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超短編「読心」

堅く、厳しいそして冷ややかな彼女の眼差しが僕の瞳を貫抜く。でも、その瞳から彼女の意思は一片も感じられなかった。彼女が何を考え、何を欲しているのか、僕には全く分からなかった。

音のない凍えた時間が過ぎ去っていく。

お互い相手の瞳に映る自分の姿を凝視し、二人は瞬きもせず、静かに時だけが流れていった。

「ねえ」

不意に彼女がそう言ったような気がした。

「何」

僕の視線は彼女の視線から逃れるように宙を彷徨ったあと、また彼女の瞳に釘付けになった。

「どうしたの」

彼女はそう訊いているようだった。

「苦しい」

僕はひと言だけそう発すると、開け放っていた瞳から自然に大粒の涙が流れるのを感じた。瞳が滴を生み出すのか、涙という滴が瞳から頬にただ移動するだけのことなのか分からなかったが、僕の顔は次第にくしゃくしゃになっていった。


彼女と出会ったのは5年前のことだ。街にはクリスマスを祝うネオンが輝き、人々が皆浮かれている時だった。さびしいホテルの一室で僕は一人の客として、そして彼女は一人のコールガールとして二人は出会った。二人はすぐにお互いの寂しさを感じとり、妖しい行為も淫らな囁きもないまま、服を脱ぎ、裸になって長い時間抱き合った。

「どこかに行こう」

沈黙を破るように僕は言葉を発した。

「うん」

そして翌朝、二人は旅に出た。都心から近い鄙びた温泉宿に逗留し、海の幸を食し、そして激しく愛し合った。旅から帰ると、僕は彼女の家に転がり込み、彼女と一緒に暮らすようになった。

1年後、生活のために僕は職を変え、単身で京都に移り住むことになった。月に1度は彼女が京都に訪ねてきた。でも暫くして、僕は仕事で体調を崩し、職場に行くことが出来なくなった。彼女と出会ってから5年が経過していた。5年の間、二人の間には愛があった。いや、僕がそう信じていただけかもしれない。会社を退職し、彼女の家に舞い戻ってみたものの、僕の収入が途絶えてから暫くして二人の関係はぎくしゃくし始めた。そして彼女は外に男を作った。僕は自分自身を否定し続け、自分に対する苛立ちから情けないことに彼女に暴力まで振うようになっていた。結局、僕らは別れることになった。その後、僕は実家に戻り、現実逃避からすべての人を自分の周囲から遠ざけ、両親が他界した後、僕は絶望的に一人になった。


ある日、突然荷物が届いた。
梱包を解くとそれは見慣れた、そして僕が愛した女性の顔が描かれた絵だった。額装を裏返すと「読心」とタイトルらしきものが書かれている。絵の中の彼女は僕のことを眼鏡越しに冷ややかに見つめている。その視線は僕の心の奥底を覗きこむように、そして軽蔑するように僕を凝視していた。僕にとってその絵を目にすることはかなりしんどいものだった。彼女の意図は僕を懲らしめることだったのかもしれない。僕は段ボールにその絵を押し込むと押入れの一番奥にしまい込み、その存在を忘れようとした。


「今、何考えてるの?」

絵の中の彼女が呟く。

「それだけ見つめていてもわからない?」

僕の素っ気ない返事に彼女は、

「分からないわ。あなたの心の中はずっと分からなかった」

今日ある決心のもと、僕は押入れから彼女の絵を引っ張り出し、適当な場所を見つけそれを立てかけた。今でも疑問だ。なぜ彼女はこの絵を僕に送ってきたのだろう?彼女は画家の前でポーズをとり、「読心」というタイトルを考え、わざわざ絵を送ってきたのだ。何らか意図があったのだろうが、僕がいくら考えてもその答えは見つからなかった。
久しぶりに彼女と対峙した。彼女はじっと僕を凝視している。突然、僕の脳裏に彼女との思い出の日々が甦る。楽しかった日々、お互い抱き合って泣いた日々、そして二人とも人生に迷って苦しんでいた日々など。どのくらいその絵を見つめただろうか。彼女の瞳は嫌というほど僕の心に突き刺さった。そして深く僕を傷つけた。

絶望の中、僕はやっとのことで立ち上がると、椅子の上にのぼり、鴨居にぶら下げたロープを手にとって首にかけた。心が茫然としている。今から死ぬんだとおぼろげに思いながらも死の決心が定まらない僕の視線は焦点が定まらないまま宙を彷徨う。不意に彼女の絵を見下ろした。彼女の視線は足元にあった。不思議なことに僕を蔑んでいた彼女の視線がなぜか柔和だった。上目遣いに僕に何かを訴えかけているようだった。彼女が分からなかった僕の心は、僕自身にも分からない。寒々と更けていく夜の帳の中、自分自身のことさえわからないまま、僕は誰の気にもとめられず、この世から消えていくのだろうか。

再び彼女の瞳を見る。眼鏡を鼻先にずらし、上目遣いに僕を見ている。その目は最後の最後まで僕の心を読み取ろうと努力しているようだった。

「あなたの心を読んでみるわ」

そう呟く声が聴こえた。僕は胸が張り裂けそうな気持ちになった。両腕に込めた力を緩め、ロープを首から外し、椅子から降りると腰が抜けるように床の上にへなへなとしゃがみこんだ。

気が付くと僕は彼女の絵を抱きしめ、声にならない嗚咽を上げてオイオイと泣き叫んでいた。僕はやっと気が付いたのだ。心の底から彼女を愛していたことを。そしてそのことだけが僕の心の中にはっきり存在することを。

「読心」

彼女に射抜かれて浮かび上がった心のストーリーを、僕は静かに、そしてゆっくりと読み始めていた。


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