンの中心部、フリート・ストリート沿いのソールズベリー・コートに生まれた。このフリート・ストリートを東に進むと、ロンドン観光の名所の一つとなっているセント・ポール大聖堂の威容が姿を見せる。もっともその白亜の大聖堂が完成をみたのは1708年のこと。ピープス少年が目にしていたのは、中世以降、風雪に耐え、イギリス国教会設立時をはじめとする宗教的政治的混乱の時代を辛うじて生き延びてきた、いわゆる「オールド・セント・ポール」である(【図2, 3】)。そしてこの大聖堂は、ピープス少年とともにピューリタン革命を経験し、最後は1666年のロンドン大火によって灰燼に帰した。ピープスはその再建の様子を間近に見つつ、完成を目前に控えた1703年5月26日、70歳にしてこの世を去っている。


図1:サミュエル・ピープスの肖像画。ジョン・ヘイルズによる。1666年制作。手にしているのは自作の「麗しき隠棲」の楽譜。ナショナル・ポートレイト・ギャラリー(ロンドン)蔵。


図2:オールド・セント・ポール。1913年の復元図版(Francis Bond, Early Christian Architecture 所収)。出典はこちら
図3:1666年のロンドン大火に包まれるセント・ポール(ウェンシスロース・ホラー作、17世紀)。もともと中央部にあった大尖塔は1561年の火災で焼失。その後、西側(向かって左側)に、イニゴー・ジョーンズによる古典的柱廊が設けられ、ピープスも日々目にしていたことであろう。出典はこちら

 ピープスの父ジョンは、このフリート・ストリートで仕立屋を営んでいた。肉屋の娘であった妻マーガレットとの間には11人の子どもがいて、ピープスはその5番目であったが、兄姉はいずれも早逝しており、早くから一家の長子として育てられることになる。ハンティンドン・グラマー・スクールおよびセント・ポール・スクールで成績優秀だった彼は、奨学金を得て、1650年、ケンブリッジ大学に進学。同大学モードリン・コレッジの給費生として、54年に学士号を授与されている。ケンブリッジ大学モードリン・コレッジは彼にとって終生、大事な母校となった。

 ところで、Pepysと書いて一般に「ピープス」と発音するこのピープス一家には、かなり長く幅の広いファミリー・ヒストリーがあって、われらが主人公のサミュエルにも実に多くの親類縁者がいた。同姓同名の「サミュエル・ピープス」もいるし、「ピープス」ではなく「ペピス」もしくは「ぺプス」と発音する親戚もいる。仕立屋だった父ジョンの父、すなわちサミュエルの祖父トマスには、必ずしも誕生年がはっきりしないのだが少なくとも七人の兄弟姉妹がいて、彼ら、彼女らの子供たち、つまりサミュエルの父ジョンの従兄弟や従姉妹にあたる人々の中には、イングランド東部サドベリー選出の国会議員にしてアイルランドの首席裁判官を務めたサー・リチャード・ピープス(1589–1659)やケンブリッジ選出のやはり国会議員を務めたロジャー・ピープス(1617–88)、あるいは後に初代サンドウィッチ伯爵となるエドワード・モンタギュ(1625–72)らがいた。人はあるとき、自らの出自に関心を持つことがある。サミュエル少年もまた折に触れて、こうした親戚のつながりを意識し、その知遇を得ることになる。

 ピープスがケンブリッジ大学モードリン・コレッジを卒業した1654年、イングランドではクロムウェルによる独裁的な統治が続いていたが、政情は不安定で、クロムウェルは議会の解散と再招集を繰り返していた。優秀とはいえ、大学を卒業したばかりの青年ピープスに、しかるべき就職口が簡単に見つかるはずもない。そこに、今述べた親類の一人で、後に初代サンドウィッチ伯爵となるエドワード・モンタギュ(サミュエルの父ジョンの従弟)から声が掛かり、そのロンドン・オフィスの秘書になることとなった。モンタギュは、貴族で国会議員であったサー・シドニー・モンタギュ(1572頃-1644)の生き残った唯一の息子であり、彼の最初の妻にしてエドワードの母であったのがポーリーナ・ピープス(1581-1638)、すなわちサミュエル・ピープスの大叔母である。エドワード・モンタギュが生まれた1625年といえば、イングランドではジェームズ1世が亡くなって、息子のチャールズ1世が即位した年である。チャールズ1世は王権を重んじて議会を軽視した。その結果、オリヴァー・クロムウェル(1599-1658)を中心とする議会派による革命(いわゆるピューリタン革命)が勃発し、このチャールズ1世が処刑されるのは、1649年、即位から24年後のことである。時代は風雲急を告げていた。実際、エドワードの父シドニーは王党派であったが、他方、息子のエドワードは早くから議会派としてクロムウェルを支持。革命に際しても軍事的に大きな功績を挙げ、革命後に誕生したイングランド共和国の中枢を担ってクロムウェルによる政府を支える重要人物の一人となっていた。そのモンタギュ家の本宅はイングランド北部のノーサンプトンシャにあり、エドワードは当然、政治の中心地であるロンドンとたびたび往復を繰り返すことになる。クロムウェル政権も、重要人物であるエドワードを然るべく遇する必要があって、そのため、国政の中枢であるロンドンのホワイトホールにモンタギュのオフィスを設けることになった。そのロンドン・オフィスの運営を任せられる有能にして信用できる人物として、若きピープスが抜擢されたのである。その後ピープスは、モンタギュの紹介を得て、財務省(the Exchequer)の収税証書発行の任にあたっていたジョージ・ダウニング(1623–84)の書記官の職も担うことになる。大物政治家の秘書兼財務相の下級役人――それが、後に国会議員にして海軍大臣、王立協会(the Royal Society)総裁となるピープスの、社会人としての最初の経歴である。当時のイングランドに国王はいなかった。

 もっとも、社会人としてのスタートを切ろうとしていた青年ピープスにとっては、仕事のこと、社会のことのほかにも大事なことが少なくとも二つあった。一つは、エリザベス・ド・サンミッシェル(1640–69、【図4】)との結婚である。1655年の結婚当時、エリザベスはまだ14歳。フランスのユグノー教徒でイギリスに亡命していた父アレグザンダーの娘で、貴族の末裔ながら貧しい暮らしをしていたという。おそらくは大恋愛の末の結婚だったと思われるが、自らの生計の資もおぼつかないピープスにとっては、たいへんな冒険であったにちがいない。もう一つは、膀胱結石の手術。彼は早い時期から、激しい痛みを伴うこの病に苦しんでいた。母のマーガレットも末弟のジョンも同様の病気に苦しんでいたらしい。ピープスは、1658年3月26日、覚悟を決めて外科医トマス・ホリアーの手で結石摘出の手術を受ける。まずは成功。彼はこの日を記念日として後々まで感謝することを忘れなかったという。もっとも、麻酔も消毒も十分でなかったこの手術の後遺症は、後々、ピープスを苦しめることになる。ふだんは元気いっぱいで食欲旺盛なピープスだが、寒くなると傷口が痛み出したようで、そのことは日記にもたびたび記されている。ひょっとするとピープスに子どもがいなかったことの原因もこのあたりにあるのかもしれないが、詳細は不明。

図4: エリザベス・ピープス。ジョン・ヘイルズの17世紀の肖像画を銅版画としてジェイムズ・トムソンが復元したもの。出典

 ピープスは、1660年1月1日、日記を書き始めた。なんといってもその最大の理由は、国の存亡にかかわる危機にあったと言ってよいだろう。独裁的ながらもイングランドとスコットランド、アイルランドを護国卿として統治していたオリヴァー・クロムウェルが1658年に病死し、その息子リチャードが護国卿を継ぐと、たちまち国政は大混乱に陥った。リチャードの政権は1年も持たずに瓦解。国会もあるのかないのか分からないような状態で、イングランドは、そしてロンドンは、統治する者が誰もいないというというような大混乱に陥ったのである。もちろん混乱収拾の芽がなかったわけではない。ひとつは、スコットランド駐留軍の総司令官であったジョージ・マンク(後のアルベマール公爵、1608–70)が、混乱収拾のためにスコットランドから南下を始めようとしていたこと。もう一つは、王党派の支持を集めていたチャールズ1世の嫡子(後のチャールズ2世)を、逃れていたヨーロッパ大陸から国王として招請し王政復古をおこなうということ。ピープスが日記で「ご主人様(My Lord)」と呼んでいるエドワード・モンタギュは、ピープスが差配するロンドン・オフィスから送られてくるピープスの暗号文による書簡からロンドンの情勢を見きわめつつ、秘かに大陸のチャールズ皇太子と連絡を取っていた。マンクもまたもともと王党派であったから、王政復古の方向へ舵を取る可能性は高かったが、しかし彼は、クロムウェルに信頼されてスコットランドを統治していた軍人でもある。マンクがどう動くかはまだ分からない――このような状況下にあって、ピープスは暗号による日記を書き始めたのである。

ピープスの日記とは

 暗号によるピープスの日記の原文は写真(日記冒頭部分の原稿であるItem 1を参照。ケンブリッジ大学モードリン・コレッジ[サミュエル・ピープス。ライブラリー]のサイト)のようなもので、基本的には速記体に依りつつ、多くの言語を混ぜ合わせている。身の危険を感じつつ国家機密にかかわる情報をモンタギュに知らせていたピープスだから、日記もまたそうならざるをえないのは当然と言えば当然だが、もちろんこの日記には、そうした政治的社会的情勢ばかりが記されているわけではない。妻エリザベスの眼を盗んで別の女性に懸想するピープスもいれば、無能な上司に呆れる彼の憤りもある。暗号は、それらをすべて含んで、1660年から69年にかけてのピープスの人生を赤裸々に映し出していると言えよう。そういう性質の原文が解読されたのは19世紀初頭のこと。最初は、誤読や不明点も多かったが、それが次第に精緻化され、1893年から99年にかけて刊行されたH・B・ウィートリーによるエディションが、なお多くの誤りを含みつつも、今日のピープスの日記に至る重要な版本である。もっとも原文がこのような性格のものだから、完全版というのはおそらく存在しえない、と言ってもよいだろう。そのことは、20世紀後半に刊行され、今日の定本となっているカリフォルニア大学出版局版の編者であるロバート・レイサムとウィリアム・マシューズも認めているところである。そもそも原文は、公刊を意図せずに記されたもので、あくまで自分自身の覚書としての性格が強いのだから、段落分けひとつを取ってみても、今日の刊本の形式になじまない部分が少なからずある。ピープスの日記にかかわる本文校訂は、今後なお続いていくことになろう。

 本連載におけるピープスの日記からの翻訳は、今述べたレイサムとマシューズによるカリフォルニア大学出版局版を底本としている。同じくこのカリフォルニア大学出版局版を翻訳の底本として全訳した臼田昭、岡照雄、海保眞夫の三先生による偉業(全10巻、国文社刊、1987–2012年)がわが国にはあるが、残念ながら既に絶版となっていることもあり、今回の連載における摘録の邦訳はすべて拙訳とした。もちろん国文社訳を参照させていただいたことは言うまでもない。また日本におけるピープスの日記の摘録には、既に堀大司編注による研究社版(1954年)があり、また、臼田昭氏による『ピープス氏の秘められた日記――17世紀イギリス紳士の生活』(岩波新書、1982年)や、岡照雄氏による『官僚ピープス氏の生活と意見』(みすず書房、2013年)のような優れた紹介もある。先達のこうしたお仕事に、この場を借りて心から敬意を表したい。

 それではピープスの日記のはじまり、はじまり。