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Borisインタビュー前編

KKV Neighborhood #110 Interview - 2021.12.07
Interview、構成 by 恒遠聖文

BorisとKiliKiliVillaが出会い、11月のシングル『Reincarnation Rose』に続き、2022年1月21日にアルバム『W』をリリースすることがアナウンスされた。
来年結成30周年を迎えるというBoris。これを機に、彼/彼女らはどのように誕生し、これまでどのような道を歩み、そしてどこに向かおうとしているのかをあらためて訊いてみたく取材を行った。

レーベルより与田太郎を交え、時にフロントマンであり、時にドラマー、そしてBorisのブレインであるところのATSUOに振り返ってもらう。

―長い付き合いながらも知らないことだらけなんですが、そもそもバンドを始めたのはいつぐらいなんですか?  

ATSUO「高校1年の時ですね。高校生の時は所謂バンドブームで、パンクから入ってのハードコアという流れでした。そういったコピーバンドやったりいろいろやってましたよ」 

―やはりパンクからなんですね。 DEAD ENDのMorrieさんと付き合いがあったりしますが、メタルは?  

ATSUO「WATAとTAKESHIは当時からDEAD ENDは聴いてたみたいですけど僕は解散後に後追いで。 ほぼメタルは通ってないんですよ」 

―ただDEAD ENDはギリギリパンクの人も聴いてましたよね。  

ATSUO「当時はまだまだメタルとパンクははっきり分かれてたでしょ? 敵対してたぐらいだし」  

与田「今みたいに間を通る人たちはそんなにいなかったですよね」 

―GASTUNKくらいですかねえ。  

与田「GASTUNKはパンク方面からの支持が強かったです」 

―TAKESHIさんはかなりハードコアパンクがルーツにあると思いますが、WATAさんはどうなんでしょう。 

ATSUO「WATAは広島出身で、広島に来たバンドはだいたい観てるって言ってたな。出会ったころはハードロック、メタル寄りな印象でした。METALLICAやMOTORHEADの来日にも当時行ってましたね」 

―なるほど。パンクもいろいろある中でATSUOさんはどういうバンドが好きだったんですか?  

ATSUO「まずTHE DAMNEDで衝撃を受けて、初期パンク、Oi、UKハードコアへ流れていった感じ。パンク、ハードコアと同時にトランス・レコードとか日本のインディーも聴いていて、そこからBIRTHDAY PARYやポジパン、ニューウェーヴのダークな音楽に入ってって」  

―ATSUOさんの黒づくめのルーツはその辺にあるんですね。BIRTHDAY PARTYの話はここんとこよくATSUOさんとしますけど、思ってる以上に日本のポジパン・シーンに影響与えてますね。SADIE SADSとかめちゃBIRTHDAY PARTYっぽいし。  

ATSUO「SODOMもカヴァーしてたしね」 

与田 「BIRTHDAY PARTYは80年代中旬のポジパン勢とくらべるとちょっと早かったですよね。むしろBAUHAUSと同じタイミングで、先駆的だったんでしょうね。そのあとにSEX GANG CHILDRENやALIEN SEX FIEND、PLAY DEADが出てきますね」
 
ーそうですね。今、逆にBIRTHDAY PARTYってあんまり聴かれてない気がしますね。

ATSUO「BIRTHDAY PARTYからSTOOGESへ遡ったんだけど、DAMNEDは大好きだったし、どちらもSTOOGESをカヴァーしてますよね」 

―そうか、そこでSTOOGESに繋がってくるのか。

ATSUO「あと、同時にグランジ直撃世代じゃないですか、自分達は。NIRVANAにはそんなにハマらなかったんですけど、カート・コバーンも影響を受けていたJESUS LIZARDやMELVINSに凄いハマって、アメリカのオルタナティブ・ミュージックやヘヴィ・ミュージックを掘って行った感じでした」 
 
与田「SSTやシミー・ディスクが台頭してくるあたり、87年か88年ぐらいのアメリカですね」 
 
ATSUO「僕はその頃吉祥寺にあったワルシャワというレコードショップでバイトしてたんですけど、当時SMASHING PUMPKINSの『GISH』(1991) が発売になって」
 
―プレ・グランジの時代ですね。  
 
ATSUO「その頃はAMPHETAMINE REPTILE周辺のバンドが特に好きで。グランジやその辺りはオールドスクールなロックの再評価の流れがあったと思うな。王道のロックのね。MELVINSも根底には王道ロックのルーツがあって、KISSやMC5のカバーをやったりもしてたし」 

―PINK FLOYDとかもやってましたね。
 
与田「あれはアメリカでしかありえないサウンドですね」 
 
ATSUO「だから僕らもSTOOGESやMC5なんかのアメリカのバンドがルーツとして色濃いですね」  
 
―なるほど。それは垣間見えますね。そもそもBorisはATSUOさんが組んだバンドなんですか?  
 
ATSUO「メンバーとは大学で出会ったんですが、当時仲のいい友達が一生懸命ドラムを練習してて、じゃあ彼をドラムにしてバンドやろうかってとこから始まって。遊びで始めたバンドがなぜか30年(笑)。そのドラマーは去り、残った3人が続けたという」 
 
―ドラムがいたということは立ちヴォーカルだったんですね!
 
ATSUO「最初はそうです、ギターも持ってた時期もある」 
 
―昔のATSUOさんを知ってる人は、近年メイクしたりフロントに立って歌ったりするのは突然のことではなく、むしろ「昔に戻った」って言ってますよね(笑)。 
 
ATSUO「自分にとってはそんなに変化はないんだけど、はたから見ると突然に見えますよね。30年という活動の中で、ある意味自分のエグい部分をマスキングしながらTAKESHIやWATAのヴォーカルをプロデュースするような展開をしてきたんだけど、いつの間にかそっちの時間が長くなって」 
 
―なるほど。 
 
ATSUO「もうそっちの方がパブリックイメージにもなってるのかな?」


―『NO』(2020)で聴かせたハードコアパンク的な側面も新たな展開に見えつつ原点回帰なとこがありましたよね。

ATSUO「コロナ禍に入って自分と向き合う時間が長くなったこともあるし、いろいろな気持ちや指向の果てに去年の『NO』にたどり着いてる感じ。 戻ったと言うか先に進む為に」 
 
―あぁ、戻ったというか先に進むためにか……。ドラマーがいた時のBorisはサウンド的にどういう感じだったんでしょう。
 
ATSUO「最初からオリジナル曲指向でしたが、MELVINSのコピーやったり、AMPHETAMINE REPTILE周辺のバンドもコピーしたり。あとMC5とかのカヴァーも」 
 
与田 「最初のアルバムが出たのは何年なんですか?」 
 
ATSUO「最初は60分のCDだったんですよ。でもそれはシングルって言ってて(笑)」 
 
―60分なのにシングル (笑)。年表によると96年ですね。結成時のドラムが抜けてからはもう今のラインナップですか?  
 
ATSUO「そうですね。 結成当初から曲作りとかは僕がドラムを叩いていたので、ドラマーが抜けてもすぐライブもレコーディングもしていました。DIYな所はずっと変わらないですね、当時からレコーディングも自分たちでやってたし」 
 
―初期は大学内で活動してたんですか?  
 
ATSUO「学生の時はサークルのイベントにはなるべく出ないようにしてたかな。ライブハウスでも普通のブッキングで出るのが嫌だったので初期から自分たちの企画をやってました。MAD3やギターウルフに出てもらったり、坂本(TACOS UK)がやっていたギャラクシアンズにも出てもらった。企画は高円寺のGEARで始めて、もうワンフロア下の20000Vへ潜りました」 
 
 ―ATSUOさんのセルフ・プロデュース感覚は最初からなんですね。当時はみんなデモテープ送ったり、ライヴハウスのオーディションとかブッキングでスタートするじゃないですか。  
  
ATSUO「そうだね、日本の悪しき文化のノルマ制ってあるじゃない? 結局お金払うんなら自分の好きなバンド呼んで、赤字になる方が先につながると思っていたし。MAD3とかの周りで良くしてくれる先輩たちもいたし」 
 
―それが96~97年ごろですね。  
 
ATSUO「『ABSOLUTEGO』もその後のBAREBONESとのスプリットもMAD3に紹介してもらった三鷹のアイというスタジオで作って。だから東京のガレージシーンに多大な影響を受けてるというか」 
 
―そうなんですね。そういえば大学はTEXACO LEATHEMANとやGUINNY VAMPSと同じサークルですよね。じゃあ最初からノイズやハードコアの人たちとやっていたわけではないんですね。  
 
ATSUO「そうだね、TAKESHIが下北沢で働いていたこともあって、その繋がりで坂本や植地(毅/TACOS UK, ライター, デザイナー)とかと仲良くなって。その周辺にBAREBONESやABNORMALSがいたり」 

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―僕がATSUOさんと出会ったのが98年。99年に一時的にSUPERSNAZZのマネージャーをやってたんですが、その時にSNAZZとやりたいって言ってくれたんですよ。 
 
ATSUO「そう、企画に出てもらって」 
 
―その時から変わってないですよね。多くのバンドは口ではいろんなジャンルとやりたいと言いつつ、安住の地はあるんですよ(笑)。でもBorisはそれがなくて挑み続けている。ただ、そのころから在り方自体はポップでしたよね。  
 
ATSUO「 音はドロドロですけど(笑)」 


―打ち出し方がポップというか、記号性というかアイコニックなイメージもキャッチーで。そういえばMAD3が2000年にMIDIと契約してた時期にBorisもMIDIから出しましたよね?  
 
与田 「MIDIからも出したことがあるんですね!?」  
 
ATSUO「70分1曲、パワーアンビエント曲の『flood』(2000)というアルバムです」 
 
与田 「その時の担当は誰ですか? 」 
  
ATSUO「清水さんです」 
 
―清水さんは当時ゆらゆら帝国の担当だったんですけど、あぶらだこやMASONNAやBorisもMIDIからリリースしたんですよ。メジャーの会社でそういうおもしろいことがやる方が時々いらっしゃるじゃないですか? まさにそんな感じで。
ところでかなりざっくり括って失礼ですけど、Borisのサウンドは“ヘヴィーロック”と“アンビエント”の二本立てじゃないですか。そういうアンビエント的な側面は昔からライブでもやっていたんですか?  
  
ATSUO 「やってました。本当は『Heavy Rocks』(2002)と『flood』は一緒に出したかったんですよ、2000年くらいに。でも現実はなかなか難しくて。そういうレーベルの事情もあってリリースの時期がずれるというのはBorisにはよくありますね」 

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Boris - 2002
  
―じゃあ本来のヴィジョンとしてはBorisがもつ静と動のそれぞれの側面を同時に見せたかたっということですかね。 
  
ATSUO「本当はそうなんです」
 
―じゃあ年表でリリースを時系列で追っていても、ほんとは同時進行だったってものもあるんですね。 
 
ATSUO 「そう! リリース順が逆になったりとかもあって。レコーディングは同時にいくつも進行してたりするから」  
 
 
―1枚のアルバムの中でいろんな側面を見せるバンドが多いけど、Borisの面白いところは作品1枚づつ別でやりますよね。 
  
ATSUO「やっぱり一曲が70分あると分けないと出せないからね(笑)」 
 
―あ、そっか(笑)。 
 
ATSUO「だから僕らはベスト盤とか出しづらいですよね」  
 
与田「出せないですね(笑)。各所でリリースできる音源の長さもあるし。配信のプレイリストにするとかBOXセットですかね」 
 
ATSUO 「僕らはアンビエントな方向性に行くとその反動で速くてヘヴィーな方へ行ったり、常に両極が視界に入ってる感じです。活動においてもアンダーグラウンドから脱したいという気持ちと全部DIYでやりたい気持ちも交錯していたり」 
 
与田 「ディスコグラフィーにはそれがよく現れてますね」 
 
―Borisはアンダーグラウンドのままでいて欲しいという人もいたりするんですかね。  
 
ATSUO「それはわからないけどね。僕はリスナーやファンとあんまり話しをしたくなくて。求められてることがわかるのも嫌だし。もちろん感謝はしているのですが」 
 
― そうですね、ここまで期待を裏切りながら続けてきてますもんね。  
 
ATSUO 「結果的にそういう言葉になるかもしれないけれど、好きなことやってるだけなんですよ」  
 
―そうかもしれませんが、結果として期待を裏切りつつそれを上回っていくというのはなかなかできることじゃないと思います。  
 
与田「普通はできないですよね。アイデア先行では中身がついてこないだろうし、単純にクリエイターとしても自家中毒というか考えすぎたりしてしまうと思うんですよ。リスナーとしてもクリエイターとしても自然に成立していたらバランスとれますけど、でもそこでは確実に嘘はつけないはずなので。そういう意味では両極だけど、それを内包しているんでしょうね」 
 
ATSUO「リスナーとしての妄想から音楽の可能性が広がることもありますし、作り手のスキルや肉体的な制約から工夫と拡張が起こることもあります。でもなんだか道筋ってひとつに繋がってる、根底で繋がってるんですよね。何か自分にとってリアルな音というか。聴くにしても演るにしても自分にとっての快楽的な音に向かいます。現代ではジャンルにしても分断されてバラバラに捉えられてしまうから、その奥の繋がりが見えにくくなっていますよね」 
 
―エクストリームミュージックにしても、これはメタルかパンクかで分けたがったりしがちなとこありますしね。さて、好きなことを続けてきた中で、ある日突然ってことでもないですけど、2002年ぐらいにボリスは海外で火が付きますよね。国内ではロックのバブルが終わって多くのバンドが低迷していった時期だったと思うんですよ。そんな中で海外でのブレイクの最初のキッカケはなんだったんですか?  
 
ATSUO「最初にアメリカに行ったのが96年、そこで決定的に文化の違いを知りましたね」 
 
―なぜアメリカに?  
 
ATSUO「当時のいわゆるクール・ジャパン的なフェスに呼ばれて、キリヒトと2バンドで行って」  
 
―最初はクールジャパン的なやつだったんですか。そこに選ばれたのはなんででしょう。   
 
ATSUO「選ばれたわけではないですよ。キリヒトから話が回ってきてシンプルにその時海外に行くって動きが出来ただけだと思います。そこでジョー・プレストン(MELVINSやEARTHでもベースを弾いていた)のバンドっていうか彼のソロなんだけど、それと一緒に演ったり、KARPっていうオリンピア出身の、当時MELVINSの弟分と言われていたバンドと対バンしたり。シアトルでは後々Southern Lord Recordsをはじめるグレッグ(・アンダーソン)と、彼と一緒にSUNN O)))をはじめるスティーブン(・オマリー)の二人が観に来てくれてたり。この時のアメリカでの出会いが大きかったですね。この時に全部がつながったというか」 
 
―SUNN O)))とは盟友みたいなイメージがありますけど、そこから始まってたんですね。  
 
ATSUO「そう、インターネットのない時代は行動したら出会うべき人と出会う時代だったんですよ。アメリカでは真にロックが根付いているし、ライブをやると会わなきゃならない人は確実にそこに来る。そういう土壌がはっきりありました。ロックって海外の文化なので、その時代にそこにエントリーできたというのは以降のバンドの活動にとって大きかったと思います」 
 
与田 「活動の早いタイミングでアメリカの現実をはっきり感じてこれたことが大きかったんですね」 

―MELVINSの来日公演のオープニングアクトを日本でやったのが99年ですよね。そん時、ATSUOさんに会って「やっと夢がかなった」って言ってたの覚えてます

 ATSUO「当時、僕MELVINSのコレクターだったんですよ、日本一と自負するぐらい(笑)。ブートのライブビデオも海外から直接トレードして集めたりね。YouTubeのない時代に。同じようなミュージシャンが世界に点在していて少しづつ繋がっていったんですよ。Sunn O)))のやスティーヴン、ISISのアーロンもそうです。だから僕らの音の感じとかすぐ理解してくれるんですよ。そういうネットワークの中で認識されてリリースと共にサイケやパンク、ハードコアの人たちが興味を持ってくれて。その後にメタルの人たちも合流してきたんじゃないかな。Borisはそういった恵まれたタイミングで広がっていったんだと思います」 

―その頃の国内での状況を知りたいんですが、例えばワンマンやるとしたら下北沢 SHELTERでって感じですか?  
 
ATSUO「まだ下北にも移っていない。高円寺20000Vですよ」 
 
―日本ではそんな中、海外では火種がドンドン燃えていったわけですね。

ASTUO「あと、バンドがフットワークよく動けてたのが良かったのかな。基本的に伸るか反るかじゃないですか、そこにベットするしかない」  
 
与田 「それが出来る人もなかなかいないですけど(笑)」 
 
後編に続く

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Boris - 2003


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2022年1月21日発売 Boris 30周年記念アルバム『W』予約受付中
https://store.kilikilivilla.com/v2/product/detail/KKV-127

収録曲
01. I want to go to the side where you can touch… (5:24)
02. イセリナの神様は言葉 -Icelina- (5:18)
03. 数に溺れて -Drowning by Numbers- (4:16)
04. Invitation (2:56)
05. 未来石 -The fallen- (4:30)
06. 善悪の彼岸 -Beyond Good and Evil- (3:51)
07. Old Projector (4:38)
08. 知 -You Will Know- "Ohayo" Version (9:20)
09. 乗算 -Jozan- (1:25)
10. ひとりごと -Soliloquy- (6:19) 日本盤ボーナス・トラック


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