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ありふれたカタストロフ - 『草原の実験』 感想


数日前にPrime Videoで『インターステラー』を観た。これがびっくりするほど好みではなく、口直しとしてなんとなく選んだのが『草原の実験』だった。


本作は、地平線まで広がる荒野の小さな家に父親と2人で暮らす少女の物語だ。

引きの固定カメラを多用して描かれる草原での日常生活は美しい。少女のゾッとするほど鋭い美しさが彼女の暮らす草原の果てしなさと絶妙に合っていた。この映画は何よりもまず、「草原で静かに暮らす美しい少女」という古典的でキャッチーな要素を存分に楽しむためにあると思う。そう、彼女は本当に美しいのだ。

しかし私はこの少女の名前を知らない。父親の名前も、それどころか作中に登場する全ての人物──といってもたかだか数人だが──の名前を知らないまま映画を観終えた。それはたまたま作中で彼らの名前が出てこなかったからではなく、そもそも本作が無言劇、セリフを一切使わずに進行する映画だったからだ。

私ははじめ、無言劇なのは彼女たちのリアルな日常生活を映すためだと思っていた。というのも、映画に出てくるキャラクターたちは往々にして"喋りすぎる"。あくまでフィクションとして魅せるために巧みな会話劇を用いているのだということは理解していても、あまりに出来過ぎていて辟易してしまう。私が映画に持つ苦手意識の一つだ。

私たちは日常生活でそんなにペラペラ喋らないだろう。ましてや、数人の人間関係しか存在せず、毎日がルーティーンに支配されている荒野での生活ならなおさらだ。帰宅した父の靴を脱がせ足を洗うのも、幼馴染の青年の馬に乗せてもらって荒野を駆けるのも、言葉は要らない。日々は淡々と続く。


しかしながら、次第に映画内の世界の「不自然さ」が気になり始める。何かこれといった出来事があるわけではなく、繰り返される画に、その平坦性にむしろ異様さを感じずにはいられなくなった。毎日会っているとはいえ、流石にまったく挨拶もせず、冗談を交わし合うこともなく朗らかな交流を続けられるだろうか?気心の知れた家族とはいえ、一切無言でともに食卓を囲むのは「自然」といえるか?

こうして、変わらずに繰り広げられる美しい無言劇に、私は徐々に違った"意味"を見出し始めた。

本作は草原での原始的な生活のリアリズムを志向しているのではなく、もっと込み入った、フィクショナルな"意味"があるのではないか?

一度このような見方に舵を振ってしまうと、もう「平凡で美しい分かり易い映画」という素朴な受容はできない。画面に映るあれもこれも、画面の構図や音響まで何もかもに隠された意図が透けて見えそうだ。

「"不気味"で"不可解"で"難解"」これが私の今作の感想として固まりかけていた。


ところが終盤、というよりラストで一気にこの評価が崩壊する。『草原の実験』というタイトルや、ロシア映画であることから察しはついていたが、あまりにもド直球に、クライマックスが訪れる。

まず空気の振動により窓ガラスが割れ、地響きが起こり、そして草原の彼方であまりにも鮮やかなきのこ雲が立ち昇る。

草原の彼方で起こった"実験"により、少女たちの家も、家畜も、生活も、生も、全てが飲み込まれてこの映画は終わる。ラストシーンは必見だ。

どこまでも美しい少女と美しい草原を映しながら進んできた今作は、それに匹敵するような美しさ──絶望的な美しさ──によって幕が降ろされるのである。


私はこのラストを観て、その圧巻の映像表現に目を見張りながらも、どこか冷めていた。

あー…そういうことね。それがしたかったのね。全ては"前振り"だったのね

意味を読み込もうにも不気味で不可解で難解なものとして私の目に映っていた作品が、最後の最後で、あまりにも「安直」で「分かり易い」ものに成り果ててしまったのである。隠された意味?そんなものありはしない。"これ"が意味の全てだと、もはや積極的に読み込む余地すら与えられずに、その眼前に突きつけられた。

あー…途中までは良かったのになー。…いや、分かるよ?分かるんだけどさー…


と、そのようなモヤモヤした気持ちで視聴を終えた。終えたのだが、それから色々と考えているうちに、ふと思い当たった。

私が今抱えているこのモヤモヤ、あまりに安直に物語が着地してしまったことへの落胆とも諦観ともつかないこの感情、それこそが本作の狙いだったとしたら?


それまで画面に惹きつけられ、これは凄く複雑で批評の"やりがいがある"!と思っていたものがカタストロフによって一瞬のうちに瓦解し、あまりにも安易な意味付けを余儀なくされるという悲劇、それ自体をさらに歯を食いしばって一段登ったところから批評性をもって眺めてみると、逆説的に本作の"安易ではない"意味が見えてくるのではないか。


私がこの映画を観ている最中に感じていたものは"全て"正しかったのだ。草原と少女の画を観て「美しい」と思うのも、執拗に淡々と続く無言劇に「それだけではない、ここには何かがある」と思うのも、あの結末に「そういうことかぁー」と思うのも、全てはこの映画の"手のひらの上だった"、そう仮定してみよう。

あまりに複雑で、意味を読み込むことが不可能であること、これは紛れもない、私たちの生きる「現実」である。

その「現実」が、たったひとつのカタストロフによって、どうしようもなく安直な意味を"読み取らざるを得なくなってしまう"という悲劇。

結末までの部分は、彼女たちの草原での穏やかながら異様さも感じられる暮らしは、決して「前振り」なんかじゃない。彼女は「実験の尊い犠牲」のために生きてきたわけじゃ決してない。ないんだけど、それでも、カタストロフ"以後"の私はそこに「前振り」という意味を読み取ってしまう。そんなの嫌なのに!

実際、この映画を最後まで観て、「これはのどかで美しい暮らしが核実験によって無に帰してしまう、その恐ろしさを訴えたかった作品なんだな」という解釈を避けるのは極めて難しいと私は思う。戦争を扱ったあらゆる媒体の作品が、多くの場合「反戦を訴える」という(あまりに明解な)テーマから抜け出せないのと同じだ。

この「複雑な現実をいともたやすく安直にしてしまう」作用こそが、カタストロフの本質ではないだろうか。それまで色とりどりに広がっていた意味付けの余地を無情にもべったりと一色に塗り替えていく。カタストロフの持つ重力は極めて大きく、我々がその重力圏から逃れることはほぼ不可能といってよいだろう。


例えば"Hiroshima",  "Nagasaki" という単語を、あるカタストロフに結び付けないて捉えることは極めて難しい。
現代日本に生きる我々により身に染みる例は、"Fukushima"だろう。

広島も長崎も福島も、「それの起こる」ずっと前からそこには生活があった。より豊かな意味があった。いや、今もたしかに"ある"のだ。その現実は変わらないのに、たったひとつのカタストロフによって、ある日突然に、あたかも意味が変容し固定化されたように我々には感じられる。いくら頑張って、以前のような意味を自分の中に保とうと思っても、これはもう「どうしようもない」。

カタストロフの作用を受けるのはもちろん場所だけではない。"3.11"や"9.11"は、いつもと何も変わらない単なる1日だったはずなのに、今でもそうであるはずなのに、それでもカタストロフの引力から逃れるすべはない。人物も、作品も、出来事も、言葉も、その他この現実に溢れるあらゆる事象が、いつカタストロフに襲われてもおかしくない。それは、それらが紛れもないこの現実に存在している限り「どうしようもない」のだ。カタストロフに曝される可能性を排除したいと願うのは、それが現実から綺麗さっぱり無くなればいいと願うことと同義である。


このカタストロフの有する──"現実の有する"といっても差し支えないが──「どうしようもなさ」の扱いが厄介だ。

「どうしようもなさ」は「どうしようもない」んだから、それに対して楯突いたってどうしようもない。その「どうしようもなさ」を長い時間をかけて認めた上で、どのように向き合うのか。それは私なんぞが答えられるものではないし、そもそも誰も普遍的な回答なんて出せないだろう。一人ひとりが人生をかけて答えていくしかないような類の問いのひとつかもしれない。

だから、せめて、まずはこの現実の「どうしようもなさ」から逃げたり組み伏せようとするのではなく、向き合って認めようとすること。それは一生をかけても認められないことなのかもしれない、そうだとしても、現実を生きる我々にとって、それしか道はない。


この途方もなく恐ろしい「事実」を、半ば逆説的に、この上なく巧みに提示してしまったのがこの『草原の実験』という映画であると、そう私は「解釈」した。
それがこの、複雑で不可解で不条理で豊かな意味を "持たせられる"「現実」への、自分なりの敬意と愛着の示し方だと信じて。




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