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株式会社ミュージックマイン30周年 代表取締役社長CEO 天野秀起インタビュー

KKV Neighborhood #219 Interview - 2024.6.8
取材・文=TAXIM
取材協力=東京・渋谷Yinega
同席者=与田太郎(KiliKiliVilla)、小林弘幸(ミュージックマインA&R)
山崎ごう(ミュージックマインA&R)

1990年代から2000年代、国内ミュージックシーンにおいて、既存の音楽ジャンルをいち早くトランスさせていたレーベルの代表、それがミュージックマインであることに誰も異論はないだろう。
90年代というポストバブルとハルマゲドンの時代にストリートから発生した日本のオルタナティヴムーヴメント――――予測不可能な集合と離散を繰り返しつつ増殖していくような運動性と、雑多な音楽性による発明のような作品群が、時代の追い風とともに大きなバズを生みだしていった。
ミュージックマインは、そんな時代の象徴的なレーベルであり、そのスキルとセンスを現代的に継承していくハブのような機能を持った存在でもある。
「ポストジャンルの時代」といわれる2010年代以降、その源流を辿っていけば、そこには間違いなくミュージックマインの功績がいくつも確認できると思う。
設立30周年を迎えたこの機会に、CEOの初インタビューというチャンスを得たので、みんなにもお伝えしたい。


ジャンクからはじまるストーリー


―設立30周年、おめでとうございます。ミュージックマイン代表取締役社長CEOの貴重なインタビューということで、音楽とビジネス、その関係値みたいなものを伺いたいと思っています。天野さんは情報があまり外に出ていないこともあって、ミスティックマンではあるんですけど、キャリア以前のポイントで言うと、同志社大学の学生だった1989年にソニックユースの初来日公演を手掛けていたりしますよね?

天野秀起(以下、天野) はい。89年の関西公演の京都ですね。

―ソニックユースは、大学のサークルで呼んだのですか?

天野 そうですね。その前年、ニューヨークに行ったときにたまたまライブを観たんです。Ritzっていう、1000人くらい入る中箱だったんですが、そこでなぜか楽屋に入っちゃって、サーストン・ムーアから電話番号をもらって帰ってきたんです。

サーストン・ムーアと 1989年 同志社学生会館前にて

―いきなり、すごい話ですね。ニューヨークはソニックユースが目的だったんですか?

天野 ソニックユースをはじめとした、スワンズやプッシー・ガロアといったバンドの音楽性は、当時なぜか「ジャンク」と呼ばれていて、そのシーンを見てみたくて学生旅行のノリでニューヨークに行ったんです。先日、スティーヴ・アルビニが亡くなりましたけど、アルビニがプロデュースした『Dial M for Motherfucker』(プッシー・ガロアのアルバム、1989年)は、すごい名盤でしたね。

―京都公演はサークル主催のイベントだったんですか?

天野 そうですね。企画・DRAC(サークル名)、主催・文連で大学の学館ホールでやりました。ぼくがいたサークルは文化祭では伝統的に喫茶店を開いていたんですが、それがそこそこ収益を上げていたんです。サークルには「文化団体連盟」、通称「文連」または「黒ヘル」と呼ばれるグループに所属する先輩や同級生もいて、学友会費とかいって、学生から徴収した予算がプールされてたりしていましたね。

―当時、天野さんは黒ヘルに代表されるような特定のイデオロギーってあったんですか?

天野 ぼくはないですね。でも、ポストモダンとかの哲学系の本なんかはよく読んだから、知識はあったし、実際、左派になる学生は多いんですよね。ぼくは文連の人たちは好きでしたよ。揉めても一応議論にはなっているから。「オマエなー!?」って、頭をビール瓶でボコボコに殴られたりしたけど、殴られるだけ、ぼくがちゃんと反論したってことでもありますからね。

―でも、ジャンクと呼ばれていたソニックユースのブッキングと黒ヘルとの相性って悪くないですよね。

天野 カウンターカルチャーという意味ではそうですよね。革命を音楽的に起こすか、社会的に起こすかの違いであって。ぼくはカウンターカルチャーが好きなんですよ。

―予算はどうしたんですか?

天野 文化的なことをやる分には文連経由で学友会が補助金としてその予算の一部を出してくれるんです。それがあればサークルの分と合わせてダブル予算でイベントができるので、ある程度の規模の興行が打てると思ったんです。そこで、この学園祭みたいなノリをちょっとひん曲げてみたくなったんです。

―それがソニックユースの初来日公演ということですか。バンドの誘致までのやり取りってどういう感じだったんですか?

天野 それはSUPERNATURAL ORGANIZATION(※1)の招聘ですね。
※1:80年代後半、渋谷に存在したカルトなレコード・ショップ。

ソニックユース東京公演のチラシ(資料提供 長谷川文彦)

―SUPERNATURAL ORGANIZATIONも同時期にオファーしていたということなんですか?

天野 たぶん、そうだと思いますよ。(ソニックユースの)日本盤を出されていたので。そこで、関東はSUPERNATURAL ORGANIZATIONで、関西は大阪にあるフォーエヴァー・レコードの東瀬戸(悟)さん、京都はDRACで公演を分けたって感じです。だけどSUPERNATURAL ORGANIZATIONの人とは、いろいろと大変なことがありましたけどね。

―京都公演の共演はボアダムスでしたが、これは天野さんのブッキングですか?

天野 そうですね。たぶん、そこでソニックユースははじめてボアダムスに出会ったんじゃないですかね。ソニックユースが日本のオルタナな音楽を好きになったのは、たぶん、そこからだと思います。少年ナイフも飛び入りしたりしましたからね。

こじらせた青春と関西アンダーグラウンド



天野 80年代後半、音楽のトレンドが自分の中でUKからアメリカに移っていくときで、アメリカのアンダーグラウンドロックが気になってしょうがなかった時期でしたね。

―当時の国内メディアに関連情報はまだあまりなかったと思いますが、ニューヨークで誕生したジャンクというマイナージャンルをどこで知ったんですか?

天野 サークル仲間や山塚(EYヨ)さんがまとめたと思われるコンピレーションのカセットテープのコピーがなぜかサークルにあったんです。それをみんなで聴いてました。ハーフ・ジャパニーズやバットホール・サーファーズ、ファントム・トゥールブース(Phantom Tollbooth)とか、どんなバンドかよく知らないけど、これはヤバイって。 京都だと優里奈レコードでオーダーするのですが入らないので、梅田にある東瀬戸さんがいたLPコーナーまで買いに行ってましたね。

―アメリカの音楽にシフトする前はUKのどんな音楽を聴いてたんですか?

天野 ぼくは世代がポストバンクだったので、ポップグループとかラフトレードなどからリリースされていたバンドが好きでしたね。78年にPIL(パブリック・イメージ・リミテッド)がファースト・アルバムを出したんですが、ぼくは中2だったから中二病にちょうどよくて、かなりハマって聴いてましたね。青春がおかしくなるには、もうこれで十分って感じでした。

―中2キープで、こじらせた音楽を聴き漁っていくわけですね(笑)。

天野 高校くらいまではそうでしたね。大学に入った頃から、ジャンク、ヒップホップ、ハウスといった、アメリカの音楽に興味が向いてしまったので、アシッド(ハウス)ブームが来るまで、UKにはあまり戻ることはなかったですね。

―レイヴ以降のダンスミュージックの狂騒で、またUKにスポットが当たりましたよね。

天野 とはいえ、90年代に突入したらまたヒップホップがヤバイことになったりして、そうするとまたそっちに引っ張られてしまうので、結局いくら金があっても足りないってことになるんですよ(笑)。

―ジャンクにはヒップホップにインスパイアされた楽曲ってよくありましたよね。ソニックユースにもそういう曲がありました。

天野 だから当時はソニックユースとLLクールJの違いはあまり考えていなかったですね。LLクールJをパンクだと思った感覚がありました。

―その頃の関西はアルケミーレコードも動いてたし、地元のライブハウスに行ったり、関西アンダーグラウンドにコミットするようなことはなかったんですか?

天野 (京大)西部講堂とか磔磔、CBGBとかでたまにライブを観たとか、そういうことは普通にありましたけど、のめり込むまでにはなりませんでした。ただ、TACOなどをやってた、(山崎)春美さんの大阪・江坂にあった自宅には出入りしていましたよ。

―え、それは興味深いですね。春美さんがちょうど音楽活動を撤退していた時期かもしれませんね。

天野 コーパス・グラインダーズのZEROくんとは、春美さんの自宅ではじめて会いました。当時、ZEROくんは春美さんの自宅に住んでいて、たしかデザイナーという肩書で紹介されましたね。ほかには、町田町蔵(現・康)さんもよくいましたよ。

―当時は春美さんの家がサロンのように機能していたんですね。

天野 何かの編集部を手伝ってと言われたりもして。

―え、編集されたメディアって何だったんですか?

天野 いや、だから、春美さんと付き合ってると、いま何やってるかわからないから。何かは手伝ったはずだけど、それが何に使われてるかなんてわからないんですよ(笑)。

―たしかに当時の春美さんは、よりゾーンに入っていそうですよね。

天野 あと、当時付き合ってたぼくの彼女が阿木(譲)さんのところでバイトしていたので、翻訳を手伝ったこともあります。

―え、それは何の翻訳をやられたんですか?

天野 音楽マガジン『EGO』に掲載された、ライナーノーツとかだったかな。阿木さんが複写してきた海外雑誌の記事なんかもやりましたね。そのときのギャラは、「音楽、聴きに来ていいよ」って、阿木さんのレコード・ライブラリーを自由に聴けるというものでした。ずっとサングラスをしてるような人でしたけど、芦屋の自宅にはレコードがいっぱいありましたね。

新しさとカウンターカルチャーな音楽を



―ソニックユースの京都公演をプロモートして、ジャンクで成功を収めた後は、そのまま就活に突き進んだ感じですか?

天野 そうですね。

―就職先は最初からリクルートだったんですか?

天野 そうです、新卒で。

与田太郎(以下、与田) 時期的にちょうど「リクルート事件」の直後じゃないですか?

天野 そう。リクルートという会社をその事件で知ったんです。週刊誌で事件の顛末を読んで「ここに入りたい」「ここは頭いいんじゃないか」って思ったんです。「リクルートは天才集団なのでは?」という認識でした。

―それで、東京に出てきたんですか?

天野 はい。

―リクルートの子会社だったリクルートフロムエーでは新規開発事業部にいたんですよね?

天野 最初は経理でした。その頃はバブルが天井打っていたときで景気がよかったんです。毎週火曜日発売のアルバイト求人情報誌『From A 』が、枠いっぱいに広告が入っていて、これ以上売り上げが伸びないということで、それなら週刊ではなくて日刊にするべきでしょう、とプレゼンしたんです。それが、なぜか謎の週2回刊となって、毎週金曜発売になる『From A to Z』の創刊(1989年)となりました。その流れで宣伝も大量にやることになったんです。

―その頃は新自由主義に移行していく社会背景があって、正規雇用ではなくてフリーアルバイター=フリーターを煽りまくっていたムードだったと思うのですが、当時の天野さんは非正規雇用のフリーターをどのように見ていたんですか。結構、フリーターを信じてもいたんですか?

天野 あれは雑誌を売るためのレトリックだし、「フリーター」というのは正規雇用ではない働き方を軽快に見せるワーディングの問題だとは思ってました。ただ、ミュージックマインとしては、その後バブルが崩壊して、会社がおかしくなったから、本格始動という感じでもありました。

与田 92年以降ですよね。ミュージックマインは94年スタートですか?

天野 やれって言われたのが93年で、スタートが94年でしたね。

―それは何をやれって言われたんですか?

天野 ミュージックマインを潰すのか立て直すか。

―ということは、リクルートの中に音楽事業部がすでにあったんですか?

天野 ありましたね。『From A to Z』のCMソングとしてつくられた「カーキン音頭」(河内家菊水丸のシングル、1991年)の出版などを管理する会社がすでにあったんです。

―「カーキン音頭」は当時大ヒットになりましたし、菊水丸さんの河内音頭は、音楽雑誌でもよく取り上げられていましたね。

天野 管理部門だからちょっと見ててよ、みたいな。ある意味なんでも屋みたいなことでもありましたが。

―そのとき、社名はすでに「ミュージックマイン」だったんですか?

天野 そうです。崎山さん(2022年死去)という人が命名者だったらしくて、ぼくの上司の道下さんの親友だったみたいです。立場的にはコンサルとしてうちの会議なんかにも顔を出していた人でしたね。

―そのとき、ミュージックマインの従業員は何人いたんですか?

天野 バイトの女性がひとり。

―え、なんかムチャクチャな感じですね。

天野 そんなにやることも多くなかったですからね。

―菊水丸さん以外にもマネジメントしているアーティストっていたんですか?

天野 マインドゲームスというバンドがいましたね。

与田 え! その頃、ぼくはUKプロジェクトにいたので、「CD出しませんか?」ってマインドゲームスに話をしに行ったことがありますよ。広告音楽をつくっている人がマネージャーをやっていて、渋谷ラ・ママでよくライブをやってたんです。ライブは3回くらい観に行ったことがありますね。

天野 ぼくも行ってましたよ。

―それは何年くらいの話ですか?

与田 ジャスト90年。

天野 売れそうな曲だったんですよね、マインドゲームスって。菊水丸は仕事としてやってたんですが、マインドゲームスはうちにモチベーションがある人がいたからやっていました。もちろん、原盤も扱ってましたね。それで、93年にその女性が辞めることになって、さてこのバンドも会社もどうしようかって。

―そこで、どういう判断をされたんですか?

天野 だから、こういう判断です(笑)。

与田 インディーレーベルにしようってことですよね。

天野 権利を預かるっていうことは、権利を0から産むってことなので、そこにタッチできるわけです。その器になるってことですね。0を1に変え続けられたら、権利は何らかの形で入ってきます。それが一応スキームとしてあって、実際には何をやるのかっていえば、当時ハマっていた音楽がいくつかあったので、それをマネジメントしていくということでした。

―それはリクルートの子会社という位置付けだったんですか?

天野 そうです。ただ、実はレーベル業は承認が取れていないうちにやってましたね。

―リクルートからですか?

天野 通るわけないですから。「テクノやります」って言ったところで、年商何千億って会社が、「いいね、それやろうよ」って言うと思いますか?

―そこは何か美しいストーリーはなかったんですか。「プレゼンに勝った、おれは」みたいな。

天野 そういうことはありませんでしたが、承認を取る前に進めていましたからね。

与田 でも、基本的には予算が下りるまでに簡単な企画書を出さないといけない、みたいな話はあるじゃないですか。

天野 それは、出してないですね。

―でも、そうやって隠密で進められるようなポジションにいたってことでもありますよね。やっぱり『From A to Z』の成功があってこそのムーヴというか、社内的に下っ端では絶対できないじゃないですか、そんなこと。

天野 いや、下っ端でしたよ。入社3年目とかなので。

―それはかなりヤバイ奴ですよ。いや、ひとつ聞きたいのが、ミュージックマインの会社沿革には「94年にサブライム・レコードからリリースをはじめる」と書いてありますが、それ以前にガセネタを手掛けたという噂があって、それは本当なんですか?

天野 大里(俊晴)さんの『ガセネタの荒野』(1992年)を読んだ春美さんから、文句があるからウチに来いって、なぜかぼくが呼ばれたんです。それで恵比寿にあった自宅に行ってみると、春美さんは別に怒ってもいなくて、「おれの本も出せないかな」みたいな相談だったんです。でも、リクルートから春美さんの本は出ないですよね。そうしたら、同時期にモダンミュージック(2)の生悦住(英夫)さんがガセネタの音源があるから出したいって言ってきたんです。話が進んでいくうち、次第に春美さんと生悦住さんが揉めはじめたので、ぼくが間に入っていたこともあって、最終的にはミュージックマインから出せるかもしれません、ということにしたんですが、そこをなんとか諌めて、結果的にミュージックマイン/サブライム・レコードからのリリース第1弾はケン・イシイになるというドラマはありましたね。
※2:東京・明大前にあった、Psychedelic、Avant-garde、Underground Musicを扱っていた専門店。2014年閉店。

ガセネタ / SOONER OR LATER CD

―ガセネタをやめてケン・イシイだったんですね。

与田 それはウチで出すのは無理ですって話をしたんですか?

天野 いや、生悦住さんのPSFレコードからのリリースという、当初にあった企画の形に収まりました。細かいところは全部ぼくがやると伝えて、春美さんと生悦住さんを踏まえて話し合いを進めました。これはご奉公みたいなことでしたね。その後に生悦住さんからの流れで北村昌士(※3)さんとも会うことになるんですが。
※3:音楽家、編集者、批評家。音楽雑誌『フールズメイト』の創刊、インディーレーベル「トランスレコード」創設、バンド・YBO2結成などで活躍。2006年死去。

与田 89~90年頃って、アングラ界隈の人たちがすごく落ち込んでいたんだと思います。みんな手詰まりにもなってきて、作品の出しどころもないし、お金もなかなか引っ張れないというときに、リクルートにおもしろい人がいるってことにはなったような気がします。北村さんのトランスレコードが本格的にヤバくなるのは89年頃からだった気がします。

―『フールズメイト』がクラブミュージックに重点を置いた『MIX』にリニューアルするのも90年なので、その時期に音楽トレンドの大きな転換点があるんですよね。

天野 ぼくにとって北村さんは伝説の人物だったので、本人に会えるだけで幸せでしたね。キング・クリムゾンの何枚目の何曲目がいいかって話を何時間も延々としていました。その頃、ぼくは東京にまだそんなに知人がいなくて、春美さんの家でもいろんな人を紹介してもらっていたのですが、その中におそらくナツメグ周辺にいた戸塚さんという人がいたんです。この人がヴォリューム・ディーラーズを紹介してくれたので、その流れで痛郎やZKレコード主催の井手(宣裕)さんともつながって行ったんです。

―ミュージックマインを立て直そうとしたときに、そこでアンダーグラウンドをやらずに、新しいものに向かったというのは、天野さんのビジネスマインドでもあるんですか?

天野 そうかもしれないですね。でもそこは最初から、新しいこと且つカウンターカルチャーでもあるものって決めてはいたんです。

―たしかにテクノはそうでしたよね。

天野 テクノをリリースするためのサブライム・レコードと同時に、井手さんのZKレコードをウチで引き継ぐという話も進めていて、レンチ『Wrench』(1994年)からはミュージックマインでやることになりました。

―それはレンチだからやろうと思ったんですか?

天野 そうです。よく話したのは、ボーカルのSHIGEちゃんですね。

与田 ZKやその傘下にあった「less than TV(レスザンTV)」を扱うにあたって、天野さんが原盤制作費を出すじゃないですか。その場合にプロデューサー的な立場の井手さんや谷ぐち(順)くん は会社的にはどういった扱いになっていたんですか?

天野 社員にするのは人事的にさすがに無理でしたね。契約上は業務委託という形です。月に定額を払って、レーベルのブランディングは変えずに一緒に制作するという感じでした。

―好きにどんどんつくってくれ、と。

天野 いや、何を出すかは最初に話し合いますけど、彼らは怒涛のように言ってきますからね。

与田 当時、ZKやless than TVの有り様を見ていて、常軌を逸していると思ってました(笑)。でも、梁山泊みたいにも見えてきたりして。そのうち小林(弘幸)くんまで入っていくから、この会社は一体何をやろうとしてるんだろう……っていうのは、そのときからずっと謎だったんです。でも今、天野さんの話を聞いていて、すごく納得がいきましたね。

光を見出す、天野のインスピレーション


―ミュージックマインの中にサブライム・レコードというレーベルがあって、レーベル内レーベルといった形で機能させていましたよね。でもそれって全部ミュージックマイン名義でリリースしてもよかったと思うのですが、それはなぜなんですか?

天野 まず、ひとりでやってるわけではないですから。スタッフとやってますからね。サブライムの山崎(マナブ)さんやZKの井手さんといった、一緒にやってる人たちがいるわけですから。それをミュージックマインという社名を使ってやってもそんなによくはならないですよ。むしろ企業名なんて隠したいものではないですかね。

―そういうセンスがあったということですよね。

天野 名前は一切出す気はなかったし、買う方にしてもその方がわかりやすいですよね。

―レーベル買いもやりやすくなりますよね。

天野 とはいえ、会社でもないのに、皆さんなんでそこまで一生懸命やっているのか、よくわからない部分もありましたけど。

―でも、ここだけはちゃんと管理しようといったポイントはきっとあったと思うのですが、どのようにしてマネジメントをしていたのですか?

天野 基本的に契約書は作成していました。基本、権利はミュージックマインにあるということですね。リリースするアーティストの選択についても、各レーベルとは一応コンセンサスは取っていましたけどね。

―コンセンサス取れてないような人たちがいっぱいリリースされていたようにも思えますけど(笑)。

天野 そうなんだけど、何人かに1人くらいは当たるんですよ。当てないといけないからね、ぼくは。だから、ぼくからプレゼンしたアーティストも少なくないです。

MANIAC LOVEで行われていたサブライム・レコードのパーティー

―天野さんから「これはやってくれ」と推したアーティストがいたんですか。それは具体的にいうとどのアーティストなんですか?

天野 例えば、ギターウルフとか。

小林 デモテープから見出した、(レイ)ハラカミくんもそうですね。

―デモテープは、日々ものすごい量が送られて来ていたんですか?

天野 送られて来てましたね。

―その中からハラカミさんのテープを見つけたときって、どのような状況でしたか?

天野 大量のデモテープを手あたり次第に聴きながら仕事をしていたんですが、ハラカミくんはやっぱり光ってましたね。まずはケン・イシイのリミックス(Flare「Curved Flow (Rei Harakami Path Mix)」1996年)を頼んで、そこで関係値をつくってから、単体のリリースに踏み切ろうと考えていました。そうしたら、ハラカミくんは酒飲みなんで、まずは飲むかってことになりましたね(笑)。


インターネット黎明期の衝撃


―天野さんはインターネットの展開もかなり早かったということなんですが、具体的にはどのようなアプローチがあったのですか?

天野 94年にミュージックマインのホームページと専用のダウンロード販売サービス「サーブレス」というものをつくりました。

―それはかなり早いですね。

天野 当時、これはかなり珍しかったみたいで、自宅にテレビの取材が来たこともありましたね。

―それは、大和ハウス(※4)にですか?
※4:東京都中野区大和町に存在した戸建てのシェアハウスの俗称。様々なアーティストから住居/拠点として愛用された。天野は初代管理人。

天野 そうです。ちゃぶ台の上にPCを置いて、座布団に座り、「ここが制作現場です」って(笑)。「クリックしてダウンロードをすると音楽が購入できます」とか言って取材を受けましたね。ぼくはテレビに出たくなかったので、同居していた大学の後輩に出てもらったんですけど。

―これは天野さんがプログラムをされていたんですよね?

天野 はい。当時、HTMLくらいは書けましたね。

―取材を受けるというトピックも含めて、天野さんのコンピューティングの展開に驚きました。

天野 もう、とまりませんでした。

94年当時のMUSIC MINE WEBトップ画面

―パーソナルコンピュータやインターネットってカウンターカルチャーじゃないですか。

天野 そうそう、一緒ですよね。だから、ミュージックマインをやってなかったら、ぼくはそっちに全振りしてたと思うんです。

―多分、そうですよね。

天野 3人くらいで中途半端にやってたので、どこか踏み切れずに、どっちがいいのか逡巡しましたね。

―その頃の大和ハウスの生活ってどんな感じだったんですか?

天野 リクルートの社員だったので、高円寺(中野区)に一軒家を借りて、夜中も土日もずっと稼働してましたね。だってリクルートには朝9時から夜9時までいますから。だから夜中は仲間と酒を飲んで、土日は個人的な業務をこなすという生活スタイルでした。パソコンを何台も買って、コンピュータに没頭しましたね。だって、そのための一軒家でしたから。

―新領域に対する期待の高さが伝わってくる話です。

天野 そうですね。ぼくにとっては、インターネット黎明期にあった核融合みたいなパワーは衝撃で、それはバットホール・サーファーズと同じくらいヤバかったんです。


地下倉庫からのスタート


―リクルートは音楽雑誌『ザッピィ』を97年に創刊させますが、そこには関係していましたか?

天野 リクルートにはRINGっていう事業提案コンテストがあって、ぼくがやったのはCDを付けるというアイデアだけです。創刊されて編集長が就くと、そこには編集長の意向が出てくるので、途中からぼくが構想していたディレクトリやカタログ的なものとは違くなってしまいましたね。雑誌って表紙で売れ行きが変わってくるじゃないですか。表紙を誰にするかで雑誌の運命が変わってくる。そのキャスティング権を編集長が持っているので、ぼくの出番はもうなかったですね。提案は通ったんですが、編集長はやらせてもらえなかったんです。

―それはなぜなんですか?

天野 そういうことが結構多いんですよ、ぼくは(笑)。0を1にするのはやるんですが、1を10もしくは10を100にするスキルが足りないって、みんな知ってたんだと思いますね。たしかに、ぼくが組織を動かしたらグダグダになりますから。そこはある意味、彼らの頭がいい部分ですよね。

与田 発明家ではあるけどもってことですよね(笑)。

―「こいつはカウンターやっちゃうから」ってことですね。

天野 仕事って半分くらいが人事ですよね。人に振っていかなきゃみたいな。編集長が何かを間違えたとかではないので、それならそれでやってみたらと思ってね。それをやると『PATi・PATi』みたいになってくるし、すでにあるものをもうひとつつくることにも意味が見出せなかったので、またミュージックマインに専念することになったんです。

―『ザッピィ』を発明した当初は、どういう音楽雑誌にしようと考えていたのですか?

天野 音楽業界とちゃんと組んで、記事が読めて、CD付きで音源も聴けて、プロモーションとして機能するようなもの。ラジオ番組とも連動していくようなメディアがあればと思ってました。 

―その『ザッピィ』とミュージックマインを持って、そのままメディアファクトリー(現・KADOKAWA)とのパートナーシップを結んだわけですか?

天野 というか、現場のオペレーションに徹したいってことで、経営をあまりやりたくなかったんですね。それで一回、メディアファクトリーに集約していこうと、坂元さんという社長(2023年死去)の下での合併となりました。当時は求人が減少してリクルートも厳しかったはずなんですが,景気とコンテンツは関係ないですからね。本業とは関係がないコンテンツが、別でもうひとつ走るからいいわけだから、求人はリクルートがやって、そうではないミュージックマインみたいなものは、別で固めた方がスマートだろうと、それでメディアファクトリーに移るのが98年ですね。

―リクルートのときって、リクルート本社の中にオフィスがあったんですか?

天野 ありましたね。新橋にあった地下倉庫をオフィスとして借りたんです。CDを出すことになって、在庫管理のスペースが必要となり、ボイラールームみたいな地下倉庫があったので、そこにパーテーションを置いてオフィスにして、部外者は入れないように工夫したんです。でも、ドアをパッと開けたら、こんな人たち(小林と山崎を指して)が30人くらいひしめき合っているわけですよ。「オマエはサイキックTVか!」って感じの髪型の人なんかもいましたからね。

―そんなことが現実にあるんですね(笑)。それで、そういった環境からスタートしたミュージックマインがメディアファクトリーに移っていくわけですが。

天野 藤原さんという後に初の民間校長で有名な人が起案した、今でいうニューズピックスみたいな学術的な出版社があったんです。その会社とミュージックマイン=出版と音楽で合わされば、メディアファクトリーとのパートナーシップもスムーズに進むのではないかという話になったんです。

与田 その時に井手さんと谷ぐちくんはどうしたんですか?

天野 ふたりは独立しました。

与田 そうだったんですね。ということは、メディアファクトリーに移ってからはZKとless than TVは離れていくわけですか。

天野 そうですね。井手さんたちは「ブラスト」って会社をつくって、ミュージックマインの隣のビルに部屋を借りてオフィスにして活動してましたよ。

与田 90年代後半はアンダーグラウンドロックがそれまでにあった感覚ではなくなっていきましたよね。音楽シーンのメインの舞台がライブハウスだけでなくなっていったんですね。

―クラブカルチャーが大きく入ってきて、音楽シーンに地殻変動が起こったということですよね。

与田 そうです。

天野 そういった意味でいうとミュージックマインは以前からどちらもミックスしていたと思いますね。

与田 井手さんや谷ぐちくんがやりたいこととミュージックマインの方向性が違ってきたとも言えますよね。小林くんはこの頃は何をやっていたんですか?

小林 ぼくはHot-Chaレコードを立ち上げるかどうかの時期でした。また、トランスカルチャーが第2フェーズに入ってきていて、ミュージックマインにも三村さんが主催していたcomma(カンマ)ってレーベルが出てくるんですよ。

与田 そうでしたね。

小林 勝手に(CDを)つくってましたけどね。編成会議なんてないから。

天野 あったわ! あのとき、レーベルコピーを出せつっただろ!

与田 そこから、シーンも混沌としていくわけですよね(笑)。

天野 この時期というのは、ぼくの意思はあまりなかったですね。でも、編成会議を通さずに出していくことも嫌いではないんです。ただ、ぼくは「赤字なんじゃないか?」って聞いてただけなんです。

与田 レーベル重要作ともいえる、Sugar Plant『Dryfruit』(2002年)はハタから見ていても大変そうでしたね。

天野 だって、あれ240万円も使っているんですよ。それが回収できるかどうかって、そんなことは一瞬でわかりますよ。

与田 当時、『Dryfruit』の制作を見ていて、これは無理だろうと陰ながら思っていました。それをどういう経緯で許していたのかが気になっていたんです。

天野 最初の予算は120万円でした。そうしたら、後から「240万円です」って小林くんが言ってきたんですよ。でも、払わないわけにもいかないじゃないですか。すでに動いた人たちがいますからね。

与田 もう、すべてが終わっちゃってますからね(笑)。


原盤権と責任、そして独立へ


天野 きっと、ミュージックマインを知っている人たちからすると、94年から2003年までのミュージックマインのイメージが大きいんですよ。なぜかというと、2003年にすべての資本関係を切って、すべての権利を買い戻したからです。要するに、完全にプライベート会社にしたんです。

―なんで2003年に独立しようと思ったんですか?

天野 うーん。

小林 いろいろ外野から言われたくなかったとかあるんじゃないですか?

天野 何を言われてるかはよくわかってなかったですね。ただ、何かしらリクエストがあったとしても、それはどうせリストラに決まってますから。

―ITバブルの崩壊もありましたからね。

天野 そういうこともあった、というのは理由として少しあります。ちょっと拡大思考は難しかったと思うんですよね、2000年代になってから。直感的に、大変化の予兆っていうか、音楽シーンを予見するのは難しかったですね、ぼくには。

―音楽関連のサービスだとナップスターなんかも出てきた時期ですよね。音楽ビジネスがまさにカオティックになっていったときでした。

天野 たしかに混乱期ではあったかもしれないけども、これまで手掛けてきたコンテンツを会社に置いていってしまったら、それらは散逸しちゃいますよね。それはアーティストにとっても最悪なことです。

―でもそこは、張っていく感じで、かっこいいですね。

天野 だって、そうなったら渋谷とか歩けないですよね。永遠にディスされ続けるわけですから。そんな人生はあまりにもキツいと思いませんか(笑)。 

与田 小林くんもその頃にいなくなったりして。

小林 そうですね。

―天野さんは、なぜ小林さんをクビにしたんですか?

天野 会社である以上、4~5人は残すわけですが、制作系は残しませんでした。 小林くんは別にどこかに行っても食べていけますからね。とはいえ、食べていけそうだからクビって論理ではないですよ。独立とか転職とか、スタッフも人生がかかってますから。多少は雇用を守っていかないとならないんです。


拡張するミュージックマインと「希望」


―天野さんは海外とのディールが早くて、ケン・イシイにしても、ギターウルフにしても、いち早く海外に目を向けていましたよね。その場合、アーティスト側の意見をまず聞いて動くのか、それとも天野さんの持つノウハウで海外レーベルを先にコーディネートしてしまうのかどちらだったんですか?

天野 アーティストの意見を聞きますね。でも、ぼくとアーティストの間にひとりいるんです。ごうくんや小林くんといったA&Rが必ず入ってますから。(長谷川)白紙が何を考えているかまでは、ぼくはちゃんと知らないですよ。ただ、いろんなオプションがあるから、そこは協力できますよって、チームに相談するんです。ミュージックマインには海外にコンテンツを紹介していくという理念が元々あったんです。そこは割と軸になっている部分ですね。

―海外レーベルとの最初のディールってケン・イシイさんですか?

天野 うん、そうですね。(ススム)ヨコタさんはちょっと不運で、ライセンスされていたドイツのレーベル、ハートハウスが潰れてしまったんです。その後、自身のレーベル「スキントーン」を中心にリリースを続けていきました。ハラカミくんはなぜかやりませんでしたね。スペインやアルゼンチンとかにいろいろと連れて行ってみたんですが、あまり興味はなかったんでしょう。

―メリージョイレコードからは、当時のアンダーグラウンド・ヒップホップのロウカスレコードの音源なんかもリリースしていましたよね。その辺も、天野さんが交渉されてたんですか?

天野 交渉はそうですね。ロウカスとはニューヨークで会いました。みんな10代だったかもしれないですね、レーベルの肥後くんも含めて。

―同時にメインソースなどのミドルスクールの国内盤も出していましたよね。

天野 本当はライセンス・レーベルってあまりやりたくないんですけど、肥後くんのアイデアですし、90年代前半のヒップホップをリリースして、ちょっとリニューアルしておくのもいいような気がしたんです。96年はロウカスと組んで、カンパニー・フロウをメインアーティストのひとつとして考えていたんですが、途中で解散してしまって残念でしたね。ぼくはアーティストのファースト・リリースをたくさんやりたいんです。そこはやはり0から1をやることがおもしろいから。日本のマーケットを拠点にするよりは、ハブになるようなものを拠点にして、ヴァーチャルな動きになっていくことを目指したいですね。

―そうしたときに、海外のインディーレーベルをロールモデルにしたりはしないのですか?

天野 ロールモデルにしたくても、日本ではもうかなり難しいですよね。人口も減っていきますからね。世界にモノを売るというよりかは、独自のファンクションを持ち続けることにモチベーションがありますね。ぼくはもう歳なので、若者がやるのであれば、多分そっちなんじゃないかなって気はしてます。だからやっぱり、カウンターカルチャーの勝ちなんですよ。そこには才能が集まってきますから。ファンクションを「オウンドメディア」と言ってしまうと、なんか「トヨタイムズ」みたいになってしまいそうですが、そうじゃない発想を広げていきたいんです。WEB3.0のような“非中心”のハブのような考え方ですね。

ーミュージックマインが持っているリソースがあれば、インターネットに独自センスの角度をつけていくこともできそうですが。

天野 httpだけではないプロトコルで、いろんなレイヤー上を見ていくと、みんながやっている会話はどれも違いますからね。いましているこの会話って、ネットワークには乗っていないですよね。インターネットがすべてつながるってことは、異なるレイヤーで異なる会話が行われてるってことなので、そういった意味で、各ファンクションにタコツボみたいな仕組みが必要になるような気がしますけどね。

与田 ミュージックマインがこれまでにやってきたことって、まさにそれですよね。「コレ、一体誰が聴くの?」って思わせるリリースがいくつもありましたからね。

天野 ヤバイやつがひとりいれば、10万人分届きますから。「レイ・ハラカミが好き」って、(長谷川)白紙が言ってくれるだけで、ぼくはもう十分って感じはあるんです。

与田 一般的には「コレ、一体誰が聴くの?」っていうものをやり続けるわけじゃないですか。なので、そこに価値を見出さないとやってる意味がないわけだし、結局、その行為が好きってことですかね?

天野 いや、もちろんもっと売れてもいいと思うんですけど(笑)。

与田 売れない理由って、この仕事をやってる以上、常に考えるわけじゃないですか。ぼくもインディー商売35年なので、それは考えます。世間的に当たったのは、ゴイステ(ゴーイング・ステディ)ぐらいです。ほとんどが数百枚程度です。では、その差というのは一体なんだって、もちろん日々考えます。じゃあ、「なんでこの仕事をやってるの?」って問われたら、「好きだから」でしかないわけですよ。

天野 当然、商売だから枚数だったり経済効果は考えますよね。でも、影響力という点で見てみると、例えば、シド・バレットはこれだけいろんなアーティストに影響を与えているわけだけど、それを枚数に換算できますか? だったら、そういうことでもいいかなとは思う。本当は困るんですけどね。

与田 だから数量とお金に換算できない領域が「音楽」というものにはあるんじゃないか、そういったテーマが音楽にはあるような気がするんですよ。

天野 刹那的に聴かれるものより、長く聴かれながら賛否両論の対象になっている作品の方が、ぼくは価値があると思っています。それはアーティストにとってもそうだと思うんですよね。moreruなんて「ポスト・ポスト・パンク」って言ってましたよ。じゃあ、パンクに戻るやんって。でもぼくは、moreruが大好きなんですよ。

ー設立30周年記念イベントが2デイズで開催されますが、意気込みをお願いします。

天野 新しいアーティストも出ますので、そこはきちんと観てほしい。それに、以前から活動しているアーティストも、みんな成功していると思うんですよ。ちゃんと名前が歴史に残っていますよね。ぼくは本当にすごいことだと思ってるんです。

与田 ミュージックマインじゃないとリリースできなかったようなアーティストも多いですよね。

天野 30年続いたってことは、100年続いた方がいいってことですよね。そうでなければ、10年でやめた方がかっこいい。ぼくの人生が終わっても誰かに残してほしい願望はありますね。

ー最後に今後の展望などを聞かせてください。

天野 世界が終わる方には賭けない。それは現在では立派なカウンターになると思うんです。クソみたいな世界は終わっていきますが、でも、ぼくは終わらない方に賭けたい。結局、ミュージックマインというのは、カウンターカルチャーを支持するスタンスだけが主軸にあって、ぼくにとってはそれだけが一貫性だったということなんです。

MUSIC MINE 30th ANNIVERSARY

MUSIC MINE 30th ANNIVERSARY

at SHIBUYA WWW / WWWβ
- DAY1
2024.6.14 FRI
17:00open / 18:00start
(ALL NIGHT)

- DAY2
2024.6.15 SAT
14:00open / 15:00start

https://www.musicmine.com/mm30th


LINE-UP

Ticket Information

ADV:¥7,500(DAY1/DAY2 EACH) tax in / + 1drink
e+
https://eplus.jp/musicmine30thanniversary/
ローソンチケット
https://l-tike.com/order/?gLcode=70449
Lコード:70449

各日限定枚数の販売です。入場券1枚につき1名様のみ有効です。規定枚数に達し次第販売終了。

1994年に国内の音楽レーベルの集合体として誕生したミュージックマイン(以下MM)が、今年設立30周年を記念したパーティーを開催する。30年間一貫して貫いてきたスピリットは、本当の意味でのカッティングエッジかつ、カウンターである音楽を量産し続けること。そしてDJカルチャーに見るような、現場からしか生まれない音楽だけをフックアップすること。

主に配したレーベルは、Sublime(テクノ)・ZK & Less Than TV(オルタナティブロック、パンク)・Mary Joy(ヒップホップ)・comma(サイケデリック)・Hot-Cha(ポストロック)などといった現在もその影響を海外も含め各シーンに及ぼしてる真にハードコアなレーベルばかり。そこからリリースされた作品群は誰も全貌が掴めないほどで1000タイトルを超える膨大なタイトル数に上るのだが、代表的なアーティストを以下記しておくだけでも、このレコード会社MMの日本の音楽シーンに於いての特異性と先見性が垣間見れるのである。

以下、リリースアーティストの羅列になるのだが、ケンイシイ、ススムヨコタ、レイハラカミ、ギターウルフ、Shing02、Coaltar Of The Deepers、Co-Fusion、DMBQ、ASA-CHANG&巡礼、DJ KLOCK、WRENCH、sugar plant、DJ Quietstorm、DJ光光光、MOODMAN、TANZMUZIK、AOA、SOFT、UG MAN、Volume Dealers、Ahh! Folly Jet、CHEHON、DJ NOBU、長谷川白紙などなど枚挙にいとまがない。ただし、ここまでアンダーグラウンドでジャンルレスかつ、カオティックなリリースを、半ば自虐的に30年間も継続してきた影響なのか、各レーベルごとのパーティーはあったにせよ、何故か一度も包括的なMM主催のイベントを打ってこなかったのである。それはアーティスト以上に更なる混沌を産み出していった、キテレツな名物スタッフが多数在籍していたことによって、整合性がつかなかったこともあろうし、だがしかし、代表の天野をもってしても、このカオスは全く収拾がつかなかったのである。MMのリリースの垣根を超えたイベントは不可能である、とスタッフ誰もが自覚していたのである。

時を経て、今、MMは新しい局面を迎えている。近年の長谷川白紙のブレイクに象徴される、全く新しいアーティスト像がメジャーになりつつある音楽シーンに於いては、ジャンルレスは当然、サブスク前提の最初からカオスなリスナーに向けてのアプローチこそがより自然であるからだ。まさにMMがこの30年かけて培ってきた、ボーダーレスな音楽の聴かせ方。見せ方。それらがようやく奇人変人のものだけではなくなってきたのである。今こそミュージックマインは総括的な意味も込めて、ボーダーレスのイベントを自信を持ってお届けしようと思います。出演者の多くはMM設立の90年代から活動を持続し、そして改めて紹介したいラインナップとなりました。いよいよ設立30周年を迎え、更なる歴史を刻む第一歩となるツーデイズが開催されます。世代を超えて、音楽好きなら誰でも楽しんで頂けるはずです。
(Hot-Cha Records小林)

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