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今期アニメ感想メモ②『アイドルマスターシンデレラガールズU149』

続きます。

前回は3作品の抱き合わせnoteでしたが、今回はひとつです。今期の最高クオリティ演出アニメーションにして問題作であるところの『U149』の感想は長いので……。



《総評》
子供を「アイドル」という過激な仕事に従事させることへの倫理的葛藤が基本的にゼロで、怒りや失望で本当に観ていられない回が多くあったが、アニメーションとしての映像演出は常に最高水準で、ポジティブにもネガティブにもいっぱい泣かされた。毎話、観るまで評価が両極端どっちに振れるか分からないため、ある意味では今期いちばん楽しませてもらったアニメだといえる。


1話 すばらしい 岡本学監督、『無職転生』の人か…… 映像がうますぎる


2話 仁奈回 泣いた 外に出て街のなかを映してくれるの最高


3話(みりあ回)観た。
これはダメだろ。ボロ泣きしながら観るのは1,2話と変わらないけど、こういう涙は流したくなかった。大人の不注意と汚さで、子供を大人の醜さと悪意に晒しておいて、大人がその責任を取るのではなく、よりによって子供の無垢さと強さで解決し(たように見せかけ)てしまうことのおぞましさよ。「ほんとは怖かった」と小声で打ち明けても、赤城みりあは決して涙を見せない。そりゃあ、赤城みりあはなんて強くて良い子なんだと思うよ? 思うけど、それだけで終わらせてしまってはダメだろう。子供の輝きをめいっぱい描くことと、子供の非凡な強さに大人が依存してしまうことは違う。子供はあんなに強くないし、みりあのように強い子が仮にいたとしても、その強さをああいう形で発揮させてしまったことを周りの大人は深く恥じるべきだし、ましてやそれを美談のように描くべきではない。
1,2話では子供アイドル・児童労働の倫理的な危うさにはさほど気にすることなく視聴できたけど(それはそれでどうなんだという話はあるが)、ちょっとこれ以降、もう前話までのようにこのアニメを観れないかもしれない。
ゲーム本編でのしゅがはのことは大好きなので、余計に、彼女をこうした、単なるコメディのなかの「悪役」程度では到底収まらない、普通に強制解雇レベルのあり得ない行いをするキャラにしてしまったのがとても悲しい。プロデューサーもなに途中から切り替えてスケッチブックで応援してるんだ。ちゃんとしてくれ。2人を叱った第一芸能課のPも、「まともな大人」感を出してたけどダメだろ。そもそもなんでアイドルだけで撮影・配信させてる(そういう環境になっている)んだ。個人YouTuberでもあるまいに。
映像面はコンテも作画も演出も撮影も、とても良かったです。


4話観た。桃華回
岡本監督の画面作りの特徴として光の陰影をキャラクターに落とすときの色濃さが挙げられるが、今回は特にそれが極まりすぎて、3Dメガネ用の写真かってくらい変な撮影処理(?)になってて草生えた。

おはなしは……前回があれだったのでとても心配していたが、今回は……なんだろう、「むずかしい」。撮影処理のこともそうだが、劇伴無しでカットを繋いでいくシーンの間の取り方とか、桃華・ありす・プロデューサー3名の表情の演技を丁寧に追っていくコンテの切り方とか、そういう広義の演出面がけっこう異様で容易な(倫理的な批判などの形の)受容を拒むような、そんな不思議で静謐で荘厳な回だった。
「子供らしさ」とは、「自分らしさ」とは何かと思案する桃華を描くために、桃華の一人称ショット(ホラー的な魚眼演出を含む)が挟まったり、撮影カメラ越しの桃華のカット、撮影された自分の映像をラップトップ画面で確認する桃華のカットなどを並べていくコンテ。その意図自体はわりと分かり易いのだが、音響や間、撮影の演出などによってその力学が攪乱されて雲散霧消してしまう(これは褒めています、たぶん)。

『U149』は、キャラを引きで小さく映したときの簡易顔作画がとても良いと1話から思っているが、今回は特にその良さが前面に出ていた。バンジーで落ちていく桃華の顔、デカい橋の向こうに佇む桃華の顔。あと、バンジーのひもが空中にしなるように弧を描く画で、『オマツリ男爵』のルフィの腕を連想した。すき。

橋の手すりの所に座り込んでいる桃華が、ラップトップをたたんで両足のあいだに置くカット、ここで、あぁ、キャラクターに魂を吹き込むことに心血を注いでいる、いいアニメだな、と思った。

絵コンテ・演出の河原龍太さん、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』第2話の絵コンテ・演出を手掛けたひとか! ニジガクは1期の2話(かすみん回)がいちばん好きなんだよ……そうか……あの神回を作り上げたひとだったか……


5/6土
5話 的場梨沙回 みた。
梨沙やPの顔を正面から至近距離で捉えるショットを多用する絵コンテが特徴的な回だった。

駅ホームや電車内のシーンのコンテ・演出が特に決まっていて感動した。Pが姉に相談するシーンで公園の遊具に座らせる(=Pの子供らしさを強調する)演出は露骨だった。

おはなし的には久しぶりに不安なく観れて安心した。ひとりの人間を「パパ」として神聖視して崇拝し、すべての拠り所とすることの危うさを描くことは、メタに読んで、2次元アイドルキャラクターという何重もの偶像を神聖視するわれわれオタクへの批評ともいえるか? ありきたりすぎ?

ところで、Pが出産後・育児中の姉とやたらと親しいのはなんなんだ。ふつうに(というのも規範的で駄目だが)妻子持ち設定ではダメだったのか。炎上する? 自分の赤ちゃんがいると、Pの子供っぽい面や子供への接し方を少しずつ学んでいくストーリーに合わないとはいえるか。
ヴァリサのパパが描かれないように、Pの姉の夫も描かれない(まさかシングルマザーじゃないだろう)。こうして徹底的に「父」を排除することの意味はなんだろう。父なき世界で気高く強い少女たちを描くことで、どこに辿り着くのだろう。



5/9火

【低志会】2023 春アニメ なに見てる?

低志会の今期アニメ中間感想会で本作の倫理面がめちゃくちゃ批判されていたのを聞いて、どれも妥当な指摘だとしか思えなかったため、引きずられてじぶんの本作への印象も下がった……(他人の意見に影響され過ぎるのは自分がないようでダサい気もするけど、逆にいえば引きずられる程度のものしか元々抱いていなかったということでもある)


5/12金
6話 結城晴回 みた
まず当たり障りなく映像面を褒めておくと、今回もカメラワーク・構図・レイアウト・作画・撮影どれも良かった。「Tulip」ライブ映像がコマ送り静止画紙芝居になってるのは(後のライブシーンのための露骨な温存であることはわかるが)大丈夫か、もっと良く見せる方法はあったんじゃないかと思うけど。

晴って自分の意志でアイドル事務所に所属しているのではなく、「かわいい衣装を着てほしい」という親の意向でいやいやアイドルやってるとかいう激ヤバ事情だったのか。今すぐ辞めさせて存分にサッカーさせてあげろよ。(ライブ映像を見せて目を輝かせるシーンは洗脳にしか見えなくて怖かった。アイドルは宗教だからね。) てか、晴のその事情を今までプロデューサーが知らなかったのも普通にダメだろ。ひとりひとりに面談とかしてないんかこいつ。

「かわいいファッションが苦手なアイドルにかわいい衣装を着なければいけない仕事をさせる(ことでアイドル的成長をさせる)」という卑俗なプロットや、「男性プロデューサーがスカートを履いて勇気づける(?)」という打開策(?)とか、脚本の呆れてしまうところはいくらでもあるんだけど、とりあえずそういうのは置いといて、今回も含めて、けっきょくこのU149の小学生アイドルたちは、子供っぽくないというか、大人よりも大人になってしまっている子供だなぁと思った。

6話の具体例でいうと、晴と梨沙が口論になったとき、興奮して「俺は、みんなみてぇにアイドルやりたくてやってるわけじゃねぇんだ!!」と口走った晴が直後一瞬で冷静になって「……わりぃ、頭冷やしてくる」とつぶやいてその場を離れるシーンで、いやいやこんな子供いねぇよ(いたとしたら可哀想だよ)となった。だいたい、冷静になったから「アイドルやりたくてやってるわけじゃない」という〈真実〉を吐くことができたんじゃないのか。それを、局所的なドラマ性の演出に使えるだけ使って「一時の気の迷い」として封殺(or使い捨て)しようとする脚本にはほとほとうんざりさせられる。それはともかく、そのあとの梨沙の「察しが悪いわね。ひとりにしてって言ってんの」もそうだけど、こいつら精神が小学生じゃなさすぎる。「そうだ! 晴も梨沙も、『小学生』という記号に押し込められるキャラクターじゃない! 晴はこういう子だし、梨沙はこういう子なんだ!」という擁護の声が(主に歴戦のアイマスオタクから)聞こえてきそうだが、そういう話でもないんだよな。。いや、そういう話だとしたら、「U149」という小学生アイドルだけを集めた派生作品をつくって、こうしてアニメとしてみんなで消費している構造がやっぱりめちゃくちゃ悪質だよ。小学生のガワだけ被せて、中身は大人……よりも大人びた、「アイドル」用に最適化され鋳造されたファンタジックなナニカ、であるキャラクターたちを、かわいい!とか気高い!とか尊い!とかいって消費するのはちょっと自分にはできそうにない。まぁアイドルマスターという2次元コンテンツのキャラクターが「アイドル用に最適化され鋳造されたファンタジックなナニカ」である、というのは当然のこと過ぎるんだけど、その根本的な前提をまざまざと、いちばんイヤ~なかたちで提示させられるのがこのアニメだと思う。(アイマス・2次元アイドルコンテンツの醜悪さを暴き出している点はむしろ肯定的に評価できるかもしれない。)

彼女らは、中身が小学生じゃないからこそ小学生アイドルをやれている、というのはあり、すなわちアイドルというのは、大人でも普通の大人では出来ない過酷な存在であり、ましてや「普通の子供」になぞ出来るはずがない、だからU149の子たちはみんな、大人以上に大人びた、常軌を逸した子供たちなんだ、という強い思想を勝手に透かし見てしまう。『U149』は、「ふつうの小学生女子がアイドルとして輝く」というシンデレラストーリーではなく、もともと小学生らしからず大人びすぎていて(当人たちにとっては不幸にも)異常な子供たちが、その異常性ゆえにアイドルとして輝く」という話だ。この意味で、本作はじぶんには「子供アニメ」(「ロリアニメ」?)だとは全然思えなくなってきている。『U149』のキャラクターたちを素朴に愛することができているひとは、子供キャラが好きなんじゃなくて、外面だけ子供の、中身はアイドル消費に最も都合良く設計された異常存在のことが好きなんだよね。(むろん、これ自体は倫理的/規範的な「悪さ」には直結しない。) ……なんか、「女性VTuberを好きな人は2次元美少女が好きなんじゃなくて、外面だけ2次元美少女の、中身はオタク受けするように綿密にプロデュースされた生身の人間タレントのことが好きなんだよね」みたいな言い方になってしまった。。 両者はぜんぜん違う存在なのに、おもしろい。

家庭環境・家族との関係があまりよろしくない「かわいそうな子供たち」の逃避先・安全基地としてU149というアイドルグループ(事務所のあの部屋)があるのなら、アイドルものの皮を被った児童支援アニメとして良いのかもしれないが、残念ながらまったくそうではない。家庭に問題があるから別のコミュニティでその傷を癒す、という方向ではなく、むしろ、家庭に問題があるがゆえの非凡さ・子供らしくなさを利用/搾取してアイドル活動に従事させる構造になっている。やばすぎ。家庭環境由来のそれぞれの傷を治療したり、一時的に忘れさせて楽しい時間・健全な発達を与えてやるどころか、「傷」に依存している。まぁ、そりゃあアイドル産業は福祉ではないのだから、当然といえば当然だが……。「彼女たちに必要なのはアイドル活動ではなくて福祉だ」という、当たり前すぎる結論に行きついてしまう。というか、やってることは福祉とは正反対の搾取なのに、あたかも、「みんなと一緒に楽しく過ごせる場所」「子供の健全な成長をサポート!」みたいなツラしてるのがもっとも醜悪なところなんだよな。百歩譲って子供アイドルの存在を認めるとしても、それは福祉が必要な子供にやらせることでは絶対になくて、家庭環境にも学校環境にもめちゃくちゃ恵まれていて追加の福祉はまったく必要ないくらいに満たされている子供が、周囲から押し付けられることなく、出来得る限り自分の意志で、アイドル活動に従事したいと願った場合に、私生活最優先の必要最低限のアイドル活動をさせる……という非現実的な場合くらいだ。


5/19金 7話 古賀小春回 みた
デレマスPだった当時推してたわけでは特にないが、このアニメ『U149』のなかでは密かにいちばん好きなキャラであった小春回。みんな集まっているなかでひとりだけぼーっと惚けているひとを好きになりがちなので。

何話か忘れたけど序盤の話数でのカット

しかしふたを開けてみれば「みんなを笑顔にするお姫様になりたい」という欲望(無論それは最終的にアイドル礼賛へと結実する)はまったく理解できず、みんなを笑顔にとかどうでもいいから、小春ちゃんはひとりでふわふわした夢想をしててほしいと強く思った。マイペース系キャラでもなんやかんやで「ひとを笑顔にしたい」「輝きたい」等の社会貢献自己実現願望をデフォルトでインストールされているところが2次元アイドルコンテンツの嫌いなところ。

そこに目を瞑れば、単話としては小春らしいメルヘンチックなふわふわしたお話でまぁ良かった(悪くなかった)。大人の理不尽な都合を子供が被る面は薄かったし。イグアナのヒョウくんがずっと(人間でいうと)無表情みたいなムスッとした顔でいるのが好き。

まわりの人間は判で押したようにニコニコしてばかりのところでヒョウくんのどこ吹く風な佇まいに憧れる。小春さんはお姫様を目指すより「ナイト」?であるヒョウくんのようになってほしい。

動物ふれあいイベントでのヒョウくんぬいぐるみ販売はワロタ。こわくない? 自分だけの愛しいペット・親友が商品化されて大量流通する光景ってわりと悪夢的だと思うんだけど、独占欲というか、ヒョウくんとの一対一の閉じた関係を志向してないんだよな小春さんは。 のちの迷子パートで大量のヒョウくんぬいぐるみを抱えた子供たちがルパンのカモフラージュみたいになるのウケた。

爬虫類に苦手意識があったプロデューサーが最終的にヒョウくんを抱きかかえて(=同一化して)小春を迎えに行くプロットは、あからさまに、小春にとってのナイト=ヒョウくんと、あのプロデューサーを隠喩の次元で結びつけようとするものである。嫌らしいですねえ~。


控室のテントから、謎の桃色に輝く蝶を追って小春は外に出ていき迷子になる。正直じぶんには、あの蝶こそが小春をアイドル産業の檻から解放してあげられる救世主のように映ってしまった。きれいなものを追いかけることこそが、小春の根源的な欲望なのではないか? それは、みんなを笑顔にしたいという願望とは別物で、小春には、蝶を追いかけてすぐに迷子になってしまう(=〈社会〉から逸脱する)気質をこそ大切に育てていってほしいと身勝手ながら思わざるをえない。小春の「お姫様になりたい」願望はあきらかに自己肯定感の低さ、迷子になって誰にも見つけてもらえないときの孤独感のあらわれだろう。小春には、たとえ迷子になってもひとりで(あるいはヒョウくんとふたりで)何も気にせずにマイペースにのうのうと生きていけるような人間に育ってほしい。これはこれでめちゃくちゃマッチョな自己責任論っぽいのかもしれないけど、でも、「迷子」っていうのは子供のときしか経験できないものだ。大人になったら、ひとりになっても、それは「迷子」ではない。まわりの人間に縛られずにひとりで自分の生を大切にできるということだ。小春は迷子の才能があるんだから、大人になったら必ず自立できる。(しかし悲しいかな、この子たちは大人になれない、永遠の子供なのだ……)

たしかに子供の頃は、迷子の子供を大人がちゃんと包摂して見守ってあげられている社会があることが大切だけれど、その一方で、迷子の才能・個性はそのまま尊重してやるべきだ。(この点、今回の話はかなり良かったといえる。) というか、迷子になりがちな子供をそれでも常時保護・包摂してあげるGPS付きこどもケータイのような保育システムの具象化として、小春にはヒョウくんがついている、とはいえるだろう。ヒョウくんの偉いのは、普段は向こう側から勝手に抱きしめられて愛されるのみで、当人こそがいちばんマイペースに平然と舌を出したりしまったりしているだけで、緊急時にはご主人様(保護対象)を助けに働くところ。・・・こうしてみると、あまりにも優秀過ぎて人間の都合を爬虫類に押し付けてしまっているようで哀しくもなるが、「保護者」という意味ではヒョウくんとプロデューサーが同一化するのは必然といえる。別の見方としては、ヒョウくんのこのクールな佇まいに古き男のダンディズムを見ることもできよう。ただ、わたしはあまりアニメ内の非-人間キャラ(動物や無機物など)に自分たちオタク視聴者ポジションの投影はしたくない。イグアナはイグアナとして尊重したい。けど当の小春じしんがいちばん動物を周りの友達に擬人化しまくってるんだよな…… そもそもヒョウくんを「ナイト」と認識すること自体がそうだし。ここはむずかしいところ。人間中心主義の強化ととるか逸脱ととるか、どっちもありえるので。


6/4日 8話 千枝回 みた
最高アニメーションすぎる。こういうのがいいんだよ・・・
千枝ちゃんが暗がりでひとり佇んでるカットとか良すぎる。ほんと映像が素晴らしい。

ゲストの年長アイドル枠のつかさ社長もめちゃくちゃ良い動きをしていた。


6/8木 9話 龍崎薫回

2億点。こういうのが(略
最高すぎて特に何も言うことはない。のんのんびよりだった。にゃんぱー!!!

上司が「最近は色々と(児童アイドルには)面倒だからねぇ」的な、なにげに超重要っぽい発言をしていた気がする。会長がごり押ししてるだけで、他の幹部たちは児童搾取には反対なのか。


相変わらず影のつけ方が3Dメガネ風



6/15木 10話 屋上での初ライブ回
幹部のおっさんたち、社会倫理の最後の砦として小学生アイドルのデビューを阻止できなかったか……応援してたのに……
喫煙所に児童が入ってきて咳き込む、というかなりギリギリの描写までやっててすごいと思った。

アイドルとして事務所に所属させてしまった以上、彼女たちの自己実現や幸福のためにアイドルとして輝かせてやりたい、と思う気持ちはわかるのだけれど、そもそも小学生アイドルは(いくら彼女たち自身が望んでいたとしても)よろしくない、ていうか児童に限らずアイドルという産業じたいが本当は無くなったほうがいい、という根本的なところを誰も考えていない。そりゃあ業界人なのだから、その枠の外側をまなざすことは構造的に困難・不可能なのだろうけれど。
なんか反出生主義みたいだな。本来は生まれ(させられ)てしまうこと自体が良くないことだけど、一度生まれ(させられ)てしまった以上、死ぬこともできないから、それぞれの生を最大限幸せなものにできるよう全力で生きていくしかない……という構造。「一度生まれてしまった」ことの不可逆性と比べると、「一度アイドルとして雇用されてしまった」くらいでは十分にゼロに戻すことは可能ではあるが、まぁしかし彼女たちがものすごくショックを受けるであろうことは目に見えているのでそちらも心苦しい……。とはいえ、そこの葛藤があのプロデューサーなどはまったくないため、好きになることは出来ない。だからこそ彼女たちのプロデューサーをやれているのだろうけれど。


事務所での屋上配信ライブ、日常的?な慎ましいロケーションもあってとても感動はした。


Pの姉の子供がスマホ越しに観ていて、ライブ終了後には、その子供の姿を観るために、先ほどまで踊っていたアイドル達がスマホの周りに集まって「かわいい~」とはしゃぐ。これは明らかに、U149の配信ライブを観て楽しむファン、という構図がスマホという〈鏡〉を介して反射/反転しているのを意味する。……というか、「小さい(幼い)者が、より年長の者を楽しませる」という本質的なアイドル性についての主張が成されていると取るべきだろう。歌やダンスをいくら練習しても、U149のファンたちが彼女らに熱狂する理由は本質的には「子供がかわいいから」にほかならない。いや、そんなことはない。ちゃんとダンスのキレとか、努力の痕跡を見抜いて評価しているファンもいる!といくら反論をしたところで、その後の彼女たち自身が、より幼い乳幼児の自然な "立ち" 振る舞いに惹き付けられてしまっているという事実がそうした反論を空しくさせる。今回は成人組のアイドルたちが助言役として多く登場したが、大人アイドルと子供アイドルでは根本的に〈アイドル性〉が異なるということなのか、少なくともこの『U149』におけるアイドル性とは、「幼い者のありのままの姿がより年長の者をエンパワメントすること」なのだろう……。でも、しばしば彼女たちは、より幼い子供にもアイドル性を発揮してエンパワメントしているんだよな……。子供アイドルにおける母性と娘性というのは、あながち唾棄すべきネットミームのレベルで片付けられない根深い問題なのかもしれない。(ここに「妻性」も加わって三位一体を成すとさらに手に負えなくなってくるが。)

ライブ曲(ドレミファクトリー)も良かったけど今回のエンディング曲(ヒゲドライバー作)がかなり好き



6/27火
・11話 ありす回
「大人と子供の違いって、なに?」とかいう直球のサブタイトル
冒頭の上司と飲んでるPの赤らんだ顔が映画『傷物語』の阿良々木暦くんかと思った。沖縄料理店なのも要注目。

阿良々木P……


これは……まーじで咀嚼が難しい回ですね…… とてもヤバいことだけはわかるが、さて自分なりにどう評価したもんか……
めちゃくちゃ気合の入っている映像で誤魔化されてるだけじゃねーのか!? という気持ちは強い……
とりあえず岡本学監督には映画をつくってほしい。できればオリジナル作品を。

サブタイトルを受けて、最終的にありすが到達する「大人も子供もほんとうは同じ」という結論。とうぜんこれは、子供が言うぶんには良いが、大人が、それも子供を守る責任のある大人が言っては絶対にいけないことだ。作中でPにこれを言わせたり、明確に肯定させたりは(たぶん)ギリしていないところが、本作をほんとうにぎりっぎりのところで支えている気がする。とはいえ、あぁ結局そうなるのね……これまで積み上げてきた(問題大アリの)話数から一貫してはいますね。という残念な気持ちはある。ありすはまた「夢と仕事を一緒にしていいんだ!」とも両親に向かって高らかに言うが、これもまた、子供が言うぶんにはいいけど……案件である。冒頭の飲み会のいやーな上司たちの発言なども鑑みるに、この作品の思想は「子供と大人を分けて考えるのは(悪い)大人。それらが"同じ"だと信じるのが(善い)子供」ということだろう。むろんこれは自己矛盾をはらんでいるが、こうした構図を見出しているわたし自身に「大人」性を押し付けて逃げ切ろうとしているのかもしれない。なんもわからん。

これらすべてを、なんかめちゃくちゃ気合の入ったわけわからん高クオリティ演出によって強制的に「納得」させに来ているやべぇアニメ。ある意味で、アニメーションとして純粋であり正しい。


6/29木
・12話 最終回
トンデモ展開な最終回だったな…… 諸悪の根源たる会長さんの鶴の一声によって、なんかとんとん拍子に初ライブがセッティングされた。前話でありすが「大人も子供も同じ」と言ったが、要するに、この会長のように、大人の世界で最も権力を手に入れた大人(=大人のなかの大人)は子供じみた好き勝手な振る舞いが許される、ということだろう。(なーにが「可愛い子には旅をさせよ」だくそじじいが! ……まぁどうせその程度の思想のキャラが仕掛け人だとは思っていたので納得感もあるが。) 逆にいえば、大人になっても子供のように生きるには、権力闘争の頂点に昇りつめなければならないことを意味する。

ライブ出演が決まったあとの、新曲ダンスを練習するU149メンバーや仕事に奔走する社員たちの "子供じみた" やり取りをLINEのトーク調で見せていく演出もまた、大人の仕事が子供の仲良し頑張りムーブと同列に並べられていることを明確に示す。つまり、この『U149』というアニメのなかの世界には、結局のところ「子供」しかいないのだろう。「大人」のいない、子供だけの "夢" のような世界。

なんだろうなぁ…… これが、児童文学とかニチアサor夕方の子供向けアニメとして作られていて放送されていたのならば、すごく感動するか、少なくともこんなに反感を抱くことはないとは思う。でも、これは明らかにアイマスのオタク、または一般のアニメオタクの大人たちのためのアニメとしか思えないし、そうした「大人」に向けて、「子供」しかいない世界で「大人も子供も同じ!」という夢想を掲げてアイドルとして輝いていく子供を魅力的に描いて肯定する、という構図には乗れない。
けっきょくはいつものアイドルものなので、アイドルもの一般に対する苦手意識が本作にも適用される。最後、Pがみんなに「大人になったら何したい?」と聞いて、「アイドル」以外の選択肢を彼女たちから奪っている(ことに無意識である)のがおぞましかったし、逆に自身が「大人になったら」と訊かれて(これは矛盾でも逆説でもない。なぜなら彼はどう考えても「子供」だから。)「みんなの夢が俺の夢だ」と目を輝かせて答えるのも、うっざ~となった。


各話ごとに評価が上振れしたり下振れしたりと忙しい(楽しい)1クールアニメではあったので、せっかくだから各話の好き嫌いをまとめておきます。

1話(ありす回):最高
2話(仁奈回):最高
3話(みりあ回):最悪
4話(桃華回):かなり良い(難しい)
5話(ヴァリサ回):わりと良い
6話(晴回):悪い
7話(小春回):まずまず
8話(千枝回):最高
9話(薫回):最高
10話(初ライブ回):まずまず
11話(ありす回2):脚本 最悪/演出 最悪
12話(デビューライブ回):悪い

※いちおう言っておきますが、以上はあくまで各話の好みであって、U149のアイドルたちの好みとは無関係です。キャラは基本的にみんな好きです



全体的に、デレマスPとして自分なりに熱心だった頃は遠くなりにけり、って感じっすね……

「アイドルのアイドルしていない姿のみを描く」After20のアニメ化お願いします……!



むかしデレマスPだった頃のはなしを少ししているnoteはこちら。

俺達の少女Aはいいぞ……さいきん聴けてないけど……





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